もっく、もっくと湧き出る雲。
雲に押されて、遊ぶのは精霊?
楽しそうだなと思って見ていましたが、
丸味を帯びた形は、“乳房”かもしれない。
エロティックな要素も隠し持った絵かもしれません。
この絵は、画用紙に普通のマジックペンで描かれていて、
一発勝負。
武内は、下書きというものをしません。
そのせいか、うまく行くと伸び伸びした線が強調され、
見ている方も自由な気持ちになれる絵が出来上がります。
簡単な絵なのですが、気になる絵なので取り上げました。
爽やかな自由感を感じて、何かから開放されたような気持ちになります。
当人は、妻からいうと粘着質な性格で空気のようにはならない人。
そういう人がこういう絵を描くのが、不思議であります。
爽やかな秋らしい天気になりました。
夕方、1階に下りると製作中のヒロクニさんから、画集の中にある人物の顔を取り上げ、
「孤独で崇高な男の顔を見てみろ。」と、乱暴な口調で言われる。
興奮した面持ちで、目の前に画集のページをわたしの面前に突き出すので、
何事かと思った。
ふ~ん、と思って写真の顔を見た。
↑この写真。
この人物は、ジャクソン・ポロックでした。
アメリカの抽象表現主義の代表といっていい存在の画家。
今や、作品の値段は何億をいく。
↑こちらが、その画集。
ヒロクニさんは、近頃この画集を静かに眺めていて、
そのせいか、話題はポロックのことが多く、
「ポロックには、ジョアン・ミロ(スペインの画家、シュールレアリズムから近代)の影響があってねぇ。
ピカソもあるのだけれど、ミロにも影響を受けているんだね。」
この言葉を何度も口にしています。
また、ふ~ん、と思いながらミロの絵を浮かべていた。
そして、ポロックの絵も脳裏に浮かべ、わたしが初めてポロックの絵を見た時のことを思い出した。
芸大受験のデッサン教室に通っていた高校3年生の頃だ。
美術手帳に載っていたポロックの特集のページ。
「絵具が散っているだけでよく分らないが、これが芸術なのか?」という疑問を抱いた。
疑問を抱いたが、受験のことで頭が一杯で、しばらくすると忘れた。
↑画集より。
その初めて見た絵は、こういう感じの絵だったと思います。
絵を理解していなくても、好き嫌いだけはあり、
同じ美術手帳から「ウィリアム・クーニング」の絵が好きになった。
そうすると、またポロックが近しい所にいるというのが分り、
同じ抽象表現主義の画家なんだということを知る。
そうして、また違うことに没入し、忘れた。
そうして、忘れていたポロックの絵をヒロクニさんが画集を購入したことによって、
再びポロックの絵が浮上したのである。
分らないなりに、時々画集を眺めていく内に、
フォークロアな作品や、シュールな作品、多くのフォルムの反復する絵を知った。
とにかく、試行錯誤の多さに圧倒されたのでした。
ドリッピングという絵具を散らしたような作品は、中半の後ぐらい。
上の写真のような絵のことです。
ヒロクニさんが「ミロに影響を受けている。」という絵は、これかな?
↑形状の追求をしているのか?
黒の使い方がミロ風に感じます。
↑これは、メモの類だと思われる。
ヒロクニさんもメモをよくするので、勝手に親近感を感じ見ていました。
ただ、ポロックには遺伝的なアルコール依存症があり、
画家として頂点に上り詰め、成功してからのプレッシャーにより、
再びアルコールを飲酒しはじめ、酔った勢いで運転していた車の事故でなくなります。
頂点に上ってから、作風を変えたことによる酷評がポロックを悩ませたそうです。
わたしは思うのですが、画家は、この仕事はやりつくしたと感じると、
次の追求の道へ行くものなので、次に向かったと思うのですが、
周りの評論家達は、頂点の仕事の絵をまだまだ見続けたかったと言うことかもしれない。
↑若い頃にもアルコール依存症なったことがあり、依存症から抜け出すために、アメリカの田舎に住んでいた頃の写真。
穏やかな生活の中で、絵画の試行錯誤が。
都会から離れた田園風景ある田舎は、健全な生活で心も安定して、
ここから多くの作品が生まれたと言います。
絵が頂点に達するというのは、こういう時間の積み重ねの上に成り立っていると思うのです。
そして、世間的な成功は一気にくる。
彼は、有名になり驕りたかぶる人ではない。
嬉しいと思っていたには違いない。
あまりにも有名になると、その虚像と自分自身の乖離に違和感を感じていたようです。
そして、褒めたかと思えば、こき下ろす批評家達。
人生は一旦頂点に上ると、後は下がるのが原理だと前もって心構えをする智恵があったなら・・・。
登山のように頂上から降り、また谷から上るというふうに。
そういうふうに気持ちを持っていけなかったのが歯がゆい。
自分を振り返っても、山あり谷ありで、上ったり下がったりが普通だと。
しかし、ポロックの場合は、大きな成功だったがゆえ、
反動が大きかったのかもしれない。
わたしは、作風が変わってからの作品も見て、素晴らしいと思いました。
色がなくなり、白と黒の世界への転換です。
↑この写真は、制作中の写真。
キャンバスを木枠に張らないで、巻物のように使っています。
こういう規模の大きい発想は、アメリカだなと感心します。
やはり大地が広々とした国の発想なのだと。
このドリッピング(絵具をたらす技法)なのですが、偶然だとわたしも思っていましたが、
絵具の順番やたらす絵具の感じも思いどうりに出来るように熟練しているらしく、
意図ははっきりとあるのです。
気軽なものではない。
そこに、意志がはっきりと感じられます。
ヒロクニさんが、画集をみながら「デカルトのいうところの・・・。」と言っていましたが、
「我思う、ゆえに我あり」の哲学が込められているのでしょう。
ヒロクニさんからのヒントで、こういうことを思いました。
では、最後に今のアトリエの写真を。
↑まだ、引越後の仮置き状態なのですが、こんな感じになっています。
↑ゴチャゴチャしています。
この感じは、ヒロクニさんのアトリエ特有のもの。
手前が、キッチンになっています。
わたしの方が料理しながら、話しかけることが多くなってしまって、
絵を描いている時は、控えた方がいい時もありそうです。
黙っていることがよくあります。
今日は、ジャクソン・ポロックの話でした。
高校3年の頃より、ポロックに近づきました。
60代になって、ポロックの絵画を、荒っぽくですが見渡せるように。
見渡せるようになって、やっと彼の仕事の素晴らしさを感じるように。
絵を見るというのも、月日がかかるものだと思います。
絵を見て「ああ、そうか・・。」と、思う瞬間は喜びかな?
ポロックは、近代絵画のピカソを越えたかったそうです。
その思考の軌跡が、ポロックにはあります。
ヒロクニさんは、その軌跡を見るのが楽しくて、画集を見ているのでしょうね。
(わたしが画集を見ても、その軌跡は読み取れないと思う)
今日は、芸術の秋らしい話題を。
ヒロクニさんを通しての、好き勝手に絵画を鑑賞。
“ふ~ん”と思っている時に、思いを巡らしています。
今回は、ポロックでした。
抽象表現主義の画家は、わたし達2人の間では評価が高い。
また、好きな部類。
マーク・ロスコのことにも過去触れたことがあると思います。
この画家も抽象表現主義の画家。
絵画も奥が深いなと思います。
概要と流れだけの解説で、非常に乱暴な解説になりましたが。
今日も、最後までお読み頂いた方、ありがとうございます。