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償いの書(105)

2011年09月18日 | 償いの書
償いの書(105)

 本社の会議に出るため、地元に戻った。たまに、こちらのことを忘れ、たまに追憶の気持ちをもってふと思い出す。何人かの表情は更新されないままで残り、また幾人かは年齢が変わったことをその顔から読み取る。
「大病、したんだって?」社長が、会議前に椅子に座っているぼくの後方から肩に手を置き、そう言った。
「ええ、そうなんですけど、いまは、回復に向かってます」
「金銭の方は?」

「大丈夫です。心配ないです。もともと彼女は裕福な家庭に育っている」
「でも、頼れるひとも少ないんだろう?」
「ええ、両親もいないし、ぼくがしっかりしないと」
「そうだな、近藤が東京に行くこと、決めたのが良かったのかな?」
「社長が?」
「そうだ」
「だって、かなり成果を残せたとも思っています」
「しわ寄せの話だよ。うちも女房に迷惑をかけたから」

 人間は、社会的な生き物である。子孫を残して、もう終わりという動物たちや植物ではなかった。ぼくの体力的ピークはラグビー部時代で終わったが、そこから目に見えない形で衰えていく。それを制御しながら、今度は社会的な成功を模索する。ぼくが関わった仕事は形あるものとなり、ぼくの妻は体力的に衰えていった。その比例を振り返ると、ぼくはやり切れなくなっていた。

 自分の思いとは違い、会議は進んでいく。議題は話され、質問があり、回答を求められた。それから、宿題がのこり、その期限が決められた。それは体力がないと進まないが、体力だけでは解決しなかった。

「きょう、泊まっていくんだろう、付き合えよ」と、社長は会議が終わったあとに言った。
「ええ、そうします」
 午後は、車に同乗して若いスタッフとともに現場を廻った。東京から来た社員は当初は萎縮していたが、自分がここの出身だと知ると、萎縮は疑問や好奇心に変わり、たくさんの質問を受けた。ぼくは、丁寧に答えたつもりだが、離れている裕紀のことも忘れることはできなかった。
「ちょっと、停まってもらっていい?」
「どうしたんですか、ここで?」
「そう」ぼくは、舗道に足を着け、後ろ手にドアを閉めた。
「付いて行きます?」
「いや、いいよ。ちょっと、自分の用だから」

 そこは、裕紀の祖母が眠っている場所だった。ぼくらは、まだ10代のときにここに来た。その懐かしい景色をぼくは窓の外に見て、急に降りたくなってしまった。何の用意もしていない。ただ、なにかを誰かに開けっ広げに伝えてみたかった。それは、生きているものではなくても良かったのだ。胸のうちを語りかけるだけなら、返答はいらないのかもしれない。

 ぼくは、ある墓石の前に立ち尽くす。裕紀がずっと使ってきた名前。28年間つかってきた苗字がそこにあった。

「すいません、彼女をあのような状態にしてしまった。もし、知っているなら、もっと前にもぼくは酷いことをしていたんです。自分の都合だけで、ある女性のもとに走ってしまった。なぜか、それをぼくは今回の病気と結び付けてしまうような気持ちを拭いきれません。彼女はぼくを引き留め、関心を保つために無意識的に病気になった。それで、ぼくは仕事場と病院を往復した。そんなことで証明するしか、ぼくの変わらない気持ちをアピールすることしかできないのでしょうか? ぼくは、そんなことをしなくても、とても彼女を大切に思っています。だから、永久的にそれを証明できるように、また彼女の元気を取り戻させてくれないでしょうか。それが、可能ならば、どんな代償でも支払います。どんなものでも」

 ぼくは、彼女の祖母に言っているわけでもなかった。だが、自分の気持ちを整理し、まとめるためにはこの場所が最適で、必然さもあった。だが、見知らぬ彼女の祖母を耳代わりにして、ぼくはもっと大いなるものに頼ろうとした。この数ヶ月のぼくの定まらない思いはこの場所で形あるものに結実した。それで、ぼくは何分経ったのかも分からないまま停めてあった車の前に戻った。
「思い出の場所ですか?」彼も車外に出て、呑気そうに缶コーヒーを飲んでいた。

「待たせてしまったかな?」
「少しは。でも、メモをまとめる時間が必要だったもので、助かりました。で、思い出の場所なんですか、ここ?」
「若い頃に妻とデートをした」
「デートに向く場所にも思えないですけど」
「そう言われると、そうだね。彼女、古風なひとなんだろうね」ぼくらは、ふたりとも車に乗り、シートベルトをしめた。ぼくは、先程のことばを反復しようと思ったが、もう差し出したものが戻らないように、ある面では忘れた。あとは、自分の力ではどうにもならないことを知っていたのかもしれない。だが、ぼくはまだまだどこかでもがきたい気持ちもあった。

 外回りも終え、ぼくは実家の前で降ろしてもらった。
「お疲れなさい」と、母は言う。「お帰り」と父も言った。ぼくは、子どもを迎えるこのような状態を裕紀にも作ってあげたい気持ちをもった。だが、彼女はひとりで東京で寝るのだろう。「ご飯は?」
「社長と食う」
「甥っ子たちと明日、会う?」

「そうだね、でも手ぶらだった。忘れてた。ついでに何か買ってくる」
「いいのよ。裕紀ちゃん、大変だったんだから」
「うん」ぼくは涙を拭うようにして風呂場に向かった。シャワーを浴び、考えていることは、どうにかして、あのころの10代の裕紀のはつらつとした姿に戻してあげたかったということだ。
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