償いの書(109)
結局、ぼくは幹事になってその場を仕切っている。金曜の夕方。解放的な気分が町にも溢れている。25人ぐらいが集まる予定で、みなばらばらにやって来た。ぼくは、時間の関係上、裕紀を迎えに行くことはできなかったが、彼女も5分ほど前にはそこに着いた。
「場所、直ぐに分かった?」
「これでも、ひろし君より、東京長いんだよ」彼女は微笑む。そのことより、ほんとうは彼女の顔色を心配していたが、以前と同じような色合いを帯びているので、その心配もいくらか薄らいだ。
笠原さんが乾杯のために立ち上がり、上田さんを簡単に冷やかし、皆のグラスが鳴った。それから、20分ぐらい経っただろうか、上田さんの挨拶をきくことになる。
「オレには、信頼している2人の後輩がいて、尊敬もしているが、ある面ではやり切れなくも思っている。ひとりは、近藤で、今日もありがとう。近藤は、オレらの高校に入ってきた。同じラグビー部の1年後輩で、その時までは弱小というチームにくるまれ、友人たちを増やし、のほほんと3年間遊んで暮らす予定だった。だが、近藤にはそんな気持ちはさらさらなく、自分を励まし、またオレらを台風のように巻き込み、なんだかオレらも情熱に呑み込まれるような形で、そのシステム化される中に入ってしまった。結局は、彼の夢は果たせなかったけれども、ある面では、いまでもオレは後輩たちの強さをテレビで見る楽しみができた。近藤のあの小さな決意が大きな収穫をあげた。だけれども、のんびりと遊びのように部活をする予定は狂ってしまった。汗と泥にまみれた青春。後悔してないけど。でも、智美と引き合わせてくれたのも彼だし、最終的に近藤には文句が言えない。ありがとう。もうひとりは笠原で、オレらは芸術的な勘をたよりに、思い込みだけで仕事をしてきた。仕事も遊びの延長なんだ、という思いで楽しかった。それを捨て去るというのは、矢張りいやだった。だが、笠原のこまめさにより、会社は利益をあげ、他社から信頼も勝ち取り、スケジュールは無駄に延びることもなく、仕事は快適にすすんでいく。その反面、遊びなんだという気持ちはいくらか消えてしまった」
「いまでも、遊んでいるじゃないですか」
「昔は、もっとだよ。そのふたりの気が合うのは、多分、こういう理由からなのだろう。ふたりがこの場をセッティングしてくれ、そこにはミスが入り込まないのは知っている。こういう後輩をもてた男の36歳の誕生日を祝ってくれてありがとう。あと、裕紀ちゃんも病気から直ったみたいで、来てくれてありがとう。もっと、元気になって、またどこか行こう」
拍手が鳴る。ぼくの評価は、そういう形で露になった。そして、笠原さんとなぜ気持ちがあうのか上田さんの口から説明されて納得がいった。自分の過去の情熱は、別の人間をも動かしたのだという気持ちが、その日のぼくには誇らしかった。
逆に裕紀の病気のことを知らないひとも中にはいた。それで、何人かに訊かれはしたが、智美が間にたって、そこは話をまとめているらしかった。そこに遅れて高井君がきた。笠原さんの旦那。ぼくらの地元で別の高校のラグビー部に所属していた。
彼の身体も大きく、直ぐにおいしそうにお酒を飲み、料理を食べた。途中で、笠原さんに促されたように裕紀の体調を訊いた。
「もう、大丈夫なんだよ。奥さんにもお見舞いに来てもらった。ひろし君をたくさん励ましてくれた。彼のほうが死んでしまうぐらいに忙しかったから」
「そうだったんだ?」高井君は妻に訊く。ぼくは、いまだに笠原さんと呼んでいる事実に気付いた。
「そう、ある日、わたしの前で泣いた。妻を思って泣いた。それぐらいに愛しているんだと思った」
「泣いたの?」今度は、裕紀が驚いた。
「ついね。彼女はいつもからかうけど、こうなるなら別のひとの前でするべきだったよ」
「そんなに心配してくれてたんだ」裕紀はうつむく。
「もう決して、誰の前でも泣かないよ。とくに言いふらす奴の前では泣かないよ」その決意は、彼女がぼくを悲しませる理由を根絶する決意でもあった。
店員さんは続々とグラスを持ってきて、変わりに空いたものを引っ込めた。金曜の夕方は夜になり、酔い過ぎたあとの復讐の土曜の朝を、ぼくは思い浮かべた。この会は陰では裕紀の元気になった姿を見せるものだった。それは成功し、彼女も思いのほか楽しそうにしていた。
「ぼくらは大切なひとを失うわけにはいかない。だから、来年も再来年も、もっと人数を増やしつつ、オレの誕生日を祝ってくれ」最後のほうになり、少し酔った上田さんは、大きな声でみなに言った。
「利己的に聞こえますよ。別の誰かでもいいんじゃないですか?」
「うるさいぞ、笠原。オレがお前を育ててあげたんだぞ。いや、裕紀ちゃんも来年も会おう。そういうことをオレは言いたかったんだ」
裕紀が退院して半年ぐらいが経っていた。彼女は回復に向かっていた。ぼくらは以前のように友人たちと笑い、たくさん話し、ぼくは浮かれて飲んで酔った。映像として記憶に残るある病院の一室に寝ている裕紀は幻か、もしくは悪い夢だったのだと思おうとした。それは、この部屋にいる限り成功し永続する感じをもった。
結局、ぼくは幹事になってその場を仕切っている。金曜の夕方。解放的な気分が町にも溢れている。25人ぐらいが集まる予定で、みなばらばらにやって来た。ぼくは、時間の関係上、裕紀を迎えに行くことはできなかったが、彼女も5分ほど前にはそこに着いた。
「場所、直ぐに分かった?」
「これでも、ひろし君より、東京長いんだよ」彼女は微笑む。そのことより、ほんとうは彼女の顔色を心配していたが、以前と同じような色合いを帯びているので、その心配もいくらか薄らいだ。
笠原さんが乾杯のために立ち上がり、上田さんを簡単に冷やかし、皆のグラスが鳴った。それから、20分ぐらい経っただろうか、上田さんの挨拶をきくことになる。
「オレには、信頼している2人の後輩がいて、尊敬もしているが、ある面ではやり切れなくも思っている。ひとりは、近藤で、今日もありがとう。近藤は、オレらの高校に入ってきた。同じラグビー部の1年後輩で、その時までは弱小というチームにくるまれ、友人たちを増やし、のほほんと3年間遊んで暮らす予定だった。だが、近藤にはそんな気持ちはさらさらなく、自分を励まし、またオレらを台風のように巻き込み、なんだかオレらも情熱に呑み込まれるような形で、そのシステム化される中に入ってしまった。結局は、彼の夢は果たせなかったけれども、ある面では、いまでもオレは後輩たちの強さをテレビで見る楽しみができた。近藤のあの小さな決意が大きな収穫をあげた。だけれども、のんびりと遊びのように部活をする予定は狂ってしまった。汗と泥にまみれた青春。後悔してないけど。でも、智美と引き合わせてくれたのも彼だし、最終的に近藤には文句が言えない。ありがとう。もうひとりは笠原で、オレらは芸術的な勘をたよりに、思い込みだけで仕事をしてきた。仕事も遊びの延長なんだ、という思いで楽しかった。それを捨て去るというのは、矢張りいやだった。だが、笠原のこまめさにより、会社は利益をあげ、他社から信頼も勝ち取り、スケジュールは無駄に延びることもなく、仕事は快適にすすんでいく。その反面、遊びなんだという気持ちはいくらか消えてしまった」
「いまでも、遊んでいるじゃないですか」
「昔は、もっとだよ。そのふたりの気が合うのは、多分、こういう理由からなのだろう。ふたりがこの場をセッティングしてくれ、そこにはミスが入り込まないのは知っている。こういう後輩をもてた男の36歳の誕生日を祝ってくれてありがとう。あと、裕紀ちゃんも病気から直ったみたいで、来てくれてありがとう。もっと、元気になって、またどこか行こう」
拍手が鳴る。ぼくの評価は、そういう形で露になった。そして、笠原さんとなぜ気持ちがあうのか上田さんの口から説明されて納得がいった。自分の過去の情熱は、別の人間をも動かしたのだという気持ちが、その日のぼくには誇らしかった。
逆に裕紀の病気のことを知らないひとも中にはいた。それで、何人かに訊かれはしたが、智美が間にたって、そこは話をまとめているらしかった。そこに遅れて高井君がきた。笠原さんの旦那。ぼくらの地元で別の高校のラグビー部に所属していた。
彼の身体も大きく、直ぐにおいしそうにお酒を飲み、料理を食べた。途中で、笠原さんに促されたように裕紀の体調を訊いた。
「もう、大丈夫なんだよ。奥さんにもお見舞いに来てもらった。ひろし君をたくさん励ましてくれた。彼のほうが死んでしまうぐらいに忙しかったから」
「そうだったんだ?」高井君は妻に訊く。ぼくは、いまだに笠原さんと呼んでいる事実に気付いた。
「そう、ある日、わたしの前で泣いた。妻を思って泣いた。それぐらいに愛しているんだと思った」
「泣いたの?」今度は、裕紀が驚いた。
「ついね。彼女はいつもからかうけど、こうなるなら別のひとの前でするべきだったよ」
「そんなに心配してくれてたんだ」裕紀はうつむく。
「もう決して、誰の前でも泣かないよ。とくに言いふらす奴の前では泣かないよ」その決意は、彼女がぼくを悲しませる理由を根絶する決意でもあった。
店員さんは続々とグラスを持ってきて、変わりに空いたものを引っ込めた。金曜の夕方は夜になり、酔い過ぎたあとの復讐の土曜の朝を、ぼくは思い浮かべた。この会は陰では裕紀の元気になった姿を見せるものだった。それは成功し、彼女も思いのほか楽しそうにしていた。
「ぼくらは大切なひとを失うわけにはいかない。だから、来年も再来年も、もっと人数を増やしつつ、オレの誕生日を祝ってくれ」最後のほうになり、少し酔った上田さんは、大きな声でみなに言った。
「利己的に聞こえますよ。別の誰かでもいいんじゃないですか?」
「うるさいぞ、笠原。オレがお前を育ててあげたんだぞ。いや、裕紀ちゃんも来年も会おう。そういうことをオレは言いたかったんだ」
裕紀が退院して半年ぐらいが経っていた。彼女は回復に向かっていた。ぼくらは以前のように友人たちと笑い、たくさん話し、ぼくは浮かれて飲んで酔った。映像として記憶に残るある病院の一室に寝ている裕紀は幻か、もしくは悪い夢だったのだと思おうとした。それは、この部屋にいる限り成功し永続する感じをもった。