償いの書(106)
ぼくが店の扉を開けると、もう来ていた社長の背中がカウンターに見えた。彼はだいたいが、せっかちにできていた。ぼくも、待ち合わせの時間より早目に着いたのだが。
「お、来たか。ビールでいいか」と、いいカウンターの向こうからグラスをひとつ貰い、ぼくに手渡した。それをビールで満たすと、ぼくらはその縁に口をつけた。
「近藤君、久し振り」
「どうも、ご無沙汰してます」
「もっと、遠慮しないで、来てちょうだい」と言って、店のひとはおしぼりを渡したあと、自分の手元に視線を戻した。何かを煮ているような香ばしい匂いが鼻腔をくすぐる。それで、さらにぼくは空腹を感じた。
「なにに、する?」社長が注文を訊く。
「適当に、お任せで大丈夫です」ぼくは、以前にしげしげと来ていたときのように大雑把な注文の仕方をとった。
「じゃあ、それで」彼も自分の荷が下りたような言い方をした。「それで、裕紀ちゃんは大丈夫なのか、ほんとうに?」
「ええ、手術もうまくいったみたいだし」
「それなら、いいけど。これ、お見舞いに行けなかった代わりだ」と言って、白い封筒をくれた。それはある程度の重みがあった。
「すいません、遠慮なくいただきます」彼はぼくがいくら抵抗したところで、それを引っ込めないことを知っていた。
「つらいな、自分のことじゃないと」
「そうですね、だけど、ぼくらは病気にならないほど頑強になってしまった。あの練習の賜物です」
「でも、健康診断ぐらいは毎年、受けているんだろう」
「そう、それは。裕紀は会社を辞めてしまってから、もしかしたら、そういうことがおろそかになってしまったのかも」
「管理不足、お前の」
「その通りです。職務怠慢」
「部下は、きちんと管理できているのに」
「ありがとうございます」
社長は、こういう湿っぽい話に慣れていないのか、用があるといって会計を済ませ、さっさと帰ってしまった。実際に用などはないはずだった。ぼくと飲む日は、いつもそうだったから、それは分かった。
「奥さん、病気になったの?」
「そう、癌で手術した」
「可哀想に、若いんでしょう」
「まだ、35です」店のカウンターと向こうでぼくらはとりとめもなく話す。お客はまばらだったが、それらのひとも段々と時間とともに消えていった。ぼくと彼女は何回か関係をもった。だが、それも10年近く経った話で、それが事実であったか、ぼくらは互いに思い出さないようにしていた。ぼくは別の話題を考える。裕紀のことを軽々しく誰かに話す気分でもなかったのだ。それで、加藤さんというその女性にはひとりの男の子がいたことを思い出す。父親とは別れ、ぼくはその子にサッカーを教えていた時期があった。ふと、それが気になりだした。
「彼は、もう大人になったかな」
「まだ、学生だけど、料理が好き」
「へえ、似てるんだ」
「スポーツも真似で、料理も真似だって言っている」
「それを越えると、独創的なものが生まれる」
「そう。どう、おいしい?」
「おいしいです」と言うと、おかわりの小皿がでた。
「近藤君は強がりだから、誰かに甘えられない?」
「むかし、甘えてしまった」
「甘えすぎた。甘えすぎて、手に負えないほどだった」
「それで、突っ張ねられた」
「そうする時期もあるのよ。また、甘えたい?」
「いや、今回はいいです。すいません。自分の無茶の結果が妻の病気につながって、また治るのを妨げられてしまうような心配もある」
「そうよ、ゲンを担いでいるのね」
「そうかもしれない。お会計は?」
「この分も社長さんに請求する。だから、ほっとしたかったら、また来てね」
「そうします」彼女は店の外まで出て、ぼくの背中を勇気が出るかのように軽く叩いた。その温かみを感じたまま、ぼくは布団のなかに入った。
目を覚ますと、下から甥っ子や姪っ子の声がする。そして、彼らと話す妹の声もする。
「朝寝坊のお兄ちゃんが来たよ。遊んでもらいな」と妹は、早速彼らを促した。だが、遠慮の間があって、来ないのかと思っていたら甥が背中へ飛びついてきた。「なにか、食べたら。外に行こう」と彼を振り払い、台所に入った。ぼくは、ご飯を口に運び、妹の心配げな顔を見る。
「大変だった?」
「まあ、それは大変だよ」
「みんな、あのひとのこと大好きなのに。取り上げられたら、どんなに悲しいだろう」
「大丈夫だよ。いまは予後だけど、元気になったらまたこっちに来るよ」
ぼくが顔を洗い、部屋に戻ると、彼らは外で遊ぶことをせがんだ。それで、ぼくも靴を履き、太陽の下へ飛び出す。公園で回転する遊戯につかまる甥の歓声を聞き、姪がすわるブランコの背を押した。それが終わると、妹が持たせたサンドイッチを食べ、水筒のふたを開け、コップにジュースを3つ注いだ。
「裕紀お姉ちゃん、病気になったの?」
「そうだけど、心配いらないよ」
「痛かったの?」姪ははじめて注射を刺された記憶でもあるのか、片腕をおさえて言った。
「痛いけど、大人は泣いちゃいけないんだよ。それに、ぼくらは、君らみたいな子どもをもつことができなくなってしまったかもしれないんだ。だから、今度、東京に遊びにきて裕紀に優しくしてくれたり、遊んでくれるかな。そうすると、病気も早く治ると思うんだ」
「するよ。お姉ちゃん、ずっと好きだもん」ぼくは両手で彼らの頭を撫でる。ぼくは、ある場面でひとを傷つけ、ある場面では冷たい言葉を吐いた。その報いは少なく、こうして優しい甥や姪をもてた。それだけでも、ぼくは恵まれた人生なのだと思っていた。
ぼくが店の扉を開けると、もう来ていた社長の背中がカウンターに見えた。彼はだいたいが、せっかちにできていた。ぼくも、待ち合わせの時間より早目に着いたのだが。
「お、来たか。ビールでいいか」と、いいカウンターの向こうからグラスをひとつ貰い、ぼくに手渡した。それをビールで満たすと、ぼくらはその縁に口をつけた。
「近藤君、久し振り」
「どうも、ご無沙汰してます」
「もっと、遠慮しないで、来てちょうだい」と言って、店のひとはおしぼりを渡したあと、自分の手元に視線を戻した。何かを煮ているような香ばしい匂いが鼻腔をくすぐる。それで、さらにぼくは空腹を感じた。
「なにに、する?」社長が注文を訊く。
「適当に、お任せで大丈夫です」ぼくは、以前にしげしげと来ていたときのように大雑把な注文の仕方をとった。
「じゃあ、それで」彼も自分の荷が下りたような言い方をした。「それで、裕紀ちゃんは大丈夫なのか、ほんとうに?」
「ええ、手術もうまくいったみたいだし」
「それなら、いいけど。これ、お見舞いに行けなかった代わりだ」と言って、白い封筒をくれた。それはある程度の重みがあった。
「すいません、遠慮なくいただきます」彼はぼくがいくら抵抗したところで、それを引っ込めないことを知っていた。
「つらいな、自分のことじゃないと」
「そうですね、だけど、ぼくらは病気にならないほど頑強になってしまった。あの練習の賜物です」
「でも、健康診断ぐらいは毎年、受けているんだろう」
「そう、それは。裕紀は会社を辞めてしまってから、もしかしたら、そういうことがおろそかになってしまったのかも」
「管理不足、お前の」
「その通りです。職務怠慢」
「部下は、きちんと管理できているのに」
「ありがとうございます」
社長は、こういう湿っぽい話に慣れていないのか、用があるといって会計を済ませ、さっさと帰ってしまった。実際に用などはないはずだった。ぼくと飲む日は、いつもそうだったから、それは分かった。
「奥さん、病気になったの?」
「そう、癌で手術した」
「可哀想に、若いんでしょう」
「まだ、35です」店のカウンターと向こうでぼくらはとりとめもなく話す。お客はまばらだったが、それらのひとも段々と時間とともに消えていった。ぼくと彼女は何回か関係をもった。だが、それも10年近く経った話で、それが事実であったか、ぼくらは互いに思い出さないようにしていた。ぼくは別の話題を考える。裕紀のことを軽々しく誰かに話す気分でもなかったのだ。それで、加藤さんというその女性にはひとりの男の子がいたことを思い出す。父親とは別れ、ぼくはその子にサッカーを教えていた時期があった。ふと、それが気になりだした。
「彼は、もう大人になったかな」
「まだ、学生だけど、料理が好き」
「へえ、似てるんだ」
「スポーツも真似で、料理も真似だって言っている」
「それを越えると、独創的なものが生まれる」
「そう。どう、おいしい?」
「おいしいです」と言うと、おかわりの小皿がでた。
「近藤君は強がりだから、誰かに甘えられない?」
「むかし、甘えてしまった」
「甘えすぎた。甘えすぎて、手に負えないほどだった」
「それで、突っ張ねられた」
「そうする時期もあるのよ。また、甘えたい?」
「いや、今回はいいです。すいません。自分の無茶の結果が妻の病気につながって、また治るのを妨げられてしまうような心配もある」
「そうよ、ゲンを担いでいるのね」
「そうかもしれない。お会計は?」
「この分も社長さんに請求する。だから、ほっとしたかったら、また来てね」
「そうします」彼女は店の外まで出て、ぼくの背中を勇気が出るかのように軽く叩いた。その温かみを感じたまま、ぼくは布団のなかに入った。
目を覚ますと、下から甥っ子や姪っ子の声がする。そして、彼らと話す妹の声もする。
「朝寝坊のお兄ちゃんが来たよ。遊んでもらいな」と妹は、早速彼らを促した。だが、遠慮の間があって、来ないのかと思っていたら甥が背中へ飛びついてきた。「なにか、食べたら。外に行こう」と彼を振り払い、台所に入った。ぼくは、ご飯を口に運び、妹の心配げな顔を見る。
「大変だった?」
「まあ、それは大変だよ」
「みんな、あのひとのこと大好きなのに。取り上げられたら、どんなに悲しいだろう」
「大丈夫だよ。いまは予後だけど、元気になったらまたこっちに来るよ」
ぼくが顔を洗い、部屋に戻ると、彼らは外で遊ぶことをせがんだ。それで、ぼくも靴を履き、太陽の下へ飛び出す。公園で回転する遊戯につかまる甥の歓声を聞き、姪がすわるブランコの背を押した。それが終わると、妹が持たせたサンドイッチを食べ、水筒のふたを開け、コップにジュースを3つ注いだ。
「裕紀お姉ちゃん、病気になったの?」
「そうだけど、心配いらないよ」
「痛かったの?」姪ははじめて注射を刺された記憶でもあるのか、片腕をおさえて言った。
「痛いけど、大人は泣いちゃいけないんだよ。それに、ぼくらは、君らみたいな子どもをもつことができなくなってしまったかもしれないんだ。だから、今度、東京に遊びにきて裕紀に優しくしてくれたり、遊んでくれるかな。そうすると、病気も早く治ると思うんだ」
「するよ。お姉ちゃん、ずっと好きだもん」ぼくは両手で彼らの頭を撫でる。ぼくは、ある場面でひとを傷つけ、ある場面では冷たい言葉を吐いた。その報いは少なく、こうして優しい甥や姪をもてた。それだけでも、ぼくは恵まれた人生なのだと思っていた。