償いの書(101)
自分自身の心配だけがこころを占めてきた時代はいつまでだったのだろう? 高校でラグビー部に入ってからは、もうチームのことを優先していた。ぼくは、全国大会に出るべく努力をしていたが、それは、自分ひとりの力ではどうにもならなかった。監督の指導があって、仲間が必要だった。すると、中学生のときにした高校受験の心配が最後だったのかもしれない。
いまは、裕紀の病気のことが頭を占領している。それを覚られもしないように仕事をした。いつもと同じように振る舞い、いつもと同じように笑った。仕事相手もこころの変化には気付かず、確かな手応えもあった。それも終わり、ぼくは出張の帰りに新幹線に乗っていた。新聞を手にして、車内で売られている飲み物を買った。だが、自分の味覚のせいで、その味はないも同然だった。裕紀は、どうしているのだろう?
駅に着き、会社に連絡だけ入れ、ぼくは裕紀のいる病院に向かった。ぼくは自分の身体も丈夫なため、そういう場所には寄り付かなかった。これも、ラグビーのときに、骨折をした友人を見舞ったことを思い出している。彼は、いま元気なのだろうか?
病院内に入り、看護婦さんに場所を聞き、部屋に案内された。自分は、冷たい夫だった。ぼくの何回かの浮気のせいで、裕紀は病気になったのだと、不思議にそう感じた。
「来てくれたんだ」裕紀は、笑う。だけど、ぼくはいままでのようにその表情を手放しでは喜べない。
「ごめん、遅くなった。今日も付き添えなくてごめん。あれ、叔母さんは?」
「さっきまで居てくれたけど、やはり、家の用事もあるらしく」
「そうだよね、淋しかった?」
「そういう風に考えられる暇もなかった。ひろし君も帰ったらひとりになるね。家のことよろしくね」
「任せておけよ」
「いろいろ考えて、心配になった。でも、心配する前に治ってくれることを願うようにした。まだ、ひろし君との生活もつづきをしたいし・・・」
「ぼくもだよ。そうだ、何か必要なものあった?」
「だいたい、持ってきたし、あとは叔母さんが必要なものを持ってきてくれる約束になった」
「そうか、良かった」
「仕事、どうだった? 力を入れていたけど」
「うまくいったよ。でも、もう、そんなこと心配しなくていいんだよ」
「心配するよ。病院で寝てても妻だよ」
「先生は、優しい?」
「ひろし君とも話がしたいって。妻の余命は、とか言われたら教えてね」
「そんなに非道くないよ。ただの手術で治る程度の問題だよ」
「楽観的」
「そう、楽観的。これ、写真、持ってきたんだね」ぼくは裕紀のベッドの横にある小さな台の上に並べられている写真を指差した。
「子どもに囲まれたひろし君。わたしが見たかったひろし君。果たせなかったひろし君」
「そんな悲観的なことを言うなよ。いまの医学ならば方法や抜け道ぐらい、たくさんあるだろう」
「どうかな」
「子どもなんかいなくても、ただ、裕紀と暮らしたいよ。早く治して、また、好きなとこ、どこにでも行こう」
「そうする。ほんと、そうする。ごめん、面会の時間があって・・・・」
「そうだった。ゆっくり休むといいよ」ぼくは、彼女のおでこにキスをした。それは冷んやりとしていた。「じゃあ、明日、また来るよ」
彼女は手を振る。ぼくは、彼女を苛酷な状況にいつも追い込む人間のような気がした。若い彼女と別れ、留学先に追放した。いまは、こうして病院内に押し込んでいる。自分は陽気に振舞ったが、やはり、自分の運命を悲観していた。どこかで、間違った選択をしたのか?
地元の駅で降り、そのまま続く商店街を歩いた。金曜の夜の雑踏が自分にはいまいましかった。ぼくも浮かれる民衆の一員でいたかった。しかし、そこの部外者であることは事実のようだった。こころは寂れ、地面を蹴る歩調も重かった。だが、どこかで夕飯をとらなければいけない。それで、ある店に入る。
「あれ、きょうはひとりで?」その無造作な言葉が、ぼくには痛かった。
「急に空腹になったもんで」
「そうですか、何にします?」
メニューを開く手間もなく、ぼくは注文する。料理が運ばれてくる前にビールで喉を潤した。今日は、自分が存分に暖めてきたプロジェクトが蕾を終える日でもあった。ぼくは、同僚たちとそれを祝い、また、裕紀とも週末を仕事のことを一切忘れ、楽しめると期待していた。だが、ぼくの頭には心配しか残らなかった、数杯、ビールがはいったグラスを空け、それでも、ぼくには酔いなど簡単に来てはくれないようだった。
食事を終えて、コンビニエンス・ストアに寄り、飲み物をパックで買った。ビニール袋を渡され、それを持って見慣れた道を歩いている。いつもなら、この辺りで裕紀のことを思い出し、彼女の一日のことを振り返ったものだった。今日は、なにをしていたのだろう。自分の仕事はすすんだのか。友人とも会ったのかなどと。
だが、今日の裕紀の一日を自分は、もう知ってしまっていた。検査を受け、薬を飲み、ベッドで寝ていた。そう考えながら、ぼくは家の鍵を空ける。
電気のスイッチをつけ、カーテンを開けた。なぜか、自分は、
「裕紀、いるんだろう?」と、小声とも呼べない音量でその名前を口に出していた。
自分自身の心配だけがこころを占めてきた時代はいつまでだったのだろう? 高校でラグビー部に入ってからは、もうチームのことを優先していた。ぼくは、全国大会に出るべく努力をしていたが、それは、自分ひとりの力ではどうにもならなかった。監督の指導があって、仲間が必要だった。すると、中学生のときにした高校受験の心配が最後だったのかもしれない。
いまは、裕紀の病気のことが頭を占領している。それを覚られもしないように仕事をした。いつもと同じように振る舞い、いつもと同じように笑った。仕事相手もこころの変化には気付かず、確かな手応えもあった。それも終わり、ぼくは出張の帰りに新幹線に乗っていた。新聞を手にして、車内で売られている飲み物を買った。だが、自分の味覚のせいで、その味はないも同然だった。裕紀は、どうしているのだろう?
駅に着き、会社に連絡だけ入れ、ぼくは裕紀のいる病院に向かった。ぼくは自分の身体も丈夫なため、そういう場所には寄り付かなかった。これも、ラグビーのときに、骨折をした友人を見舞ったことを思い出している。彼は、いま元気なのだろうか?
病院内に入り、看護婦さんに場所を聞き、部屋に案内された。自分は、冷たい夫だった。ぼくの何回かの浮気のせいで、裕紀は病気になったのだと、不思議にそう感じた。
「来てくれたんだ」裕紀は、笑う。だけど、ぼくはいままでのようにその表情を手放しでは喜べない。
「ごめん、遅くなった。今日も付き添えなくてごめん。あれ、叔母さんは?」
「さっきまで居てくれたけど、やはり、家の用事もあるらしく」
「そうだよね、淋しかった?」
「そういう風に考えられる暇もなかった。ひろし君も帰ったらひとりになるね。家のことよろしくね」
「任せておけよ」
「いろいろ考えて、心配になった。でも、心配する前に治ってくれることを願うようにした。まだ、ひろし君との生活もつづきをしたいし・・・」
「ぼくもだよ。そうだ、何か必要なものあった?」
「だいたい、持ってきたし、あとは叔母さんが必要なものを持ってきてくれる約束になった」
「そうか、良かった」
「仕事、どうだった? 力を入れていたけど」
「うまくいったよ。でも、もう、そんなこと心配しなくていいんだよ」
「心配するよ。病院で寝てても妻だよ」
「先生は、優しい?」
「ひろし君とも話がしたいって。妻の余命は、とか言われたら教えてね」
「そんなに非道くないよ。ただの手術で治る程度の問題だよ」
「楽観的」
「そう、楽観的。これ、写真、持ってきたんだね」ぼくは裕紀のベッドの横にある小さな台の上に並べられている写真を指差した。
「子どもに囲まれたひろし君。わたしが見たかったひろし君。果たせなかったひろし君」
「そんな悲観的なことを言うなよ。いまの医学ならば方法や抜け道ぐらい、たくさんあるだろう」
「どうかな」
「子どもなんかいなくても、ただ、裕紀と暮らしたいよ。早く治して、また、好きなとこ、どこにでも行こう」
「そうする。ほんと、そうする。ごめん、面会の時間があって・・・・」
「そうだった。ゆっくり休むといいよ」ぼくは、彼女のおでこにキスをした。それは冷んやりとしていた。「じゃあ、明日、また来るよ」
彼女は手を振る。ぼくは、彼女を苛酷な状況にいつも追い込む人間のような気がした。若い彼女と別れ、留学先に追放した。いまは、こうして病院内に押し込んでいる。自分は陽気に振舞ったが、やはり、自分の運命を悲観していた。どこかで、間違った選択をしたのか?
地元の駅で降り、そのまま続く商店街を歩いた。金曜の夜の雑踏が自分にはいまいましかった。ぼくも浮かれる民衆の一員でいたかった。しかし、そこの部外者であることは事実のようだった。こころは寂れ、地面を蹴る歩調も重かった。だが、どこかで夕飯をとらなければいけない。それで、ある店に入る。
「あれ、きょうはひとりで?」その無造作な言葉が、ぼくには痛かった。
「急に空腹になったもんで」
「そうですか、何にします?」
メニューを開く手間もなく、ぼくは注文する。料理が運ばれてくる前にビールで喉を潤した。今日は、自分が存分に暖めてきたプロジェクトが蕾を終える日でもあった。ぼくは、同僚たちとそれを祝い、また、裕紀とも週末を仕事のことを一切忘れ、楽しめると期待していた。だが、ぼくの頭には心配しか残らなかった、数杯、ビールがはいったグラスを空け、それでも、ぼくには酔いなど簡単に来てはくれないようだった。
食事を終えて、コンビニエンス・ストアに寄り、飲み物をパックで買った。ビニール袋を渡され、それを持って見慣れた道を歩いている。いつもなら、この辺りで裕紀のことを思い出し、彼女の一日のことを振り返ったものだった。今日は、なにをしていたのだろう。自分の仕事はすすんだのか。友人とも会ったのかなどと。
だが、今日の裕紀の一日を自分は、もう知ってしまっていた。検査を受け、薬を飲み、ベッドで寝ていた。そう考えながら、ぼくは家の鍵を空ける。
電気のスイッチをつけ、カーテンを開けた。なぜか、自分は、
「裕紀、いるんだろう?」と、小声とも呼べない音量でその名前を口に出していた。