色鉛筆で描かれた作品です。
右下の空間にタイトルと描かれた日のことが書き込まれています。
「少年の雲」2011.4月と。
古代に描かれた地上絵のような雰囲気もしなくもない。
赤茶で描かれた野太い線がそう思わせるのでしょう。
しかし、タイトルは「少年の雲」となっています。
最初は、緑の線で囲まれた形が、小さな雲のように思い、
これが少年の雲なのか?と思って見ていました。
ちょっと離して見ていると、
この茶色い線で描かれてのが、少年を表し、
水色の部分が空の青で、残りの部分は全部雲なんだと思い至りました。
この絵を眺めていると左方向へ雲は流れ、
雲は流れにまかせて形を変えていっているようです。
そう思うと、緑の線で囲まれた形は、千切れ雲のように思え、
手前の雲なのか、奥の方にあるのか?と思ったりして、
雲が揺らいでいる様子を感じたり。
平面的な絵なんですが、ゆったりした動きがあって、
ちょっとふわふわした浮遊感覚が味わえます。
遠目で見ると、楽しくなる絵かもしれません。
小澤征爾の訃報を知り、驚いていました。
ヒロクニさんも「惜しい人が亡くなるのは、寂しい。」と。
以前、小澤征爾指揮のサン=サーンス の交響曲のCDアルバムをひきりなしに
拝聴していた時期がありましたので、寂しい感情に襲われました。
失う感覚といいましょうか。
ヒロクニさんは、このサン=サーンスの交響曲を聴きながら、
空間のことを考えるヒントになっていたそうで、
指揮する小澤征爾氏になったつもりで、空間を指差し、混ぜ、かき回すような仕草をしていました。
そして、なんらかの説明を力説します。
それは、「こっちの空間から、ここを取り出して、また送り返す。」という具合で、
自分の絵画造りと重ね合わせていたと思います。
そのこともあり、長い期間聴いていました。
わたしの方は、ヒロクニさんが言う空間の発言もあり、
空気が大きく広がっていき、また寄せてくる空気の動きが大きく循環していくような感じがいい、
と思いながら聴いたものです。
また、ひとつの時代が終わりを告げているようでもある。
昭和の世代の人が亡くなると、
どんどん新しい時代に突入していっているというのを身近に感じるのです。
それでも時間は過ぎて行く。
次の時代のことを思うと、「わたしも昭和よね~。」とつくづく思います。
最後に、小澤征爾氏の指揮の演奏を。
サン=サンースの聴いていたアルバムを失念していて、見つけられませんでした。
そこで、ヨーヨーマのチェロ演奏も好きなので、
上記のものを選びました。
武内からは、ヨーヨーマが好きだと言うと、「何で、そんな奴がいいのか?」と言われるのです。
「だって、育ちも良さそうで、この柔和な笑顔。そして、このチェロの音色。
それに東洋人らしく、時々一歩引くという技も持っていて、いいの!」
と言い返します。
一歩引いた後で、前に出てきたりとして、ベートーベンのピアノソナタでは
遊び心もあり、名演でした。
そんなことも付け足して言うと、
ふ~ん、という顔で、
アファナシェフのCDを置いて行きました。
その趣味を見て、ヒロクニさんらしいと思ったものです。
↑こちら
「ピアノ界の隠者」とか、「ピアノ界の鬼才」と言われているようで、
ヒロクニさんらしい選択。
激しい印象でしたが、独特なものを感じました。
しかし、わたしは穏やかだけど遊び心もあるヨーヨーマが好きなのでした。
ヒロクニさんは、「色鉛筆画の鬼才」と言ってもいい存在。
淡くてさっと塗るという色鉛筆画から、逸脱し、
筆圧強く塗りこめる執念の塗りと、独自の絵柄。
アフェナシェフの鬼才ぶりと通じる部分があるのかもしれない。
「世界の小澤征爾」と言われた指揮者。
惜しい人が亡くなったと思います。
ベートーベンのような風貌になっていました。
大きな存在を亡くしたと感じます。
ご冥福をお祈り申し上げます。
今日は、訃報を受けてから思っていたことを書きました。
音楽を聴くと、その聞いていた当時の心情や時代背景がすぐ思い出されます。
普段忘れていたっことも、音楽を通してよみがえってくることもよくあります。
音楽というのは、時間や空間と心に密着する不思議なものだと思いました。
サン=サンースを聴いていた時のアトリエの雰囲気や、時代が持つスピード感などもよみがえってきます。
人の記憶と音楽も密接な関係にあると思うと、不思議です。
そして、豊かな気持ちになれるなら、とても素晴らしいことだと思いました。
今日は、短めの文章になりました。
だけど、あれこれ思いをまとめるのに2日も要しました。
我家では、音楽担当は武内の役目になっています。
音楽なしでは生きていけないヒロクニさん。
それぐらい音楽好き。
その横で、あれこれ聴いているわけでございます。
今日は、夫を「色鉛筆画の鬼才」とか書いてしまい、褒めすぎかもと内心思っております。
今日もお読みになられた方、ありがとうございます。
左下にある2つの赤と緑は、島かな?と思いました。沖縄とか徳之島に感じました。同じような形で右側にある3つのものも島っぽいけれど、こちらはさらに上空に浮いているような感じです。
それにしても、なんと美しいのかと、ずっと見てしまいました。どこまでも空に昇ってしまいそう。とても好きです。
小澤征爾さんは、残念でした。ひとつの時代が終わる感じがしました。
ヨーヨーマのチェロ演奏、聴きました。すてきです。繊細な演奏だと思いました。
アファナシエフの演奏をいくつか、YouTubeで聴きました。美しいけれど、怖いと思いました。妖かしに連れ去られてしまうような感じがしました。
思ったことを文章にまとめることは、とても大変だと思います。でも、「言葉で著したい」という欲求があり、その気持ちが強いからこそ文章で綴るのだと考えます。
今、この文章は、アファナシエフのショパンの演奏を聴きながら書いています。ベートーベンは、演者とベートーベンの戦いのようになってしまい冷静に聴けなく、シューベルトは楽曲があまり好みではなく、しっくりくるのはショパンなので、先ほどからずっと聴いています。
音楽を聴いていると、自分の内なる感情があふれ出してきます。それは、何かを思い出すということではなく、内包していたものが成長し膨らんでくる感じです。
前回のブログの「花を撒く」をライトで照らして見ていることを想像したときに、同じように感じました。
さほりん、実家のお掃除お疲れさまでした。娘にしかわからない大変さがあると思います。無理せずとは言っても、誰も代わりになってくれないからやるしかない切なさの中、それを遂行していくしんどさがあるかと思います。
荒野に生き抜く気高い猫族のように、歩いていきたいな、と思うのです。
青を海のように感じていたという感想を頂き、そうとも言えると納得しながら読んでいました。ヒロクニさんは、島育ちで、海と縁が深いことを思うと、なかなか鋭い感じ方です。タイトルに「空」とあり、私は考えが固定されて、縛られていたように思いました。色は、暖色系の色に緑が入っているのがいいのでしょうね。こういうふうに緑が入っている絵は、あまりないように思います。ヒロクニさんは、軽い色合いをうまく使います。ふわふわ感と合っていて、確かに漂いたくなります。同感よ。
アファナシェフを聴いたのですね!驚き!
けっこう癖のある人でしょ。疲れる部分といいなぁの部分が交互にくるような演奏だったと記憶しています。私の場合は、怖いではなく、疲れる感がどうしてもするのですよ。へんに穏やかな部分もあるし、変人なんだろうね。ともりん、ご苦労様。だけど、ヒロクニさんは、自分の好きな演奏者を聴いてくれたというのが、すごく嬉しいと思う。報告しておきますね。感激すると思う。
頭の中の断片が、浮かび上がっては消え、まとまりなく浮かび、それが長時間続いてしまって・・・。こういう日、実は初めてでした。それと、思いというのも、言葉にしない限り不明確で、ぼやーっと何処かへ行ってしまうものなんだなと思いました。言葉にするということは、認識に役立つことかもしれませんね。ともりんの一歩突っ込んだ意見から、こんなふうに考えました。
「音楽を聴いていると~略~内包してした~。」の件を読み、ヒロクニさんのように音楽を聴ける人なんだろうと思いました。「感情があふれ出す」「成長し膨らんで」という部分が、私は弱いような気がします。だから、外の部分まで一緒くたになっているのじゃないかと。ヒロクニさんとともりんが、音楽の話をしたら盛り上がれそうと以前のコメントで書いたことがあると思うけど、この度もそんなことを思います。豊かな感性を持っていて、素晴らしいわ!そんなふうになりたいものです。
実家の掃除は、はかどりませんよー。(棒)進まない。途中から、おしゃべりに変えた次第。でも行くと喜んでくれているようなので、顔をみせるだけでも、母にはいいみたい。延々と、掃除かも。
母は、私と違ってふわふわした人だから、掃除のことも忘れていたくらい・・・。親子でも、性格や持ち味が違っているようで、肩透かしをくらいます。
荒野を歩きたいと思っても、途中で風呂に入れられるような感覚よ。
荒野の方がかっこいいのに・・・。
今日は、暖かい日でした。
また、寒さは戻ってきますが、また暖かくなる日が来るでしょう。春が近づいてきているのを感じます。そんなことを思いながら、いつもありがとうね。