子供が描いた落書きのようだ。
そして、楽しげである。
これが絵を見た時の印象。
モチーフには顔があり、その顔はみな、何をいたずらしようかと笑っているように見える。
わたしには、「イッヒィヒヒヒ・・・。」と声が聞こえるのだ。
この絵は、「関西粋人・170武内ヒロクニ」と書かれているので、
これは、サンデー毎日でのカットの絵になります。
十年以上前の仕事です。
小さなカットだったので、その仕事に慣れた頃になると、
時々ハチャメチャな絵を描いていました。
それがこの1枚になると、思います。
時々、羽目を外す。
「やりすぎじゃない?」と思う時は、わたしは無口になり、不穏な目つきで武内を見たものです。
しかし、時間が経ってから久しぶりに見て、
カット云々から解放されて見てみると、
この絵のモチーフ(変キャラみたいなの)は、宇宙のような空間に漂い、
フワフワと浮いているような感覚は楽しく、変な可愛さがあって可笑しい。
ラフな線が自由に伸びているのも、堅苦しい気持ちをほぐしてくれる。
カットは白黒だったが、
色も認識され、それがアクセントになりお洒落な感じだ。
わたしのことだから、
「白黒のカットの仕事なのに、どうして色を使っているのだろうか・・。
ピンクとか緑の中間色は、印刷でどうなるんだろう・・。」と、生真面目に見ていたに違いない。
こういう時は、最終的に「し~らない。」「どうとでもなれ。」「編集者が何とかいうだろう。」と、
共犯者ではない!という立場に自分を移動させる。
そして、野放しにする決意を固めるのです。
私自身は、仕事などの時は、
「相手の意向と自身の意向とをどう摺り会すか?という視点に立つ」ので、
武内のように、全面的に自分の意向で「いっちゃへ!!」的なことをされると、
非常にハラハラし、心臓に悪い。
今、絵を見直して、わたしは堅苦しい性格だな、と思う。
しかし、絵を見て、このカットは、文章に全く沿ってなかったのだろうと思う。
わざわざ、文字を書き込んでいるところから伺えるのだ。
「これは、関西粋人のカットデス。」と主張を添えるところがねぇ・・・。
しかし、現在は、カットの意向から離れているので、
絵として見て下さると嬉しいです。
絵は、黒のマジックと鉛筆を使用。
下書きなしで描かれた絵になります。
可愛い、もしくはキュートな感じが全開しているように、思います。
朝には、やっと涼しさが感じるようになりましたが、まだまだ暑い。
夏の前半は、それでもあちらこちらと歩きましたが、
夏の後半に入り(残暑の頃、今現在)、外出は最低限にしました。
そのせいか、気分が悪くなったりせず、無事過ごしています。
家の中で、主にすることを3っ決め、その3っを適当に交互に回し、シンプルに過ごしています。
絵についての上記の文章で、自身の事を
「生真面目」「堅苦しい性格」と書きましたが、さらにそれを感じさせる読書をしていました。
こんなストーリーと異様な展開、初めてだという児童文学。
「イギリス人って、やっぱり凄いな。」と、思いました。
ユーモア、特異な発想、ブラックジョーク、可笑しみのセンス、辛辣さが、満載。
その本は、こちら。↓
こういう本を、図書館で、たまたま手に取る。
わたしは、ダイアナ・ウィン・ジョーンズは、何冊か読みましたが、これが一番面白い。
始めに「作者の覚書」があり、
「この本は、以下の十の命題を証明するものである。」と冒頭に書かれている。
1 ゴロツキとは、背景にとけこむ代わりに前景にでしゃばり、そこに居すわる存在である。
2 ブタには羽があるので、つかまえるのはたいへんだ。
3 権力は人をだめにする。しかし、電力は、ないとこまる。
4 どんなものでもつらぬく矛が、どんなものでも防ぐ盾にぶつかると、家庭不和がおこる。
5 音楽は、つねに悩める心を静めてくれる、とはかぎらない。
6 英国人の家は、彼の城である。
7 人類の女は、男よりも恐ろしい。
8 黒あざに報いるには、黒あざをもってせよ。
9 宇宙は最後の辺境である。下水道もまたしかり。
10 言葉の力をみがいておいて損はない。
この10の覚書を読んで、「この作者には偽善は通用しない」と思ったわけだ。
始まりの1行から、この“ゴロツキ”なる人物が登場し、ある家庭に非常にじゃまな存在として登場する。
もう、それからは、強烈な性格の家族とゴロツキの付き合いが始まり、
謎が謎を呼び、スピードを持って、どんちゃん騒ぎの喧騒でもって、ストーリーが展開する。
疾風のよう。
まだ、読んでいる途中なのですが、
ダイアナ・ウィン・ジョーンズの本では、これが1番好きかもしれないと、また思う。
他の本では、良さがはっきりわかりませんでした。
常識を打ち破る破壊力により、
「わたしは・・・、本当に融通の利かない頭なんだ・・・。」と、自分の頭の固さのことを思い知った。
ヒロクニさんの絵を見て、「ガーン!」となるのと似ています。
この本の作者は、幼少の頃、両親が貧窮院のようなものを運営するようになり、
その中で育つのですが、そこに集まった人達は、変人ばかりだったそうで、
自身では異常なことが普通だったと語ります。
そして、その貧窮院の傍らに住み、三姉妹は不幸な状況だったらしい。
しかし、そういう変人を話のタネにして、姉妹で笑い飛ばすことを覚え、状況を突破したと彼女は語る。
そして、「不幸と馬鹿騒ぎが極めて密接に結びついている」と気づいたと。
この本では、その気づきが生かされているらしく、
シェークスピアの喜劇の如く、笑って読んでいました。
滑稽味もあって、これぞイギリス人の感覚という感じ。
わたしも本の感想で“疾風”という言葉を使うとは思いませんでした。
また、彼女は、「もしも・・・・・、・・・・・したらどうなる?」といつも考えているらしく、
これが、平凡な状況においての想像力であり、
「想像力は精神の成長にほかならない」とも言う。
そこで私もやってみた。
「もしも、わたしが蒸発したらどうなる?」
「もしも、わたしが猫語を話せるようになったらどうなる?」
「もしも、わたしが億万長者になったらどうする?」
もう、思いつかない・・・。
低俗で幼いことしか、思い浮かばないのが悲しい。
最初の思いつきは、時々現実に思い浮かべたことがある内容だ。
ただの現実逃避でお恥ずかしいかぎり。
彼女は、「もしも・・・、・・・・したらどうなる。」で、一杯になるらしく、
そこがアイデアや創作に繋がっていると言う。
そこが、作家なのだろう。
アニメにもなるらしいが、本には本の面白さがあり、
決して子供だけのものにならない面白さもあるので、
ダイアナ・ウィン・ジョーンズの中で、文字で読んで欲しいお勧めの一冊。
読書中ですが、終盤に近づいているにもかかわらず、どんな結末になるのか想像出来ません。
実は、こうやって、わたしは人の才能に気づく時、とても楽しいのです。
「ここが、才であり、この人の能力であり、素晴らしさなんだ。」と思うと、気持ちが湧きたつのです。
そして、頭がエキサイトする。
と、同時に冴えた感じもある。
こういうのを感動というのか?
これには、相性があるようで、好みとかがあり、偏っているみたいなのですが、
こういうことがあるのは、とても嬉しい瞬間なのです。
こういうことは、それぞれの人がそれぞれの分野で、体験していることだと思います。
どうでしょうか?
夕方、ホームセンターに行くのを兼ねて、海を見てきました。
↑船が動くのを見ていました。
白い船は、旋回し始めていました。
後ろからは、赤い船が向かって来ています。
肉眼で見ていると、とても近づいてきているように見えたのですが、
写真を見ると小さく映るのです。
目と写真では、見え方が随分違うのです。
やっぱり、目で見る方が躍動感がある。
そして、海を見ると、独特の気持ちになる。
これ、不思議ですね。
今日は、たまたまダイアナ・ウィン・ジョーンズのアイデアの持つ素晴らしさについて、
驚いたことを書きました。
彼女は、考えられない変わった人達が集まり、それが普通の世界に幼少の頃いたのだと思います。
普通、普通でないが逆転している世界・・・。
異常が普通という世界・・・。
そういう奇妙な感覚が、読みながらします。
それと、わたしの固い頭というか、生真面目もほどほどにということも。
肩が凝るのは、当たり前か?と思わずにはいられません。
今日も、子どものようなことを思う、わたくしの文章をお読み下さった方、ありがとうございます。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます