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償いの書(108)

2011年09月24日 | 償いの書
償いの書(108)

 会社を出ると、上杉さんに会う。彼女は陽の当たらない預言者。見えなくても良いものが見える幸運と不吉さ。ぼくは、彼女の能力より彼女が連れている犬が好きだ。ぼくになついている。
「犬の散歩コースって、何通りあるか知ってる?」ぼくが屈んで犬を撫でていると、頭の上方から質問がきこえた。
「さあ、20か30通りですか」ざっと、自分が職場まで歩いてくるルートを考えたが、それ以上の答えを告げた。

「ほんとは、無限大」
「まあ、そう言われるとそうですね。道は無数にあるんだから」
「でも、大体は1種類しか選ばない。犬もその方が安心するし」
「うん、そうですね。決まった場所に片足をあげる」
「そう、男の子なら。近藤くんもひとつのことに拘っている」
「妻が病気でした」

「優しくする方法も無限にある。冷たい仕打ちは彼女のこころから消えている。だが、あなたに与えられないもので、こころが縛られているよう。あなたは、気にもしていないのに」
「うん、やはり見事ですね」
「この子も、ひとつのルートを歩きたがっている。不満もなく毎日、同じ道を。じゃあ、歩かせるわね。また」

 彼女の後ろ姿を眺める。犬は、名残惜しそうにくるっと頭をこちらに向けた。でも、直ぐ忘れたように駆け足になった。毎日、同じ道。

「奥さん、元気になりました?」電話の向こうで笠原さんの声がする。
「うん、徐々にだけどね」
「まだ、若いんだから直ぐ、はつらつとなりますよね?」それは疑問というより同意だった。ぼくもそうなってほしかったが、声にはでなかった。だが、彼女のほうが余程、若い。そして、生きいきとしている。
「どうしたの? 喧嘩でもした」
「まさか。私たちは仲が良いんです。でも、たまには喧嘩もするけど」

「そう、喧嘩ができるぐらいがいいよ」ぼくの視線の先には、見知らぬ犬がいがみあっていた。彼らは同類を敵と考えているのか、見方と考えじゃれたがっているのか判断しようとしたが、結局のところは無理だった。
「上田さんの誕生日を祝ってあげたいな、と考えていたんです」

「いいね」
「そうすれば、裕紀さんもたくさんのひとに会えるでしょう。陰の理由は彼女の回復パーティー」
「自分が目立つのが嫌いだからね」
「そう。わたしはいちばんになりたいけど」
「そういう個性も素敵だよ」
「じゃあ、打ち合わせしてくれます?」
「あれ、笠原さんが段取りするんじゃないの?」
「まあ、そう言わずに」

 ぼくらは夕方に待ち合わせをした。ぼくは、裕紀に電話をして遅くなることを告げ、彼女も旦那さんに理由を言った。ぼくらは、それぐらいに認められた友人になっていた。
「ぼくの会社のそばには、こういうひとがいるんだ」と言って、上杉という女性のことをかいつまんで話した。
「やっぱり、そういうひといるんですね。それで?」
「それででもないんだけど、昔に別れてしまった男性のことって、やっぱり、恨んだりする?」
「まあ、多少は。でも、憎しみも愛情も、記憶としては同じ部屋にいるような気もしてます」

「そうなんだ」ぼくはある部屋の中をイメージする。別々ではないのか? タンスの2段目には過去の愛情の対象がいて、3段目には憎しみの対象が納まっている。

「どうして、そんなこと訊いたんですか?」
「ぼくは、ある女性と付き合うために、ある女性を放り出した」
「知ってます。周知の事実」
「裕紀は、恨まなかったのかなと思って」
「だって、結婚してるじゃないですか。ずっと、長い間」
「そうなんだけど、ぼくはそのことを気にしている。反対に彼女は、子どもを産めなかったことを気にしている。ぼくは、何とも思っていないのに」
「意見が食い違っている」

「意見としても出てこない。その手前にいる」
「お互いのことが好きなんですね。見習わなくちゃ」
「ぼくらは一回、お互いを失った。また、今回もぼくは失う可能性をもった。ある一線をぼくらの関係は越えてしまったのかもしれない。いつか、失うんだという心配が、いつもポケットに入っているような気がしている」
「それぐらい、病気の影響がある?」

「うん。確かにある」重い雰囲気になってしまったが、急に隣の席の皿が床に落ち、その共鳴と数人の歓声が一瞬にして、ぼくらのこころを変えてしまった。心配がそこに移って、皿を割ったような感じがあった。
「そうだ、上田さんの。誰を呼びます?」
「そうだね」ぼくは、指を折って人数を確認した。その行為を見て、「なんか、そういう姿、おじさんみたいですよ」と笠原さんが言う。「これが?」とぼくは、両手で同じ作業をした。確かに、若者っぽくはないようだった。皿は片付き、新しい料理が隣の席に運ばれたようだった。それで、すべてを忘れたように、4、5人の楽しそうな会話が戻っていた。
「お店は、近藤さんが予約してください。会社で出てくれる人を教えますから」
「そうだね。でも、押し付けられたような気がしているよ」

「いいんですよ。ラグビー部の後輩なんですから。彼に帰る時間を言ってありますので、わたし、そろそろ失礼しますね」
「そう。彼にもよろしく」
「まだ、います?」
「どうしようかな、もう一杯飲もうかな」
「隣の女性客に誘われても、断ってくださいよ」
「そんなに、もてないよ」

「知ってます。でも、泣いた近藤さんは可愛かったですよ。また泣くと、母性本能をくすぐられるひともいるかも。じゃあ、ご馳走様」彼女は颯爽と消えた。泣いたことを否定する理由をたくさん思い浮かべたが、どれも言えなかった。だが、彼女の大らかさが、ぼくを救ってくれているのは確かだった。