この絵はメモか?作品か?と悩む。
いたずら描きが、作品になったというところか。
鉛筆とクレヨンで描かれている。
これは、作品のファイルに収納されていたので、作品として武内は入れています。
わたしは、風がいたずら描きを残していった。
そんなふうに絵を見て感じていました。
また、踊っているようにも見えます。
「詩人が描いた絵」として見たら、許容されそう。
いわゆる一般的な画家が描いた絵として見たら、疑問符が付きそうだ。
「ふざけてるのか!」と。
まさにふざけている絵だ。
左上にある顔を見ると、調子にのった詩人と言ってもいい。
このふざけた顔が悪戯という性質を思わせる。
日本人的な感性と、ちょっと違う。
武内は、情緒はとても日本人的でヒューマニズムを大切にしています。
おもむろに台所で、
「幾山河超えさり行かば寂しさの終てなむ国ぞ今日も旅ゆく。学校で習った。」と言い、
若山牧水の短歌をつぶやく。
「よく、そらで言えるねぇ。」と感心して言った。
わたしは、自慢じゃないが覚える能力はあまりない。
トランプの神経衰弱をすると、すぐどっちだったけ?となり疲れ果てる。
単語を覚える英語も苦手だ。
まあ、たくさんの固有名詞を覚えているヒロク二さんは記憶力がいいのだろう。
固有名詞だけを並べて、話をするときもあり、そういう時は難解だ。
その固有名詞を知らなかったりして。
それよりそんな話し方って、あり?と思い黙っている。
話がそれそうなので、もとに戻します。
日本的な人なのですが、海外の文学や音楽も好きで親しみ、
もうそれが体内に宿っていて身についてしまったものが自然に出るのだと思います。
バタ臭さと日本人的なところが、混ざり合っている感性になってしまっているのでしょう。
この絵を見ながら、そんなことを思いました。
しかし、この詩人が武内に見えてくるのが困りもの。
悪乗りしてふざけている時の武内の感じがする。
妻から見ると、ね。
この絵を見ていると、身体を動かして、伸びをしたくなりました。
そして、腕をのばして振ったりした。
風で舞う木の葉の様子にも見えてきたり。
変な絵だ。
今日は雨。
静かに雨の降る音を聞きながら、書いています。
そして、万歩計のことを考えている。
毎日毎日、制作に励んでいるヒロク二さん。
その姿を見ていると元気そうに思う。
しかし、外出するとすぐ足が痛くなり、歩くのが困難になるようなのです。
本人は、大丈夫だろうと高を括っていて意思はあるにも関わらず、足が痛み出すみたい。
そりゃそうだろうと思う部分もある。
コロナ以降、ほとんど家にいるので足の裏とかも摩擦に耐えられなくなっているのです。
靴すら履かない生活を3年程送った結果。
外出したら、足が痛いせいか、機嫌が悪くなり悪態をつかれるという・・・。
トホホな事態が。
そして、なんだか優しくなれない自分がいる。
悪態をつかれているうちに、腹が立ってくるのです。
よくあるパターンなのですが。
ヒロク二さんは夜、散歩に行っているので安心していましたが、
たぶん歩く量が足らないのでしょう。
12月で85歳になります。
そう思うと元気な方だとは思うけれど、
これから先の事を考えると認識を変えないといけない時期に来ているのだなと思った。
年の差婚なので、やはり想像で補うことが必要なんですね。
さあ、どんなふうに変化させていこうか?と思案中。
まずは、万歩計を買って、一緒に歩こう!と。
近所の御所川(ごんじょがわ)沿いでは、高齢の夫婦がそろって歩く姿が見られます。
そこへデビューということです。
以前は、お年寄りが歩いているなぁ~と眺めていましたが、
そこに飛び込むつもり。
こういう時思うのは、もっと面白い道があればいいのにと思います。
道にも好き嫌いがあるのです。
それは、ヒロク二さんにも。
歩こうと思っている御所川沿いはちょと単調なので、飽きたりしないか心配だ。
2人とも道に関しては、五月蝿いのである。
これから多くの変化を迎えることでしょう。
時間の流れは止まってくれません。
人は時間の流れで変化していき、その中で何かを感じ、何かを知ります。
振り返ると過去にもいろいろな事があり、いろいろなことを考え、分ったことも。
これからもそうなんでしょうね。
どんな新しい発見があるのかと思いながら、変化を受け入れようと思います。
庭では、ジニアが花を多くつけ始めました。
↑花の株が大きくなってこれから咲くつぼみもたくさん。
↑秋の育苗。
ビオラとルピナス。
↑ルピナスは特徴的な葉姿が、もう見られます。
花は春。
↑庭の金木犀。
いい匂いがしています。
この匂いをかぐと幸せ感がするのは何故?
↑今年は生らないと思っていた柿の実がちらほら。
数が少ない時は、大きい実をつけます。
生らないと思っていたものが生ると嬉しいものです。
秋は落ち着いた気持ちをもたらせてくれます。
この度は、年齢の変化から人生の秋を感じました。
節目ってあるのですね。
万歩計を思いついたのが、秋の入り口でした。
今日もお読み下さったかた、ありがとうございます。
線も自由な流動を感じますが、空間の地の部分に風と奥行きを感じます。3D空間にモノとヒトが動き回っているような感じです。
ヒロクニ先生の思考は、この作品のように自由に動き回っている感じなのかな、と思いながら鑑賞しました。
歩くことはとても大事だと私も思います。ただ歩いているだけだとつまらないので、何か楽しいオマケがほしいです。
万歩計は歩いた量を歩数として目で確認できるので、良さそうですね。以前、会社で健康増進のイベントで「ウォーキングの歩数で、1年間で東海道53次を歩こう!」というものがありました。
毎日の歩数を合計して、「今日は小田原まで行けた」「来週は箱根まで行こう!」という感じです。歴史好きな人たちが結構ハマって、みんなで競っていました。
変化は、受け入れつつもそれに抵抗したいこともあります。現実を素直に受け入れながらも、できる限りの努力はしていきたいと考えています。
秋の育苗、いつもながらたくさんされていて、頑張っているなあと思います。来春が楽しみです。
秋の花々で眼を楽しませていただきました。金木犀のあのかぐわしい香りは、花を見ているだけで感じることができます。
年若いときは夏が好きでしたが、今は秋が一番好きです。次にやってくる冬を考えると少しつらい気持ちになりますが、冬の前の良い季節を楽しもう、という考えになってきました。
裁縫は、着なくなった服をリメイクして、服や日常に使うもの(枕カバーとか)を作っています。もったいなくて、新しい布が買えなくなってしまったので(笑)
さほりんも、秋の日を楽しんでくださいね。
最近、遊び描きのような絵も多く見られます。こういうのは、以前はありませんでした。新しい試みというか、新しい絵のスタイルが出てくる前兆なのかもしれません。自由性をとりあえず感じています。
ただ歩くだけだとつまらないに激しく同感です。万歩計だけでなく、もう少しプラスαが欲しいところ。健康のイベントの発案は考えたなぁとうなるところですね。
よく考えたら、私達は老夫婦ともいえるのだと思ったのです。イマイチぴんときませんが・・・。私の年齢がそう思わさないのか、ヒロク二さんの雰囲気もあって気持ちは老人じゃないというか。とりあえず、一緒に歩いて足に筋肉がつけば、また方向性が変わることがあるかもしれないと思っています。とても健脚な人だったことを思うと悲しいことです。とりあえず、努力すること。なんとかなるでしょう。
ルピナスという花をはじめて育てているので、その花が春に乱立するのを楽しみにしています。今は、土の再生にも励んでいます。
近頃、秋が短くなってしまって。夏は異常に暑いし。夏=苦しいというイメージが出来つつあります。夕立がなくなったと思いませんか?四季の様子が以前と変わってしまって何か変な感じです。ああ、秋が来たなと自然に思っていましたが、秋が短いから、「このいい季節をボーとしないで、楽しまなくっちゃ。のがしてはいかん。」という思いがあります。ともりんの好きな夏は、異常な季節になったから、秋が浮上したのでは?夕立がある頃の夏は、風情があったと思います。
裁縫もいいですね。私の裁縫は、ヒロク二さんの服の繕いです。気に入った同じ服を着たがるので。布選びが楽しそうです。
秋、お互い楽しみましょう!
今日は、文通しているような気持ちになりました。
コメント、いつもありがとう!