快気分析

何か快適な気分になれるような記事にしたいです。

仕組みとアプローチ -  後北条派の上総武田氏庶流である真里谷信隆は那須に落ち延びる事に成功

2020-10-24 13:54:24 | 明智光秀
 上総武田氏は長南武田氏と真里谷氏に別れ、その真里谷氏は内紛で北条氏(後北条氏)系と里見氏系で内紛が起こります。
 その内の北条氏系である真里谷信隆は、信応に家督相続で敗れ、北条氏の所領である武蔵金沢(今の横浜市金沢区)に一時匿われますが、1538年(天文7年)の第一次国府台合戦の結果、信応は失脚し北条氏の下で再び真里谷氏当主に返り咲く事になります。
 なので当然ですが、1590年の北条征伐で北条氏が実質滅亡した後には真里谷信隆も討たれて当然なのですが、何故か那須に落ち延びる事が出来ました。
 と言う事は同じ北条派だった上総土岐氏の土岐頼春と、上総武田氏の武田豊信もまた落ち延びる事が出来た、と言う事だった考えて良さそうに思えます。
 落ち延びる事が出来た、と言っても房総半島の事ですから当時の状況では逃避行は無理であり、やはり家康が故意に落ち延びさせた、或いは匿った、と言う所ではないでしょうか。
 徳川勢が進軍して来た後には家康の懐刀である本多忠勝が最初は万木城に、その後に大多喜城で軍事拠点を構えます。
 本多忠勝による房総半島の制圧、そして里見氏への牽制には土岐頼春や武田豊信、真里谷信隆やその家臣らの地域支配ノウハウがかなり採用されたのではないでしょうか。

仕組みとアプローチ -  甲斐武田氏は滅亡したが上総武田氏は1590年まで残った

2020-10-24 09:32:29 | 明智光秀
 信長の織田勢による甲州征伐により1582年、甲斐(甲州)武田氏は滅亡します。
 当主の武田勝頼・信勝父子と桂林院殿は自害し、その他の一族、重臣らも多くが戦死または殉死したようです。
 しかしこれには諸説あり、一部は家康に匿われ、一部は上総武田氏の所へ逃れたとする見方も有るようです。

引用開始 3件(一部抜粋)

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%94%B2%E5%B7%9E%E5%BE%81%E4%BC%90

武田宗家の終焉

3月14日、浪合(長野県下伊那郡阿智村)に進出していた信長の元に勝頼・信勝父子の首が届いた。同日、依田信蕃は本拠の春日城に帰還している。その後、依田は織田信忠の元に出仕しようとしたが、徳川家康の使者から「信長が処刑を予定している武田家臣の書立(リスト)の筆頭に依田の名前がある」と言われ、密かに家康の陣所を訪れた。そこで家康から徳川領内への潜伏を勧められ、遠江に身を隠した[11]。ちなみに他にも武川衆や後の徳川四奉行といった多くの人材が旧武田家臣で家康に帰参していた成瀬正一のもとに潜伏している。
『信長公記』『甲乱記』によれば、3月12日もしくは16日には武田信豊が勝頼の命により小諸城(長野県小諸市)へ赴き、城代の下曽根浄喜(覚雲斎)に背かれて次郎や生母・養周院とともに自害した。『信長公記』『甲乱記』『甲陽軍鑑』によれば、小山田信茂は織田家に投降を試みたが信忠から「武田勝頼を裏切るとは、小山田こそは古今未曾有の不忠者」と言われ、3月24日に母と妻子、武田信堯、小山田八左衛門、小菅五郎兵衛らとともに甲斐善光寺(甲府市善光寺)で処刑され、郡内領は無主となった。
信玄の次男で盲目ゆえ仏門に入っていた海野信親(竜芳)は、息子の顕了信道を逃した後、自刃した。信道の系統は大久保長安の業績に絡み後世にその血脈を伝えている。


https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AD%A6%E7%94%B0%E6%B0%8F#%E4%B8%8A%E7%B7%8F%E3%81%AE%E6%AD%A6%E7%94%B0%E6%B0%8F

上総の武田氏
上総武田氏は武田信満の子・武田信長に始まる家系である。古河公方足利成氏によって上総国の支配を認められて同国を支配した。信長の息子・信高の死後、本家は庁南城に、分家は真里谷城に本拠を構えた。嫡流は地名を取って庁南氏(ちょうなんし)を名乗ることもあった。上総武田家最後の当主・武田豊信は地元の伝承では甲斐武田氏の武田信玄の三男・信之と同一人物とされており、織田氏による甲斐武田氏滅亡後に弟の仁科盛信の家族を匿ったとする説がある。以後、豊信は北条氏傘下の将として反織田氏・反豊臣氏路線を貫き、1590年に小田原征伐中の豊臣軍によって居城を囲まれると自害し、同氏は滅亡した。
一方、真里谷城の分家は真里谷氏(まりや/まりやつし)と名乗った。戦国時代前半には上総国西部から中部一帯を領有する大勢力となった。真里谷信清は古河公方足利政氏の子・義明が家督争いの末に出奔するとこれを迎え入れて「小弓公方」と名乗らせ、自らは「房総管領」を名乗ったと言われている。だが、庶出ながら一人息子であった信隆に家の実権を譲った後に正室から次男・信応が生まれると、「嫡出の信応を後継者とすべき」とする一派と「一度信隆を後継者と決めた以上は変えるべきではない」とする一派に家臣団は分裂した。


https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AD%A6%E7%94%B0%E8%B1%8A%E4%BF%A1

武田 豊信(たけだ とよのぶ、生没年不詳)は、戦国時代の武将。上総武田氏(庁南武田氏)当主。庁南城主(千葉県長生郡長南町)。武田清信の養子とされ、武田信之 (武田信玄三男)と同一人物と言われることがある。
(中略)
天正4年(1576年)、武田豊信は里見氏を離れ古河公方足利義氏の傘下に入った[2]。

天正10年(1582年)3月に甲州征伐により、甲斐武田氏が滅ぶと金井秀景(倉賀野秀景)が織田家滝川一益に斡旋したが、織田家には就かなかった。

小田原征伐
天正18年(1590年)に行われた豊臣秀吉の小田原征伐には中立もしくは後北条氏に味方したが小田原城に籠城したかどうかは不明である[2]。 このため、7月に豊臣秀吉の討伐軍に攻められて、徳川家康の旗本本多忠勝らと戦い敗戦。切腹したとされているが、一説には信濃国松代に逃亡し蟄居したとも言われる。長南町の大林寺に豊信の墓があり、天正18年に戦死の後葬ると伝わる[3]。落城後、嫡男武田氏信(上総武田氏)は西村(現在の茂原市永吉)に土着した[4]。

引用終了

 と言う説も有るわけで、一つは武田勝頼の親族や家臣らの一部が上総武田氏やその分家の真里谷氏などに落ち延びた可能性は否定できません。
 そして上総武田氏の最後の当主、武田豊信が小田原征伐の後に豊臣方になっていた徳川軍に攻撃されて敗死したとする説が有りますがそれだけでなく、落ち延びたとする説も有ります。
 確か万木城の土岐頼春も落城の後には特に首実検で確認されていないのでそれと共通しているような気がします。
 武田豊信、土岐頼春と親族や家臣の一部は、どうも家康が本多忠勝に命じて落ち延びるようにさせた、或いは匿ったと言う事なのではないでしょうか。
 そしてもう一つ、見落としてはならないのは最初の引用に有るように「依田は織田信忠の元に出仕しようとしたが、徳川家康の使者から「信長が処刑を予定している武田家臣の書立(リスト)の筆頭に依田の名前がある」と言われ、密かに家康の陣所を訪れた。そこで家康から徳川領内への潜伏を勧められ、遠江に身を隠した[11]。ちなみに他にも武川衆や後の徳川四奉行といった多くの人材が旧武田家臣で家康に帰参していた成瀬正一のもとに潜伏している。」と言う点です。
 どう見ても露骨に武田家臣らを匿ってますね。
 これらの優秀な人材が後に井伊直正の赤備えと言う精鋭部隊になって行ったようですが、これだけ露骨な匿い方をしたら流石に信長も気が付くのではないでしょうか。
 仮に気が付いたのだすると信長が家康の動きを怪しいと疑い始め、そしてどこかで討つ計画を持っていた可能性は有ったかと思えます。
 例えば信長が家康と重臣ら一行を安土城に招いて、その後に京都、堺に行かせたのも、家康ら一行を護衛する忍びの者(つまり信長が伊賀攻めで一部取り逃がした伊賀衆の残党)がどれだけ家康の徳川方にいるのか、などを観察する為も有ったのかも知れません。

仕組みとアプローチ -  武田、上杉、後北条による反織田3者同盟は何故成立しなかったのか

2020-10-23 18:22:00 | 明智光秀
 前回記事の続きです。
 織田勢があ甲州征伐で進軍した時に土岐頼芸が甲州で見つかった事は、やはり甲州(甲斐)武田氏、上総武田氏、上総土岐氏、常陸土岐氏の連携準備の為だろと考えているのですが、それで更に北条氏、上杉氏まで同盟に巻き込む事は構想としては有ったのかも知れませんが、現実にそれは成りませんせんでした。
 考えてみるとそうなるのも無理はない要素が多々有るのでわかる範囲で書いてみたいと思います。
 まず最初に上杉氏ですが、北条氏と手を組まなかった(組むのが手遅れになった?)原因として次の事が有ったと考えています。

 上杉氏から見ると北条氏は一度結んだ同盟を1572年に破棄した事が有ったのでもう信用できないと考えていた。
 当時の北条氏は中立よりやや織田氏寄り。なので急に織田方に寝返る可能性が有る。
 当時の光秀は未だ織田方の出世頭であり光秀の土岐一族と北条氏が上総で連携している事から考えるとやはり北条氏が織田方に与する可能性が高い。

 では北条氏から見て上杉氏はどう映っていたのか、ですが次の通りのように思えます。
 北条氏から見ると上杉氏は織田勢と戦った(1577年の手取川の戦い)事も有りそこと連携すると織田方に敵対する事になるのでそれは避けておいた方が無難。
 上杉氏が跡目争いで弱体化しているので同盟しても戦力になりにくい。
 また上杉氏の内紛で一部は敵方になびく者が出て来るかも知れない。

 以上の事から北条氏もまた上杉氏には接近していなかったのかも知れません。
 そうなると武田勝頼が考えたと思われる事とは、上総の武田氏をまず戦力に組み込む事、更に里見氏に敵対する勢力として上総武田氏と同じ立場の上総土岐氏とも同盟し、更には常陸土岐氏とも同じ土岐氏と言う繋がりで同盟関係になる事。
 そして更に1572年に武田氏と再び和睦した北条氏も誘い込んで織田勢に対抗しようとしていたのではないでしょうか。
 その北条氏ですがやはりそう簡単にはこの話には乗らなかったのでしょうね。特に織田勢と敵対する程の立場では無かったし、上杉氏とは敵対していた北条氏だったので上杉攻めを継続している織田勢とは敵対する意味が無かったはずです。
 それで武田勝頼はとりあえず上総土岐氏との連携でどうにかならないのかと言う方向で動いていた。
 ところが織田勢による甲州征伐の時に、土岐頼芸が上総土岐氏である土岐頼春の所か或いは、連携を深めていた北条氏の所にいたのではなく、土岐頼芸が武田方領内で発見されたのでした。
 この事が仮に信長の耳に入っていたとしたらどうなるでしょう。
 甲州武田氏、北条(後北条)氏、上総武田氏、上総土岐氏、常陸土岐氏と言う大きな反織田グループが形成される途中だと信長が気付いたとしたら、やはり信長の「対土岐一族系警戒モード」は全開となったではないでしょうか。
 信長は「いつの間にやら土岐一族による信長包囲網が完成しつつ有った」と思ったかも知れません。
 その証拠かどうかはわかりませんが、この甲州征伐の直後に信長は明智光秀を出雲石見に国替えして京都から遠ざけようとしたり、四国の長曾我部(長曾我部信親の正妻が土岐一族系)攻めを準備したりとまるで「土岐一族系勢力狙い撃ち」のような方針に激変したように思えます。
 そうすると当然ですが、西郷局(土岐一族系)を第一側室(築山殿亡き後は実質正妻)として迎え、更に土岐一族の流れを汲む嫡男も既に生まれている家康にも目をつけ始めたのかもどうか。
 やはり信長は家康を討つつもりで安土、京都など畿内に招いたのでしょうか。
 それとも家康に長曾我部攻めに参加させて「土岐一族系同士の共食いをさせようとした」のでしょうか。
 いずれにしても家康は畿内では死ななかったのでした。
 そして普通なら土岐頼芸は発見された後に上総土岐氏あたりに戻るのが普通かと思われますが、美濃の稲葉一鉄の下で過ごす事になりました。
 やはり甲州武田、上総武田、上総土岐などの連携構想がバレたのでもう上総土岐氏の所へは戻れなかった(信長が戻さなかった?)のではないでしょうか。
 このあたりの真相は甲州で発見された土岐頼芸を引き取った稲葉一鉄あたりがかなり把握していたように思えます。
 いずれにしても福(後の春日局)が稲葉一鉄の孫であり、更に本能寺の変の後に稲葉一鉄の所に暫くいた事などから、このあたりの真相は良く聞いていたと思われます。
 詳細はどういう状況だったのでしょう。 

仕組みとアプローチ -  土岐頼芸の土岐一族と武田勝頼 そして上杉景勝 その同盟構想は果たして有ったのか

2020-10-22 13:00:08 | 明智光秀
 前回記事の続きになります。
 もう一つ見落としてはならないのは上杉氏の動きです。
 1569年、甲州(甲斐)の武田信玄が力をつけて来た為、それまで対立関係だった後に輝虎と改名した上杉景虎と、北条氏政の間で越相同盟が成立します。
 この同盟には上杉氏側の譲歩と言う面が有ったようで、このあたりを境に北条氏(後北条氏)が古河公方など関東の支配を強化して行きました。
 ただその後に1572年1月、北条氏の後を継いだ北条氏政は上杉との同盟を破棄、武田信玄と再び和睦したため、謙信は再び北条氏と敵対するようになります。
 そこへ1575年、長篠の戦いで武田勢が織田勢に大敗し多くの将兵を失った事で武田勢は衰退の一途となります。
 これだけならば上杉氏と北条氏が再度対立関係になる要素も有り、これが武田氏と上杉氏の同盟が成立しない内に手遅れとなった原因の一つなのかも知れません。
 1577年には織田勢と上杉勢の間で手取川の戦いが発生していますが、この時は上杉謙信がまだ健在であった事もあり上杉勢が織田勢に圧勝したのですが、その上杉謙信が1578年に病没。その後に上杉家の家督争いが発生し(御館の乱)1580年に上杉景勝が当主となってその後は多少安定しますがその力がかなり落ちていたようです。
 この上杉家の内紛のあたりからどうも織田勢が上杉氏に攻勢に転じていたような感じであり、1581年には柴田勝家率いる織田勢に越中国にまで侵攻されるまでに至ります。
 このような状況ならば甲州の武田勝頼は上総武田氏を軸に上総土岐氏、常陸土岐氏、北条氏だけでなく、上杉氏までもを同盟に引き入れて織田勢に対抗しようとしていたのではないでしょうか。
 上総武田氏が里見氏から離反して古河公方足利義氏の傘下に入ったのは1576年。
 当時は既に古河公方を含め関東をほぼ手中にした北条氏(後北条氏)が実質支配していました。
 これはつまり上総武田氏と北条氏との間接的同盟、そして当時北条氏と同盟に等しい関係だった上総土岐氏、常陸土岐氏とも間接的な同盟関係となっていたわけです。
 少なくとも1581年には武田勝頼が北条氏とその連携グループ、更には上杉氏との同盟を考えていた可能性は高く、そしてその協議における中心人物の一人が土岐頼芸であった可能性は十分に有ると見ています。
 確かに仮に土岐頼芸が武田勝頼の下に行っていなくても、信長ならば当然の如く上杉、甲州武田、上総武田、上総土岐、常陸土岐、北条などの連携や同盟は想定していたのかも知れませんが、少なくとも言える事はこの土岐頼芸の甲州への密使らしき移動こそが当時の動きをよく表している、と言う事のように思えます。
 この同盟が仮に成立し織田勢への応戦体制が出来ていたなら、武田氏の滅亡は無かったかも知れませんが、それはならずに手遅れとなりました。
 

仕組みとアプローチ -  土岐頼芸は甲州に何故いたのか? 上総武田氏 上総土岐氏 常陸土岐氏 後北条氏との軍事同盟の準備だった可能性

2020-10-22 09:10:55 | 明智光秀
 信長による甲州征伐で決着がついた時、武田氏に庇護されていた土岐頼芸が発見されました。
 
 その土岐頼芸ですが、この前は上総土岐氏である土岐為頼を頼り、更にその前は弟の治頼がいる常陸国に身を寄せていたようです。
 何で土岐為頼が土岐頼芸を追い出すような事をするのでしょうか? 追い出すなどと普通は考えられないと思っています。
 では何で親族の下を離れて甲州に土岐頼芸が赴いたのでしょうか?
 個人的な見方に過ぎませんが、結論から言いましょう。
 それは「甲州武田氏と上総土岐氏、常陸土岐氏、上総武田氏、そして当時土岐氏と連携を深めていた北条氏との軍事同盟の為」ではないでしょうか。
 長篠の戦いで信長の織田勢に大敗した武田勝頼は再起を試みるも多くの優秀な指揮官を失っており、単独では勝てる力がもう無くなっていた為、上総武田氏、上総土岐氏、常陸土岐氏、更には上総土岐氏等と同盟関係に有った北条氏と連携して「強大になりつつあった織田勢に対抗しようとしていた」事は十分に考えられます。
 では何故上総土岐氏に目を付けたのか?ですが、それは武田氏は上総にも有ったからではないでしょうか。
 上総の武田氏は当時上総武田氏最後の当主となった武田豊信であり、この人物が武田信之 (武田信玄三男)と同一人物と言われることもあるようです。
 いずれにしても甲斐武田氏と関係が深いと考えられ、更に1576年(1575年の長篠の戦いの翌年)に武田豊信は里見氏を離れ古河公方足利義氏の傘下に入った事から、上総土岐氏と敵対関係ではなくなっていたようです。
 このような当時の状況からすると織田勢の脅威にどう対処するかで窮地にあった武田勝頼が何とか上総武田氏を中心に上総土岐氏や常陸土岐氏、北条氏と同盟して織田勢に対抗しようと考えていたとしてもごく自然な事ではないでしょうか。
 この上総武田氏の当主、武田豊信ですが、織田勢からの和睦の斡旋が有ったにも拘わらずそれを拒否し最後まで後北条方について1590年、北条征伐の後に徳川勢の進軍で上総武田氏は滅亡したのでした。(実際にはかなりの将兵が戦死せずに徳川方に組み込まれた上、武田豊信までもが落ち延びた可能性も高いと思っています。)
 最後まで後北条方に与して形式上は滅亡したと言う面では上総土岐氏ともじです。
 「信長が甲斐武田氏と北条氏、上総土岐氏、常陸土岐氏との軍事同盟が成立しそうなのを嗅ぎ取って先手を打って甲州征伐を実行した」と言う可能性は有るのでしょうか。
 ある程度の可能性は考えられるとは思います。
 その証拠と言えるかどうかまでは定かではありませんが、甲州征伐に於いては土岐一族である明智光秀が戦線の指揮官から外されていますね。