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償いの書(104)

2011年09月17日 | 償いの書
償いの書(104)

 ぼくは、仕事の合間に缶コーヒーを飲みながら、携帯電話の履歴を探っていた。そこには、「ゆり江」という名前があった。ぼくはその名前の上を素通りして、次の履歴にあった別の急ぎの電話をかけた。発注していた品物の納品が遅れることを告げられ、それをまた別の人間に連絡した。それも一息つくと、あらためて、ゆり江という表示の番号に電話をかけた。

「いま、裕紀さんと電話をしていた。癌だったって、教えてくれた」
「そう、やっと退院したけど」
「大丈夫? お見舞いにも行けなかった」それは、どちらの気持ちを心配してかの大丈夫という発言にいたったかは不明だった。ぼくの気持ち?
「大変だったけど、段々と落ち着いてきている」
「もっと、早くに教えてもらえればよかった」
「こういうときは、バタバタするものだよ。でも、気付かなくてごめん」
「わたし、いけなかったでしょうか?」
「なにが?」
「ひろしさんとのこと隠していて」
「だって、あれはもう何年も前に終わったことだし」

「終わったことか。わたし、裕紀さんのことが世界でいちばん、好きなんです。ずっと、憧れていたんです。優しくって、面倒見がよくて」
「ぼくも、彼女の良さをこれでも知っている積もりだよ。君以上にそばにいるんだから」
「意地悪な言い方。でも、そんな大切なひとと別れることができるひとがいたなんて・・・」彼女は無言になり、その過去に起こった状況を思い浮かべているようだった。だが、突然、「それで、そのひとを苦しめなければならないと思った」
「どんな理由であれ、ぼくらは出会い、でも、ぼくは君のことも好きになってしまった。いけないことだとも、今は思っていない」

「いくらか少なめに」
「会うタイミングが悪かっただけだよ」
「わたし、裕紀さんに会いにいってもいい?」
「もちろん、いいよ。彼女も喜ぶよ」
「わたし、反省している。裕紀さんの思い出からなにかを一部でも奪ってしまったかもしれない。その反省を胸に収めたままに出来ないかも」
「出来るよ。言わないよ」

「じゃあ、何日かしてから行きます。驚かないでください」
「裕紀をいたわることを、いちばんに考えてね。これ以上、ぼくも裕紀も心労に耐えられない」
「自分勝手な言い方のような気も・・・」電話を終え、ぼくはぬるくなったコーヒーを喉に注ぎいれた。いつも以上にそれは苦く、また、逆に後味は変に甘かった。

 普段のように家に帰ると、裕紀はこころを喜ばせていた。
「ゆり江ちゃんが来てくれるんだって。家のことも忙しいのにね」
「そう、良かったね」
「え、なんか知ってた? もっと、びっくりするかと思った」
「いや、退院してからいろいろなひとが来ているから、彼女も友人だし・・・」
「そう?」

 ぼくは、裕紀と再会してから彼女を最優先に考えてきたつもりだった。さらに、病後はもっと彼女を大切にしようと誓っていた。それは、当然の帰結だった。彼女を失うことはできないのだ。ぼくは、そのことでずっと前に苦しみ、彼女から憎まれていたと思っていた。だが、それは心配していた自分が馬鹿だったというぐらいにあっさりと解決され、それゆえに、ぼくは、彼女をもっと愛そうとしていた。

 しかし、なぜ、裕紀がという思いも拭い切れなかった。こんなにも愛らしく、ひとと争うこともしらずに生活をしようと決めていた子が病気になるなんて。

 2日ほど経って、家に着くと、ゆり江がいた。会わないうちに、一段と女性らしくなっていた。ぼくへの復讐ということで、裕紀のためにぼくに近付いてきた女性。ぼくと雪代が別れでもすれば、その念願が叶うはずだった。だが、雪代は多分、知らないままの状態を保った。そのような青臭い感情と同じ土俵に立てるほど、彼女は子どもではなかった。ぼくは、その一途な思いに嵌まり、また迷いふたつの生活を送った。いつか、ゆり江は別の男性を見つけ、ぼくから去った。ぼくらは本当の意味で憎みあうこともできず、お互いがあたたかい思い出を胸に秘めるにいたった。

 それらを裕紀はすべて知らない。自分のために、別れたような男性を破滅させようと考えた少女がいたことも、逆にそれが出会いのきっかけになってしまったことも、ぼくらの間に交友ができてしまったことも。
 ゆり江はそのことで、いまだに悩んでいるらしかった。ぼくらは、病気にさせてしまったという問題と責任を追及し、また、自分らの健康ささえ否定しようとした。なぜ、ぼくらではなく、いたいけな裕紀なのだ?

「みんな、心配してくれるから、そのエネルギーをもらって、元気になってきた」裕紀は、笑う。「ひろし君もたくさんの女性たちの優しさを知ってくれたと思う」
「ゆうちゃんが、いちばん、優しいです」ゆり江はそう言った。それは二番目などないという決意であり、彼女なりの結論だった。
「そう?」裕紀は、こちらに眼を向けそう訊く。
「そう思うよ」
「こんなに心配かけたのに?」

「ぼくは裕紀からもらった分の半分も返せていない。まだまだ、裕紀はたくさんの利子を請求する権利がある」

 それは、ぼくなりの償いでもあり、癒せない傷をあたえた後悔の念でもあった。そのために、裕紀は病気になるのか? 身体の問題は逆の意味では軽く、ぼくのこころは、そういう影響下のもと蝕まれる必要があるのかもしれない。それも償いなのか? ぼくは、答えのない問題を思案し続け、裕紀とゆり江というふたりの女性がぼくに示した愛情も、余程、遠くに行ってしまったような気がしていた。
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