マジックで描かれた作品になります。
右に描かれた丸い月のようなものの顔の表情が気に入って取り上げました。
真剣な真顔に、少し鼻の穴をふくらまし、厳しい表情をしているのが、いい。
左のアメーバーのように口を開けている生物は、だらしがない。
やわらかい餅が、どうとでも形を変えるさまに似ている。
これって、もしかしたら、
夫とわたしの関係?と、思えてくるから情けない。
夫には、手を焼いています。
長年一緒にいても、空気のようになりません。
手強いといつも思っている。
当人は、そんなふうに自分のことを思っていなくて、
「俺のような素晴らしい人間と居れて、とても良かっただろう。」と思っていると思う。
実際に、このようなことを口ばしっている。
確かに、素晴らしいところもありますが、
非常に困ったところもあり、わたしには、激怒とストレスが交互にやってくる。
その感情で、自家中毒みたいに疲れている。
そのせいで、瞑想なるものにも入り込み、
なんとか太刀打ちしなければいけない!というわたしだ。
怪我の巧妙というか、1年と半年程瞑想なるものに励み、
人はくり返す、ループしていることってあるな、という事に気がついてきた。
わたしが繰り返し持つ感情があるということです。
その感情を一言でいうと、「怒り」「我慢出来ない」が多い。
それは、武内によって喚起されているのですが、
もし、武内と一緒でなかったら、
違うことや違う人からの事で、
同じ感情を使うのではないだろうか?という結論に至っています。
その感情を観察するという行為が、瞑想にはある。
観察して思うには、それは、なかなか厄介なものだという結論。
この繰り返し持つ感情に打ち勝ちたい。
見ているのですが、この根本が、恐怖なのか?不安なのか?が判別しにくい。
未だ、どういうものなのか見続けています。
怒りの根底に、恐怖があるような・・、それとも緊張に近い?というふうに
ピタッとわかるまで見ていくのです。
皆様も自分はこういう気持ちによく陥るとか、
こういう感情をよく使っているということはありませんか?
わたしの場合は、きっと自分の中に、そういう元があると思いました。
元があるから、その感情が浮上する。
はっきり、まだその元の正体はわからないけれど雰囲気はつかめてきたという段階です。
こういう道に気がつかせてくれた、武内ヒロクニさんには感謝かもしれません。
でも、素直に感謝しにくい。
ここまで書くと、この絵はヒロクニさんとわたしに思えてきて、恥ずかしい限り。
【夫婦喧嘩の図】て感じで。
ついでに、また恥ずかしい想像をすると、
「夫を改造しなくっちゃ!」
「よいしょ。」
「よっこらしょ。」
「こっちをこねこね。」
「ここもこねこねしなくっちゃ。」
「ここの部分は気に入っているから、おいておこう。」
と、この月なる人物が言っていたら面白い絵だな、と思いました。
【奥様、夫を教育する図。】
そして、“創造の女神“この絵にこういうタイトルをつけてみたくなりました。
急に、黒澤明監督の「用心棒」という映画を見たくなった。
「強い主人公を見たい!」と思い立って。
youtubeで予告編を見たら、絶対に見たくなりDVDを買った。
↑こちらが見た予告編。
予告からして、堂々たるものだ。
強い主人公に、強い悪役。そして、悪役はちょいと2枚目。
この対比に魅力を感じ、上等な娯楽映画の真髄というところに引かれた。
以前、ヒロクニさんとも観ているのですが、
今回観ると良さがさらにわかり、粋だなとゾクゾクしながら鑑賞しました。
外国映画でいうと、西部劇なんですね。
ヒロクニさんは、西部劇が好きなので、
一緒に、ありとあらゆる西部劇を観た。
そのせいで鑑賞能力が高くなっていたのかもしれませんが、
用心棒は、一切の無駄がなく、映画自体が締まっていました。
古い白黒映画に出てくる「三船敏郎」は、胸板が厚く、堂々たる風貌だ。
若い「仲代達也」は、悪党の弟だ。
その悪党の弟は、木枯らしが吹く荒れた宿場町に、ふらりとピストルを忍ばせ帰郷する。
ストライプの着物にスカーフのように巻かれた手拭が気障でよく似合っている。
見開いた目は野獣のようで、歯をみせた笑い顔に冷酷さが帯びる。
いい感じた。
この2人は、お互いなかなかやるなという感じで、牽制をみせながらも敵対はしない。
この三船敏郎の役どころは、侍であり、自分の強さを武器に、
敵対している双方に気をもたせたり、無碍にしたりとして、頭脳プレーで丸く治めようというものだ。
さして、騒ぎを大きくして、うまく敵対している勢力同士の喧嘩をさせ、自滅するようにもっていきたい。
そして、悪しかいない宿場町で敵対している双方が卑怯さを競うように見せてくれる。
相手の裏をかいたつもりが、さらに卑怯な手を使うという具合に。
そんな所だからこそ、愉快そうに振舞っていた用心棒のお侍に人情というものが降りかかり、
ちょっと、人助けをした為に半殺しの目に会う。
ある親子を助けるのですが、そのお親子がお侍に頭を下げて土下座している姿を見ると、
急に顔を曇らせイライラし、「そんなことするな!」と怒鳴る。
このシーンを見ている時のわたしの心境は、
「このお侍の気持ちがわかるなら、そんなことをせず自分だけのことを考え、早く逃げるのよ。」というもの。
わたしも、お侍の気持ちに同化してしまい、
そのシーンでは冷や冷やした。
その時は、親子を逃がしたのはばれなかったが、
お礼の手紙を手渡された時に、その手紙をワルのピストルの仲代達也が見つけるのだ。
それで、半殺しの目に会う。
この辺で、ハードボイルドでもあるのね。と、変に納得する。
重い身体を引きずって戸を叩く。
そして、倒れた目の前には錠の開いた葛篭が・・・。
そこに隠れ、敵が慌てている隙に逃げる。
めし屋の爺さんに匿ってもらい、墓場の小さい小屋で復帰を待つ。
小屋の隅から吹く風で、舞う枯葉をじっと見るお侍。
その葉が舞うめがけ、包丁を投げると、すっと命中する。
そのめし屋の爺さんがお侍を助けたかどで、捕まる。
その知らせを受け、決闘に望む。
その歩いている姿がまたいい。
身体のゆすり方や、歩く感じがすごくいい。
この映画を見ると、細かいことや、どうでもいいことが多い日常から開放され、
シンプルな人間らしい気持ちを取り戻します。
「強い」っていうことも、大切だなと。
強くないと、弱いものを助けられない等と思いました。
堂々とした映画でした。
最後は、我家の愛猫。↓
パソコンが置いてある場所に来て、窓を見ています。
締め切った窓を、何故見る?
未だ、引っ越しの荷物が片付きません。
今は、触りたくないのです。
今日は、絵の解説が所帯臭くなりました。
私たちを想像せずに、「宇宙の創造」という方向で見て頂けたらと思います。
よく使う感情の話は、個人的な話で思う内容も、
わたし独特の考えかもしれないと思いながら書きました。
「用心棒」は古い映画ですが、見ごたえがあると思い、
つい、熱く語ってしまいました。
黒澤明監督って、シェイクスピアがベースにあるみたいですね。
必ず、道化役にあたる役があるのです。
デンデン、デンデン、デンデン・・・がヒントですが。
そんなことも初めて感じた映画鑑賞でした。
今日もこのような文章を最後までお付き合い頂いた方、ありがとうございます。
私の解説と同じ見方をしてくれたとあり、ともりんは、いつもよく絵を見てくれているのが伝わり、私に同化してくれているのかしら?と思いました。ヒロクニさん暦が長くなって、絵からいろいろ読み取れるんだ!という事がわかりました。こういう事があると、愉快な気持ちになります。ヤッホーと、言う感じです。
私の持っている「怒り」は、やや負の感情なもの。だから、勝ちたい。ともりんの言う「怒り」は、生き抜く為に必要なものであれば、可能性があるものだと考え、「怒り」の内容について考えていくうちに、「怒り」にも種類があって、「これば非道で許せない。」とか、「こんなことでいいのか?」とか、自分に「しっかりしろ!」と怒るのは、いい意味のものだと。私もなのですが、他者(ヒロクニさんじゃない)から自分が酷い目にあった場合、「恨み」(復習してやる!)に私もなりました。こういう経験があり、醜い感情をくすぶらせていたことがあります。それは嫌な感じが身体から抜けないというか、心に棘が刺さったような感じでした。随分前のことなので、年月で癒されていったようでした。多分、私だけじゃなくて多くの人が、それぞれに負の感情は抱えていると思う。言わないだけで。それより、自分の感情を見ることすらしなくて、感情の赴くままにまかせている人の方が怖いのでは?
ともりんも「負の感情」を認めているわけだから、そこは一味違うと思います。こう書くと、瞑想して自分の感情を見ている私は、偉いのようなニュアンスになりますが、私は瞑想でそういう事に初めて気づいた人なので、元から、見つめることが出来る人の方が凄いと思います。私は下手すると、復讐の行動を実行する気質もあるので、(乙女座、同じ分やり返す)なんとかしたい。そして、復讐しても、そんなに気持ちがスッとしなかった・・という結果が目に見えているという・・。もし、実行しても後味が悪かったりしそうなんです。だから、生きていくには、智恵がいるということなのでしょうね。知恵者にお伺いして、智恵を授けて欲しいと思うばかり。でも、お互い健気に日常をやっていきましょう!
黒澤映画は、やっぱりいいですよね。役者はやっぱり三船敏郎です。「生きる」は、20代の頃見て、ヒロクニさんとも一緒に40代の頃に見ました。年齢がいってから見た方が、時代考証がのみ込みやすいのか、筋がよく分ります。「生きる」は、公園のブランコに揺られている主人公の姿が目に焼きついています。「隠し砦の三悪人」は、見逃しているのが分りました。この後見ようと思っています。娯楽性があるのなら大歓迎よ。私からのお薦めは、「赤ひげ」。若い加山雄三が見習いの先生役。ヒロクニさんの目の前で、‘おとよちゃん’のモノマネをよくしました。ぞうきん持って。(なんのことか?)
ピーちゃんは、ここに来てから太りました。お腹周りがころころ。良く食べます。1階にいると、2階に来いという鳴き声も大きく・・・。それなりに、充実した顔をしています。
今日は、寒い1日でした。しかし、宝塚の家と比べると隙間風がない。変なことで感激しています。
冬の到来という寒さが来ました。暖かくして乗り切りたいと思います。ともりんも体調を壊されませんように!
いつも丁寧なコメントありがとうね。
左の顔は自由な感性が爆発している感じです。右の女性っぽい顔は、冷静に左の顔を抑えたりあやしたりしている感じ。でも、それをするには結構な労力を使っているような表情です。冷や汗が出たり歯ぎしりをしている様子をぐっとこらえ得ている感じ。
「いつの世も女性は大変」という言葉が浮かびました。
「創造の女神」というタイトルは、とてもナイスです。後ろからこねこねしている感じは、とても共感します。
怒りはヒトの根本にある、生存し続けることに必要な感情だと考えています。ヒトは、怒りの感情があればどんな逆境でも生き抜くことができるのではないかと。
ヒロクニ先生の作品は、きれいとか芸術的とかそういうのはよくわからないのですが、とにかく、根本の感情をゆさぶったり刺激されるような感じがします。
ヒトの怒りの感情も根本の感情なので、人間性と作品はシンクロしているのかな、と、さほりんの怒りの感情の文章を読んで思いました。
とはいえ、日常的にその感情を繰り返し持ち続けることは、消耗します。大変なことです。そんな中でも、「感情に打ち勝ちたい」「どういうものなのか見続けている」と考えているさほりんが好きです。
私も、怒りをだいたいいつも覚えます。そして「恨み」も。「怒り」→「恨み(一生忘れない!絶対に復讐してやる!)」というような流れで、自分の中に汚い感情が日々蓄積されています。
負の感情を蓄積している自分が嫌になります。きれいな感情だけで生きていけないものか……と考えますが、それはそれでヒトとして成熟度に欠けるのではないか、とも思います。
自分の内に発生している感情は無いことにはできないので、それを認めて受け入れていくしかないなあ、と考えています。
「用心棒」を観たのはかなり前なので、思い起こしながら読みました。首に巻いているのは手拭いだったのだな、と、観た当時は気にしなかったことに気持ちが惹かれました。
黒沢映画の三船敏郎は格好良いです。どの作品でも、やられちゃったり汚くなったりしますが、そんなぼろぼろの姿も恰好良いのです。
中学生の時に学校行事の「芸術鑑賞」という授業で、黒沢映画「生きる」を観て衝撃を受け、映画が好きになりました。大人になってビデオで黒沢映画をたくさん観ました。
好きな映画はたくさんありますが、「隠し砦の三悪人」の娯楽性が強烈に印象に残っています。
ピーちゃん、お胸が丸く張りがあって、ぷくぷくと健康そうです。健康そうな猫さんからは福々しさと満ち足りた生活が感じられ、私も幸福を感じます。
寒さが急激です。暖房を点ける時間が多くなってきました。暖かくしてお過ごしくださいね。