爪の先まで神経細やか

物語の連鎖
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償いの書(100)

2011年09月03日 | 償いの書
償いの書(100)

 ぼくは、これまでの自分の人生のなかでいちばん不幸なことはラグビーの全国大会に出られなかったことだと規定していた。しかし、それは、ぼく個人の問題だった。でも、傷はきちんと傷跡として残った。あの日が来るまでは。

 ぼくは、いつものように仕事から帰る。その日は、珍しく家の照明が消えていた。夜の8時も過ぎていたので、裕紀がいない訳はなかったが、それでも家の中にひとの様子があるようにも思えなかったのでポケットから鍵を取り出した。だが、試しに取っ手をひねるとドアは何の抵抗もなく開いた。

「裕紀、いるの?」と暗い室内に呼びかける。でも、返事はなかった。ぼくは手探りに照明のスイッチをつけると、うなだれたような姿の裕紀が目に映った。「なんだ、いたのか。どうしたの、暗い中で?」

 裕紀の周りには、書類のようなものが散乱していた。良く見るとアルバムや、日記のようなものであるらしかった。
「ごめんね、ひろし君」
「なにが? とりあえず、こっちに来なよ」
「ごめんね、ひろし君」
「だから、どうしたんだよ」ぼくは、日常の生活が手の平からこぼれ落ちてしまう不安と戦い、それゆえにいらだった。
「この写真、覚えてる?」それは、ぼくが東京に来る前に撮ってもらったサッカー少年たちに囲まれている写真だった。「わたし、この写真大好き」それをぼくの側に向ける。「この子も覚えてる?」それは、ぼくらが新婚旅行の際に立ち寄った家でのニュージーランドの少年だった。「ひろし君は、子どもに囲まれていると、凄く楽しそう」

「どうかな? でも、そう見えるね」
「ごめんね、わたし、卵巣の病気なんだって」
「え、どこ?」
「今日、病院に行った。何だか身体の調子があまり良くなかった。それで、調べたら大事になった。もう、どうやら、ひろし君の子どもは産めないみたい」
「良く分かんないな」ぼく自身も少しパニックになる。

「やっぱり、ひろし君は正解しか望んでいない。私を10代のときに捨てたのも間違っていなかったし、東京に来て、私と会うのはきっと間違いだった。そのことを本能的に知っていた」
「何言ってんだよ。別れたのはもちろん、間違いだし、会って、こうして楽しく生活して来れたじゃないか」
「とうとう、ひろし君の役に立てない自分を発見した」
「裕紀がいるだけで充分だよ。分かってくれていると思っていた」ぼくは、本心でそう言う。
「本当?」
「本当だよ。こっちに来なよ。ちょっと片付けよう」ぼくは裕紀の手を引き、傍らに座らせた。「最初から話してみなよ」

「体調が悪かったので病院に行った。すると、先生の表情が変わり、レントゲンを撮ったり、揉みくちゃにされた」それは、感情の問題が関係していて、通常の検査の一環であることは理解できた。「今日は、帰ってもいいけど、荷物をもって明日から入院しろと言われた」
「じゃあ、これは?」ぼくは、広げられた荷物のほうを指差す。
「明日の準備だったけど、いろいろなものに思いが捉われた」
「だったら、もっと早く言えばいいのに」
「追い詰められていたし、ひろし君にも謝らなければいけなかったし」
「謝る必要なんか、どこにもないじゃん」
「嫌いにならない?」
「ならないよ、なれないよ」

「明日、病院にひとりで行かなければならない。ひろし君もいっしょに行ってくれる?」ぼくは、口では彼女を大切に思いながらも、日々の仕事の遣り繰りの変更が難儀なことのもどかしさを感じていた。「やっぱり、無理?」

「ごめん、明日、出張で大切な会議に出なければならなかったんだ」それは、ずっと暖めてきたプロジェクトが成功するかどうかの局面に立たされていた最後の日だった。
「気にしないで。ひとりで出来るよ」
 ぼくらは気を取り直し、裕紀の気持ちもようやく落ち着き、簡単な食事を取ってぼくらはその後、ベッドに入った。
「手をつないでくれる?」

「いいよ」ぼくは、裕紀の手を握る。彼女はすると寝息をたてたが、ぼくの目は冴え、どうやっても眠りの入り口は見つからなかった。それで、ぼくは目をつぶったまま、裕紀の手を握り続け、明日の仕事の進行度合をはかった。
「身体のほうは、どっか痛くないの?」翌朝になって目を覚ました裕紀に訊いた。ぼくは、やはり正確な病状を理解していないのだろう。

「大丈夫だよ。眠れなかった?」
「ううん、平気。やっぱり、休んで、病院に付き合おうか?」それでも、ぼくは仕事の成り行きも心配していた。
「いいの。昨日は、ちょっと甘えてみたかっただけ」
「叔母さんに電話しとくね」
「ごめんね。なんか、みんなに迷惑かけちゃうね」

「生きるって、迷惑をかけるもんだよ」ぼくは、それをいたわる覚悟で発言したが、どう受け止められるかは考えてもいなかった。「いや、裕紀のことを皆、心配しているので、迷惑なんてことを考える必要もないよ」そう言いながら、ぼくは彼女の叔母に電話をして、後ろ髪を引かれながら出勤した。通勤電車の座席は珍しく空いていて、ぼくは座って腰を落ち着ける。目をつぶり、昨日からの成り行きを考える。ぼくは、彼女に過去のある日、冷たい仕打ちをした。無条件にぼくのことを愛してくれた少女を無常にも捨てた。その挽回として、今日ぐらいはなにがあっても仕事を休み、彼女に付き添うべきであったのだ。彼女が悲嘆にくれているときに、ぼくの些細な仕事の成功など何の意味があるのだろう。ぼくは、職場の最寄り駅に着くまで悶々とそのことを考え続けた。
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償いの書(99)

2011年09月03日 | 償いの書
償いの書(99)

 もし、仮に人生が70年とするならば、ぼくらはおよそ半分近くを生きたことになる。その前半にぼくは何度か自分の意志とは別のところで恋をして、こころを奪われていった。裕紀と再会してからは、より意思的に彼女を愛した。そのひとが妻になり、ぼくはそこそこに満足のいく仕事をして、それはたまには失敗や軽率なミスをしたが、埋められないほどの痛手も受けず、2人でゆっくりできるほどの収入もあり、友人たちも減るより、反対に自分なりの予想通りなだらかに増えていった。

 ぼくは、満足いったのだ。思い描いていた人生がどういうものかは日々の雑事に追われ忘れていったが、自分の面前にあるものも、そう悪いものではなかった。仕事帰り、買い忘れたものを裕紀に頼まれ、スーパーに入る。ぼくは、それを買い求め家に帰るが、もしかしたら、そこに裕紀のいない生活もありえたのだと考え不安になる。もしかしたら、ぼくには仕事に必要な知識も技術もなく、ただ虫けらのように扱われる立場もありえたのだとも考える。だが、そうはならなかった。

 それが現実であり、自分にどれほどの幸運とラッキーさが内在されていたかは判断できず、逆に自分はどれぐらいの不運を浴びるのか、それとも、浴びてきたのかは知らなかった。

「これで、良かったんだよね?」
「そう、ありがとう。やっぱり、頼りになるね」
「お世辞に聞こえるよ」
「だって、お世辞だもん」彼女はキッチンのほうに振り返り、袋から取り出した調味料を直ぐに使った。ぼくは、それをどれ程の分量を使うのかがいまだに知らなかったが、出された料理の味を確認すると、やはり、必要なものだったのだと覚る。彼女は段々と料理を覚えて、レパートリーが増えた。まだ、自分が正確に誰と結婚することを知らなかった年頃に彼女は母を失った。同時に父も失った。伝承するものは彼女の味覚だけであり、それを手の感触や言葉で伝えてもらうことはできなかった。もっと、幼いころには教えられたのかもしれないが、彼女の母は忙しいひとだった。それで、彼女は祖母との生活を楽しんだ。それで、たまに彼女の口から出る言い回しやメモの内容に使われる言葉が古いことが散見された。

「おいしい?」
「おいしいよ」これが、ぼくの前半の物語であり、成功という確固たる言葉で規定することは出来ないが、確かにうまくいった人生だった。そう振り返ることばかりすることはないが、この日の単純な居心地の良さと小さな喜びは、ぼくに安定した安堵感を与えてくれた。それには、ぼくのいまの仕事が必要であり、裕紀の存在も必要不可欠であった。そう思うたびに、ぼくは東京への転勤と、そこで再会することになった裕紀のことを、運命だったと思わないわけにはいかなかった。裕紀も、そう思ってくれているといいが、言葉にするのは照れくさく、結局は、頭のなかをゆっくりと行き過ぎるだけで、そのままどこかに消えた。ふたたび浮かび上がっても、結果としてはいつも同じものだった。

 ぼくらは、大体は休みをいっしょに過ごした。行く場所は、町でのデパートであったり、潮の匂いが感じられる公園であったり、彼女の叔母の家でもあった。

 疲れた一日をぼくらは帰りの電車の座席で感じている。彼女は目をつぶり、ぼくの側にもたれかかっている。前の席には帽子をかぶった10代後半らしい少年が耳にヘッドホンをいれ、小刻みに身体を揺らしていた。彼は、いつか誰か愛する人を見つけるのか。それとも、もう居るのかということをぼくは頭の中で考えている。ぼくは、その年代のときに裕紀と別れてしまい、だが、いまはこうしてぼくの横で身体の重みをあずけ、安心して寝ている彼女がいた。出入り口のところには、20代の半ばの男女が楽しそうにふざけあっていた。それが、永遠のものであるのか、それとも期限が限られているものかをぼくは夢想する。

 ぼくらの生命体の継続には限界があった。それを意識しないことのほうが多いが、確かに限界があった。ただ、でも安らかに目をつぶっている裕紀は、このままぼくの傍にいてもらいたかった。最寄りの駅に近付き、彼女を起こすことにためらいを感じる。彼女がこのまま何の心配もない生活を送れるようにと思いながら、ぼくは彼女の肩を揺すぶる。

「もう着くよ」
「そう。わたし、寝てた?」それは自分がいちばん知っているようにも思えたが、
「寝てたみたいだよ」と、小さな声で答えた。他の雑踏に混じり、ぼくらはホームに出る。アナウンスが鳴り、電車はぼくらの背後で出発した。ぼくは、それがどこに行くのか? 象徴的にぼくらをどのような場所に連れて行くのかを想像している。
「寝たら、お腹空いた」と裕紀は、無邪気に言ったので、ぼくは現実に帰る。
「どこかで、食べていく? ぼくも、喉渇いた」
「ビールならあそこ、ワインならあそこ」
 その時に、ぼくは生活を共有したという認識に思い当たっている。はじめてのことから説明する必要はもうなく、これがぼくらの生活の根幹ともなっているのだ。
「そうだね」
「どっちにする?」ぼくには選択する猶予が許されており、しかし、裕紀を選らばなかったことは決して許されなかったのだとも同時に気付いている。
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