「樹・草 2015」と裏に書き込まれています。
幻想という言葉もあてはまりそうな植物の絵。
わたしは、帆船のように思って絵を見ていました。
描き込まれたタイトルを見て、植物なんだ???と。
「草」というのは、武内の絵によく出てきます。
「草ぼうぼうの街に住みたい。」と、キャッチフレーズのように口ずさんでいたことも思い出す。
一緒に散歩をしていても、疎水の流れやそばに生える苔や草を眺め、
しもた屋が続く路地では、小さく固まった鉢に生える植物のありように目を止め、
明石公園のような大きな木がある所では、
「この木のことはよく知っているの。長い付き合いだからね。」とわたしに話した。
どういうわけか、そう言うとき見る武内の顔は、横顔になっていました。
わたしは、不思議な人と思い、ああ、ロマンティストなんだと思ったと同時に、
ちょっと、気恥ずかしい気持もして、ほんとか?と疑ったりもした。
若い頃は、仕事で、殺伐とした気持ちで日々を送っていたわたしにとっては、
非常に衝撃的な感性でした。
木と話せる人って・・・、と。
明石に移ってからは、一緒に、原っぱで、寝そべって草の匂いをかぎ、
その青々しい草の匂いを知ったり、
そこを吹く風を感じたりする感覚は、ヒロクニさんと散歩することで、
深まったと思う。
(時々、「君はなんて無味乾燥なんだ。」と言われる私です。)
草というのは、植物の中でも一番目に付きやすく、また一番身近に触れることが出来るもの。
その緑の色をいとおしく思っているヒロクニさんは、草に愛がある。
草というか、花のない緑の植物のメモもたくさんあります。
「ツネミ草」という草の絵がトイレに貼ってあって、とても変な草の絵も。
↓こちら
トイレは、メモがたくさん貼ってある場所。
台所と違い、紙切れ、切れ端のようなものが多い。
↓可愛いものも
こちらは、別々のメモを合体させています。
宇宙の始まりの手がかりのように思って見ています。
絵の話に戻ります。
始めに帆船のように見えると書きましたが、やっぱり私には帆船に見える。
その帆は、ドクロの形が破れたように見えてしまうのです。
それとも、倒れた木から草や枝が出てきたような。
潰れたドクロの形を無意識に描いているとしたら、
この絵は、凄いと思いました。
あと1つ特筆すべきことがあります。
この絵の肌合いというか、この絵の表面。
↑右上を大きくしたものですが、鉛筆の粒子の具合。
黒く塗られた所は、吸い付いているようになっていて、
薄い部分は粉が飛び散るように。
↑中央の部分。
固くて薄い紙を使用しているのですが、色鉛筆の部分は印刷されているように。
薄い鉛筆の部分は、鉛筆の粉が流動しているみたい。
この固くて薄い紙をなめしながら描く、やり方。
この描き方、不思議なのです。
私は、若い時は断然都会が好きで、結婚退職する前の職場の場所がとても気に入っていた。
大阪、北の東通り商店街の中に職場があって、通り道にバナナホールというのがあった。
繁華街なので、帰る頃は繁華街独特の感じがあり、
ネオンとか、ゲイバーに出勤する“美しいゲイの人達”が出勤する様子や、人混み、
壁と壁の間に見える空調の設備の管を見るのが楽しみで、
どういうわけか設備の管の曲がって、どこかへ繋がっていく様子が好きだった。
(私も変った人だと自分で認めます。)
“美しいゲイの人達”とばっちり目があってしまった時は、何かいわなきゃ・・、
と思い、「お姉さん達、きれいですよ。」と言ったら、
「あなたも、かわい~い~わよ。」とお互い手を振って分かれたのも楽しい思い出。
とにかく、都会が好きだった。
いきなり、明石という所へ住んだので、とてものんびりしていて、
速度の違いに戸惑い、勝手が悪いような気持ちになったりとして、
馴染むのに時間が少しかかった。
(都会ですぐ出来た手続きが、出来なかったり、日にちがえらくかかる)
ヒロクニさんとわたしは、若い頃(年齢の段差があるから、ヒロクニさんの若い頃は50代として)、
自然より人工的なものが好きだとお互い言っていましたが、
2、3年ぐらい前からヒロクニさんが「言うまいと思っていたけど、芸術の源泉に自然はあるね。」と言う。
「自然というのは、嫌なんよ。」とよく言っていたので、その変化に驚きました。
私は、もう都会というのは、体内から抜け落ち、ガーデニングを通して、
“この美しい花の形や色は、何故存在するのか?”という気持ちになってしまい、
自然の恵みって凄いことなんだと、思うようになっている。
私も随分変わってしまった。
都会は都会の楽しみがありますが、
やっぱり自然の偉大さを感じます。
「きれいな夕焼けだよ。さほり。見に来てごらん。」と言われると、
そそくさと見に行きます。
雲にピンクと薄い青色が混ざり流れていく。
色の変化と流れを見ているだけでも飽きない。
自然があると何もいらないような気もしてくるが、
そこはまた複雑な問題で、芸術があるのだと思います。
「人間は考える葦」であるのだと。
これは、16世紀のフランスの哲学者、パスカルの言葉を借用しました。
科学の発展のことを思うと、私はわけがわからなくなるのでした。
私は、きっと文系の脳なんでしょうね。
そんなことを考えている日に、ヒロクニさんから「クッキーが食べたい!」と。
↓型を使わなくていいレシピを見つけました。
このクッキーは、卵を使わない。また、強力粉で作ります。
型も使わないということで作ってみました。
サクサクして、軽い口当たりのクッキーです。
レシピを紹介。
バター70g、粉糖40g、バニラエッセンス、塩少々、強力粉70g、アーモンドプール50g
1、強力粉とアーモンドプールを混ぜておく。
2、バターをすり混ぜ、柔らかくなったら粉糖、塩を入れ、バニラエッセンスを振る。
3、②に①を混ぜ合わせ、ひとかたまりにして冷蔵庫で1時間冷やす。
4、生地を冷蔵庫から取り出し、12個に切り分け、切り分けたものを半径1,5cmぐらいの
棒状にする。台の上で指で転がすとうまくいくようです。
5、クッキングシートを敷いた鉄板の上に、その棒状のものを写真のような形にして置きます。
(棒状のままでよい。押さえないこと。)
6、140℃のオーブンで20分焼きます。
7、焼きあがったら粉糖をまぶします。
おやつ代を浮かそうと思って手作りしています。
美味しそうな美味なものは高いので、ホームメイドでなんとかしようと。
良人は、おやつをよく食べる甘党なんです。
8月にした血液検査でも糖尿の気配は、ゼロなのが不思議。
やはり、絵画の制作で頭を使っているのか?
糖分は消耗されているようで、おやつの量を考えると身体に悪そうなんですけど、
大丈夫なようでホッとしています。