償いの書(103)
裕紀は退院して、家に戻ってきている。それは、とても喜ばしいことだった。だが、彼女には定期的に通院するという仕事が増えた。だからといって、不平を言うようなこともなかった。ただ、彼女の頑張ろうという精神の糸は途絶え、動きも緩やかになった。家事も、自分の仕事も。
ぼくは、それでもそんな姿を愛していた。なるべく、仕事を早く切り上げるようにして家事も最初のうちは手伝っていた。しかし、30代中盤にもなると、仕事の量が減るようなことは決してなく、間もなく、いつものような生活のリズムに戻ってしまった。
物事が回復する一連の時間がぼくは好きだった。ラグビーをしていたときに上級生が急に抜け、チームは混沌とする。だが、いつかは整然としはじめて、新たな活力を得たものだった。裕紀の人生にもそういう段階が早めに来ただけなのだ。ぼくは、その回復を手伝い、ぼくらの関係もより一層強固なものになって欲しかった。
叔母さんも心配でたまらず、昼によく寄るようになっていた。ぼくが帰る頃にはもういなかったが、家事を手伝った気配や雰囲気があった。
「お兄さんたちは?」
「たまに電話で話す」
「ぼくを恨む理由がまた増えたような気がする」
「そんな風に思わないで、ね」
「でも、そう考えているはずだ」
「ただ、わたしが病気になっただけ」
ぼくは、口を噤む。医師は言った。彼女をもっと愛するように。そのために、ぼくは裕紀をきつく抱いた。「どうしたの?」と、彼女はおびえたような声を出す。
「ぼくの前から居なくなってほしくない」
「ずっと、居る。わたしは好きなひとを一度、失ってしまった。二度も失いたくないもん」
「それも、ぼくの所為だ」
「違うよ。もっと誰かの大きな力があるのよ」彼女は、運命のようなものを信じようとしている。自分が理由もなく病気になり、不摂生をしたわけでもなく、過労し過ぎたということもなかった。そして、少女はある少年を失い、ある青年を見つけた。ぼくもある少女を失い、東京でその女性の数年後の姿を知る。いくつかの遍歴がありながらも、ぼくらは上手く行っていたのだ。彼女は、病気のことを恨んでいないようだった。だが、逆にぼくは、裕紀を失いかねない病気のことをはっきりと憎んだ。それは、どうしようもないかもしれないが、根絶される必要があり、もう一度、出番が来てはならなかった。ぼくは、彼女を抱きしめ、そう願っている。
彼女が外出することは減ったが、代わりに友人たちが昼間、遊びに来るようになったらしい。たまに、夜になっても智美がいたりした。
「お、こんにちは。帰んなくてもいいの?」ぼくはカバンをぶら提げたままの姿で、智美に言った。
「彼、出張しているのよ」
「そういえば、まだ、学生のときに、うちに居たことが多かったな」ぼくは昔の彼女を思い出している。母や妹と彼女は打ち解け、自分の家にいるように振舞っていた。
「そうだったね。でも、こんなおじさんじゃなかった。きりっとしたスポーツマンが帰ってくるはずだった」
「それは、こちらも同感です」
ぼくは、女性二人を前にして、夕飯を食べる。彼女らはたくさんの話す事柄があり、ぼくは口を挟める状況ではなかった。智美も、うわさによると何度か流産をして、子どもをもうけることができなかった。同じ状況なので上田さんになんとなく問いたずねたとき、彼はそう答えた。それ以降、ぼくはその話題に触れなかった。ぼくらも、また同じ運命のもとに動いていた。
それで、幸せが減ったのかは分からない。でも、確かにぼくは幸福な部類にいた。彼女の病気が発覚してから、それはより一層痛感した。このままの状態がずっとつづくようにとぼくは切に願うようになったからだ。足場は崩れていき、ぼくは土砂から落ち、水に浸る。そのようなイメージの夢を何度かみるようになった。そして、いやな汗をかいた。
「また、来てね」裕紀は智美を見送る。ぼくは、その後ろで手を振る。その場に、母や妹がいるような錯覚をもっている。彼女らも裕紀と電話で話したが、なかなか、こちらに来ることは難しかった。それでも、会話の最中は裕紀も嬉しそうにしていた。ぼくは、それをきくともなくきいていると楽しさが伝染するような気がした。
「ごめんね、そんなことまでしてもらって」ぼくが使い終わった皿を洗っていると、彼女は申し訳なさそうに言う。
「ラグビーの合宿で、もっと大量の皿を下級生は洗ったもんだよ。いまなら、触りたくもない、先輩の服とかもね」
「楽しそう」
「楽しくないけど、やっぱり、楽しかったな」
ぼくら二人にはお互いのそのころの状況の映像が浮かんでいるはずだった。彼女は新鮮で好奇心に満ち、優しさに溢れていた。ぼくは無骨ながらも、彼女を日に日に好きになっていった。でも、もうひとりの女性のことも魔術的に惹かれてしまった。
「映画でも、今週末、久し振りに見に行こうか?」ぼくは濡れた手をタオルで拭きながら彼女に言う。
「そうだね、もっと体力をつけなきゃ」
「ゆっくりと」
「そう、ゆっくりと」何度も言うが、ぼくは回復の段階が好きだった。それゆえに、この状態を愛せなくても、馴染もうとするぐらいの努力はするべきだった。いつか、彼女は元気になり、もっときれいな女性に生まれ変わるのだと思っている。タオルを洗濯機に入れ、ぼくはスイッチを着ける。先輩の汚れた洋服を思い出し、その日の暑い日射しすら、ぼくの目の前にあるような気がしていた。
裕紀は退院して、家に戻ってきている。それは、とても喜ばしいことだった。だが、彼女には定期的に通院するという仕事が増えた。だからといって、不平を言うようなこともなかった。ただ、彼女の頑張ろうという精神の糸は途絶え、動きも緩やかになった。家事も、自分の仕事も。
ぼくは、それでもそんな姿を愛していた。なるべく、仕事を早く切り上げるようにして家事も最初のうちは手伝っていた。しかし、30代中盤にもなると、仕事の量が減るようなことは決してなく、間もなく、いつものような生活のリズムに戻ってしまった。
物事が回復する一連の時間がぼくは好きだった。ラグビーをしていたときに上級生が急に抜け、チームは混沌とする。だが、いつかは整然としはじめて、新たな活力を得たものだった。裕紀の人生にもそういう段階が早めに来ただけなのだ。ぼくは、その回復を手伝い、ぼくらの関係もより一層強固なものになって欲しかった。
叔母さんも心配でたまらず、昼によく寄るようになっていた。ぼくが帰る頃にはもういなかったが、家事を手伝った気配や雰囲気があった。
「お兄さんたちは?」
「たまに電話で話す」
「ぼくを恨む理由がまた増えたような気がする」
「そんな風に思わないで、ね」
「でも、そう考えているはずだ」
「ただ、わたしが病気になっただけ」
ぼくは、口を噤む。医師は言った。彼女をもっと愛するように。そのために、ぼくは裕紀をきつく抱いた。「どうしたの?」と、彼女はおびえたような声を出す。
「ぼくの前から居なくなってほしくない」
「ずっと、居る。わたしは好きなひとを一度、失ってしまった。二度も失いたくないもん」
「それも、ぼくの所為だ」
「違うよ。もっと誰かの大きな力があるのよ」彼女は、運命のようなものを信じようとしている。自分が理由もなく病気になり、不摂生をしたわけでもなく、過労し過ぎたということもなかった。そして、少女はある少年を失い、ある青年を見つけた。ぼくもある少女を失い、東京でその女性の数年後の姿を知る。いくつかの遍歴がありながらも、ぼくらは上手く行っていたのだ。彼女は、病気のことを恨んでいないようだった。だが、逆にぼくは、裕紀を失いかねない病気のことをはっきりと憎んだ。それは、どうしようもないかもしれないが、根絶される必要があり、もう一度、出番が来てはならなかった。ぼくは、彼女を抱きしめ、そう願っている。
彼女が外出することは減ったが、代わりに友人たちが昼間、遊びに来るようになったらしい。たまに、夜になっても智美がいたりした。
「お、こんにちは。帰んなくてもいいの?」ぼくはカバンをぶら提げたままの姿で、智美に言った。
「彼、出張しているのよ」
「そういえば、まだ、学生のときに、うちに居たことが多かったな」ぼくは昔の彼女を思い出している。母や妹と彼女は打ち解け、自分の家にいるように振舞っていた。
「そうだったね。でも、こんなおじさんじゃなかった。きりっとしたスポーツマンが帰ってくるはずだった」
「それは、こちらも同感です」
ぼくは、女性二人を前にして、夕飯を食べる。彼女らはたくさんの話す事柄があり、ぼくは口を挟める状況ではなかった。智美も、うわさによると何度か流産をして、子どもをもうけることができなかった。同じ状況なので上田さんになんとなく問いたずねたとき、彼はそう答えた。それ以降、ぼくはその話題に触れなかった。ぼくらも、また同じ運命のもとに動いていた。
それで、幸せが減ったのかは分からない。でも、確かにぼくは幸福な部類にいた。彼女の病気が発覚してから、それはより一層痛感した。このままの状態がずっとつづくようにとぼくは切に願うようになったからだ。足場は崩れていき、ぼくは土砂から落ち、水に浸る。そのようなイメージの夢を何度かみるようになった。そして、いやな汗をかいた。
「また、来てね」裕紀は智美を見送る。ぼくは、その後ろで手を振る。その場に、母や妹がいるような錯覚をもっている。彼女らも裕紀と電話で話したが、なかなか、こちらに来ることは難しかった。それでも、会話の最中は裕紀も嬉しそうにしていた。ぼくは、それをきくともなくきいていると楽しさが伝染するような気がした。
「ごめんね、そんなことまでしてもらって」ぼくが使い終わった皿を洗っていると、彼女は申し訳なさそうに言う。
「ラグビーの合宿で、もっと大量の皿を下級生は洗ったもんだよ。いまなら、触りたくもない、先輩の服とかもね」
「楽しそう」
「楽しくないけど、やっぱり、楽しかったな」
ぼくら二人にはお互いのそのころの状況の映像が浮かんでいるはずだった。彼女は新鮮で好奇心に満ち、優しさに溢れていた。ぼくは無骨ながらも、彼女を日に日に好きになっていった。でも、もうひとりの女性のことも魔術的に惹かれてしまった。
「映画でも、今週末、久し振りに見に行こうか?」ぼくは濡れた手をタオルで拭きながら彼女に言う。
「そうだね、もっと体力をつけなきゃ」
「ゆっくりと」
「そう、ゆっくりと」何度も言うが、ぼくは回復の段階が好きだった。それゆえに、この状態を愛せなくても、馴染もうとするぐらいの努力はするべきだった。いつか、彼女は元気になり、もっときれいな女性に生まれ変わるのだと思っている。タオルを洗濯機に入れ、ぼくはスイッチを着ける。先輩の汚れた洋服を思い出し、その日の暑い日射しすら、ぼくの目の前にあるような気がしていた。