本能寺の変を知った家康一行は伊勢湾岸の白子まで伊賀越えをしたと言うのが通説です。
ただそのルートに関しては甲賀ルート、伊賀ルート、大和ルートなど諸説あり真相はよくわかっていません。
ですが伊勢湾岸の白子に到着したのは確かだったようです。
その白子は北伊勢に位置しています。
で、その北伊勢についてはこんな史実が有るのがわかります。
引用開始(一部抜粋)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B0%B4%E9%87%8E%E5%BF%A0%E9%87%8D
水野 忠重(みずの ただしげ)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将、大名。水野氏当主。三河刈谷城(刈屋城)および緒川城主、後に伊勢神戸城主。実姉・於大の方は徳川家康の生母で、家康の叔父にあたり、徳川二十将の一人にも数えられている。
(中略)
『寛政譜』では家康の元に戻ったとされているが、これは間違いで、北畠信雄に属し、『織田信雄分限帳』によると、忠重は刈谷、緒川のほか北伊勢にも所領を持ち、都合1万3千貫文を領するとなっている[5]。ただし、家康の実の叔父という立場でもあって、従属関係は複雑であった。
引用終了
と言う事で水野忠重は本能寺の変の時に織田信忠に従って妙覚寺から二条御新造にいて、しかも家康に似た容姿だった為、家康の影武者も務めた事があったと言われるあの水野忠重が何故か無事脱出できた、と言うか「脱出と言うカタチを採らないと明智光秀とグルと思われてしまうから仕方なくそういうカタチにした」と言う感じにしか思えませんが、そもそも兄弟の水野守隆は安土城で明智光秀に供奉したため、戦後に居城を没収された位なので、明智勢が水野忠重を討つワケがないのですね。そして家康も。
その水野忠重が北伊勢に所領を持ち、そして家康は北伊勢を伊賀越え後のルートに使っている、つまり水野忠重の采配が見受けられます。
ただそのルートに関しては甲賀ルート、伊賀ルート、大和ルートなど諸説あり真相はよくわかっていません。
ですが伊勢湾岸の白子に到着したのは確かだったようです。
その白子は北伊勢に位置しています。
で、その北伊勢についてはこんな史実が有るのがわかります。
引用開始(一部抜粋)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B0%B4%E9%87%8E%E5%BF%A0%E9%87%8D
水野 忠重(みずの ただしげ)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将、大名。水野氏当主。三河刈谷城(刈屋城)および緒川城主、後に伊勢神戸城主。実姉・於大の方は徳川家康の生母で、家康の叔父にあたり、徳川二十将の一人にも数えられている。
(中略)
『寛政譜』では家康の元に戻ったとされているが、これは間違いで、北畠信雄に属し、『織田信雄分限帳』によると、忠重は刈谷、緒川のほか北伊勢にも所領を持ち、都合1万3千貫文を領するとなっている[5]。ただし、家康の実の叔父という立場でもあって、従属関係は複雑であった。
引用終了
と言う事で水野忠重は本能寺の変の時に織田信忠に従って妙覚寺から二条御新造にいて、しかも家康に似た容姿だった為、家康の影武者も務めた事があったと言われるあの水野忠重が何故か無事脱出できた、と言うか「脱出と言うカタチを採らないと明智光秀とグルと思われてしまうから仕方なくそういうカタチにした」と言う感じにしか思えませんが、そもそも兄弟の水野守隆は安土城で明智光秀に供奉したため、戦後に居城を没収された位なので、明智勢が水野忠重を討つワケがないのですね。そして家康も。
その水野忠重が北伊勢に所領を持ち、そして家康は北伊勢を伊賀越え後のルートに使っている、つまり水野忠重の采配が見受けられます。