武内 ヒロク二

このブログは、武内ヒロクニの絵の紹介や、家での出来事を妻が語ります。
日々、徒然。

奇妙な光景(作品紹介653)と 感情と運

2022-01-07 16:00:22 | Weblog

正月気分も抜けて、普段に戻った。

普段に戻ったということで、シュールな武内らしい作品を選びました。

サイズは小さめで、B5ぐらいの大きさ。

鉛筆のみで描かれた作品です。

濃い鉛筆、6Bとか、8Bを使っている。

「9Bとか、もっと濃い鉛筆はないのかねぇ」と言うくらい、

最近は濃い鉛筆を使う傾向があります。

実は9Bという鉛筆は、発売されているのですが店頭に並んでいる確率が少ない。

そういうわけで、8Bの鉛筆を使っている。

三菱のハイユニを使用。

コーヒーカップが出てくるのも特徴の1つ。

私としては、サーカスを見ているような気持ちもするし、

何か骸骨が予言に現れて、それをもてあそんでいるような印象がします。

“不気味さ”と“変な浮かれ具合”が絵にあって、それが奇妙。

そのなんともいえない奇妙さを味わう絵なのかもしれない。

妙なダンスをしているような雰囲気もあるが、

それは何なのか?ということは考えてはいけない。

感覚だけで見た方がいいと。

理論家になってはいけないのである。

 

正月気分も抜け、普段の生活が戻ってきた。

正月は「心ってままならないものなのね・・・」ということを痛感しました。

些細なことなのですが、母が行きたくないところへ私を誘ったことから始まりました。

行きたくないというのに、かなり強引で聞く耳をもたない話し方をするので、

むかっ腹が立った。

それで終われば良かったのですが、電話を切ってから、

過去の「母が私を強引に行きたくない所へつれていった記憶」が

噴霧のように噴出してしまい、走馬灯のように頭にくっきりと浮かんだのでした。

その時の嫌な気持ちの状態がありありと再現され、

自分のそういう状態を見て、

もうすっかり忘れていたと思っていた気持ちが突然、表に出てきた。

心の深層意識に深くに沈殿して溜まっていたものが表面化した。

自分がいる部屋はいつもと同じなのに、

自分の心は別次元の状態(当時の気持ち)にいて、

心の中で起こったこと(嫌な気持ち)は、私にはとっては真実なのですが

心の中で起こっていることは、今はその状態ではないにも拘わらず、

凄い勢いでよみがえってしまった。

ということは・・・・、その感情は私を縛っているもので、

何か同じ状況にあれば、再び再燃するものかもしれない。

あまりにも強く表出した感じの感情だったので、自分でも異様な感じがしたのです。

子供の頃の話なのですが、

行きたくない新興宗教に連れて行かれたりしていたというのがある。

「行きたくない!」というと、

「給食費払ってあげないから」とか言って、無理強いをされたりしていた。

また、そこの教祖さんとやらが、私にはいじわるそうに思えたり、

言っていることが矛盾していたりと、それを指摘すると無視する。

時々、言うとおりにしているのに死んでしまった人とかがいて、

それは何故かの理由が、「信心が足りなかった」とかでドン引きしたり。

かなり献金とかもしていたのに死ぬなんて!!と、子供心に純粋に驚いたわ。

なんか、言動に無責任でその方への愛はないと感じた次第。

とにかく、その新興宗教は、あらばっかり目に付き、尊敬できそうな人が1人もいなかった。

だから、嫌で嫌でしょうがなかった。

違う状況でも似たようなことが度々あり、この感情があるために、

こういう感情は膨れ上がり、同じようなことを引き起こしている過去を振り返った。

今回のことを簡単にいうと「行きたくない」という感情です。

そうして、振りかえってみると何度も宗教意外でも「行きたくない」ということが、

どうも私の人生では、繰り返してある事実。

繰り返しているのか・・・と、また驚きました。

この隠れていた自分の中での嫌な気持ちは、無くなった方がいいと思いました。

一番分り易い新興宗教のことを分析してみると、

「行きたくない」

「よくもこんな所へ連れてきて、時間の浪費をさせて!」

「そこに行っている空間自体が、不愉快」

「不愉快な人達」

「無理強いはやめてくれ!」

「ここの宗教は、死んでも信心できない」

「心がきれいな人がいないなんて・・・」

もう不満のオンパレードで、負の爆弾を抱えているような感情。

まあ、“怒り”ですよね。

そして、自分もドス黒くなっているという・・・・。

簡単にいうと、コンプレックスとも似ていると思いますが、

解消しておいた方がいいものだと思いました。

自分で褒めるのもなんですが、心の中でのみ起こっていると捉え、

こういう風に考えをもっていけるようになったのは、年の功かもしれない。

(まだ、59歳ですけど)

仏教哲学を超簡単にとりあえず、自分のわかる範囲で、

自分の言葉に置き換えてみているのも役にたっているかも?

こういうのも因縁というのか??と思ったり。

それと私の性格もある。

「これは、絶対行きたくない」「これは、絶対したくない」

こういう気持ちが人一倍強い性格なので、

“これ”に当てはまると相当心に付加が加わるようなのです。

当てはまる事項は少ないのですが、

私の中での特定のこれに当てはまって無理強いされると強い感情が残るのに驚きました。

嫌な気持ちというのは、

どんどん解放して発散させないと運が悪くなるよう気がしました。

自分を振り替えてみると、何度もあるようなので驚いたのです。

そして、発散させてしまえばいいと思い、

そういう感情が出てきたら、庭に出て箒の柄を持って、

「私は嫌だったんだ!」と心の中で言い、箒を振り上げ剣道みたいに

エイ!と言ってその人物を思い浮かべたりして、暴れます。

薄れてきたら止めると。

もう、寒いから家でする時は、紙をクルクル丸めて棒状のものを作り、

声はあげず、心で叫んでエイャ!とふすまを殴ることに。

紙の棒は、うまく折れ曲がって良い感じ。

端から見たら、ちょっと頭大丈夫か?だろうけど、他人ってヒロクニさんだしね。

そして、母にも過去の終わったことをチクチク言わなくていいから良い方法かも。

とにかく、負の感情、心の棘はあまり持たない方がいい。

その方が、運気アップにつながると感じた正月でした。

あまり清々しい正月ではなかったけれど、気づきの正月だったのかも。

大きい感情として現れたので、

仏教哲学でいう、「未那識(まなしき)」というものかといぶかった。

■「未那識」というのは、意識がなくなった状態にも不断に存在し、

  自己を愛し存在させる迷いの根源とされる心のはたらきを言う。

とあり、自我を形成するものなんでしょうね。

私の「これは、絶対行きたくない」「これは、絶対したくない」という、

2点の要素が私を形成していることもあると思いました。

“アラビアンナイト”のアラジンとランプの物語の「呼ばれて、ジャジャジャジャーン!」という風に

意識が飛び出てきたような驚きがありました。

そんな事は、はじめての体験でした。

もう、走馬灯のようにですから・・・・・。

今年は、私は煤払いの年になるのもしれないと思い、気を引き締めることにしました。

幼稚園の頃は、「昼寝が嫌」という理由で、毎日早引けをするような幼児で、

勝手に1人で帰っていたという、エピソードもあります。

「あ、昼寝だ。帰ろうっと」と、寝ている子供を見ながら、身支度して下駄箱に向かって、

靴を取り出し、「さようなら」とわき見もせず、家に一直線。

先生が「昼寝をしてちょうだい」と言っても、

「今日もありがとうございました。私帰ります」って、すまして帰宅。

なかなか、自分の性格にもかなり凄いものを感じる今日この頃。

これって、ヒロクニさんみたい・・・・・。

2022年は、自分自身見直しの年になりそう。

 

 

今日は、ヒロクニさんの文章で締めくくりたいと思います。

↑いつも「あなたも文章を書いて!」と嘆願しています。

ちょっと書き始めだけどと言って見せてくれたものを拝借しました。

鹿児島県徳之島出身なので、島への思いがあるようです。

大きな紙に大きな文字で書くのが特徴で、何故かわら半紙でないと書けないみたいなのです。

文章に対して、うるさいタイプなので何かこだわりがあって、

すぐ、これじゃダメだ。と思うらしい。

私は、「そんなにいい文章を目指さなくていいから、内容さえあればいいのじゃない?」と、

メチャクチャ言っています。

「私は、何でもかんでも理解できるわけじゃないから、文章を残しておいて欲しいのよ」とも言い、

「あなたが亡くなったら、私はどうしたらいいのですか?

文章を残してくれたら、それを出版出来るでしょ。」とか弱い女性のように言う。

すると「絵も描いて、文章も書いて、茶碗は洗い。忙し過ぎるよ」と言う。

会話の中にいつも“茶碗洗い”が出てくる。

頭の中に“茶碗洗い”がしっかり食い込んでいるようで、

洗い終わったら

「茶碗は、出来ているから」

「茶碗は洗えているから」

「茶碗はちゃんとしておいたからね」

いつも報告してくれます。

ヒロクニさんの文章も独特なリズムがあるように思うので、

もっと書いてみて欲しいと願っています。

 

 

今日は、私のとんでもない負感情の話を書いてしまいましたが、

生きていると何らかの負の部分があり、

それから解放されるのも自由への一歩と思い書きました。

ちょっと、哲学めくと文章がネチネチしてしてしまい、

読みづらかったかもしれません。

気持ちを整理して、すっきりさせるのも開運かもと。

それと、私もヒロクニさんのような行動をしていたことがあったとは!

でも、自分勝手な行動とはいえ、当人はスッキリで

なんのわだかまりもなく過ごしたことを思えば、

周りに迷惑を多大にかけるのでなければ、我儘も良い部分もあると感じたり。

最後まで読んで下さった方、ありがとうございます。

ほんとに!

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


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2 コメント

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コメントありがとうございます。 (さほりん)
2022-01-12 18:02:49
今回の私のブログの内容は、どうかなぁ・・・、と思いつつ、書いてしまいました。いい感情の方の話ではなかったので。だけど、「あれ?」と思った瞬間は、自分でも驚いたことでした。ヒロクニさんが奇行というか、とんでもない事を言ったりするから、いつもその事で不愉快に思ったり、感情が波立っているので、何とか自分がいい状態でいる為に、ヒロクニさんを“客観視”している内に、自分の事も“客観視”出来た瞬間だったと思うのです。
しかし、忘れたと思って過ごしていた思いでしたが、気持ちの奥底に眠っていたのだと思い、驚愕ものでした。興味の範囲で良く、仏教哲学のことを書きますが、「唯識」というのを深く考えてみているだけで、私の話は素人考えなのですが、もしかしたら「こういうことなのかもしれない」と思ってみているだけなので、専門家が聞いたら笑われるようなことかもしれません。「未那識(まなしき)」といのは、仏教は輪廻転生するので、前世からの思いも引き継いでいるらしくて、いいものも悪いものも、一緒になっているらしくて、過去の経験の思いもあるのだけど、前世のものも引き継がれているらしい。同じ思いを何度もするということは、何か断ちけれていないもので、解消しなくてはいけないものと感じました。ともりんの言う「感情と対峙」してのくだりと、自分との戦いの後に新しい世界があると言われているのを読んで、「新しい世界」にハッとしました。
こういう話は、確かに人にしません。(笑)そんな話を書いてしまったということです。(汗)人にはあまり話さないが、ブログには書いてしまったのだと思うと、文章を書くって不思議な行為なのかもしれない・・・。最初から、この内容はいいのか?悪いのか?よく分らないまま、書いたものです。私の方こそ、伝えたい意味をとらえてくれて、とても嬉しく思いました。そのお気持ちを伝えてくれてありがとう。書いた後、ヒヤヒヤしてました。嫌な気持ちを思いだしたら、エイ!ヤ!と部屋で帽を振り回して、その後じわ~んとした気持ちを感じて、減ったかな?と自問自答中です。

今回のシュールな絵は、ダークな感じです。ヒロクニさんは「ダーティにならんと!」と話すこともあるので、その系列なのかも。この絵は、それもあるけれど、本人は大真面目なんだけど、その真面目さが、周りに笑いをさそい、皆大爆笑してしまう時があるので、そんな人柄が出ているようにも思ったりします。だって、ヒロクニさんだし。(笑)

ヒロクニさんは、文章も書ける人だと思っているのです。字も味があって。また、けしかけておこうと思いました。文章を残して欲しいと心から願っています。

なんか、ともりんとは、色々話がもりあがれそう。そんなことを思いながら、心よりコメントありがとうございます。「愛してします!」2度目の告白です。
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Unknown (ともりん)
2022-01-11 23:54:15
シュールでちょっと不気味な感じですが、この感じはかなり好きです。ダークな未知の世界に惹かれてしまう心情でしょうか、とても気になってしまいます。ずっと見ていると、ダークファンタジーなピカレスクロマンの小説が浮かんできます。
でも、じーっと見つめていると、ちょっとユーモラスな感じがしてきます。さほりんの解説にあるサーカスや、異世界で異形の存在が漫才をしているようにも見えてきました。

年初に見つめた自己の内面と本質の考察、深いです。確かに、ヒトは自分を形成しているいくつかの感情的要素があり、それは行動と思考に多大に影響していると考えます。
さほりんは「したくない」「嫌」という感情が向けられることが、自己の感情形成に大きく関与しているのでしょうか。私は何だろう?と、ブログを何度も読みながら考えましたが、なかなか難しいです。
自分のことなのにわからないものだな、と、新年早々新しい刺激をいただきました。

人間の感情も「エネルギー保存の法則」なので、負の感情をためているとそれらは行き場がなくなくり、どんどん自分に負のことがたまっていってしまうと考えます。
棒の発散方法は正解だと思います。体を動かすことは思った以上に効果があると、何度か感じたことがあります。
私は一人暮らしだったとき、鏡に向かって「不満を感じている自分」と「それに対して会話している誰か」という一人二役で延々としゃべる、とうことを度々していました。自分でも「私、大丈夫かな……」と思いながらのシチュエーションではありましたが、気持ちがかなりすっきりしました。
「他人ってヒロクニさんだしね」が、納得で面白かったです。この流れでこの一言、ナイスセンスです。

ヒロクニ先生の文章は、文章も描かれている文字も、一枚の絵画のようです。文章をちゃんと読む前から、全体を見て「あ、これ好き」と思ってしまいました。
セットになった絵画と文章を一緒に見てみたいなあ、と思いました。

ヒトは常に負の感情と戦っているように思います。生きるためにはその感情と戦うことが必要ですが、戦うためにはその感情と対峙する必要があります。
曖昧に逃げることはできますが、対峙したその先には新しい世界があります。でも、その戦いは永遠に続く。生きることは自己との戦いだと思っています。
このような話はあまり人とはしないので、今回、さほりんがその戦いを文章にして著してくださったこと、嬉しかったです。とても興味深く読みました。
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