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償いの書(102)

2011年09月10日 | 償いの書
償いの書(102)

 ある女性の存在が失われようとしている。それは、大げさか。しかし、彼女はぼくにとって取替えが利くものではなかった。ほかのもので代用するということなど出来なくて当然だった。

 ぼくは、ある部屋に呼ばれ、医師と面談を終えた。
 会話の内容は卵巣が癌に冒されているということだった。ぼくは、そのことをイメージしようとしたが、なかなかできなかった。

「それで、治る?」敬意を払いながらも、自分の口調は友人と話すようになってしまった。結論としては、ある部分を取り除けば、可能ということだった。
「お子さんは?」
「いないです」
「残念ですね。でも、治ったらきちんと愛してください。治らなくても、もちろん、きちんと愛してください」医師は自信をうかがわせながらも、その説明は科学にたずさわるひとというより宗教家に近かった。ぼくは、うなずいた。
「どうだった、先生?」
「賢そうなひとだった」
「わたしの身体は?」
「彼には治す責任がある」
「癌なんでしょう」
「違うと思うよ」

「ひろし君、保険に入ってるのを忘れないで。口座には、癌になった分だけお金が支払われる」ぼくは、唖然とした顔をする。その表情を見咎められて、「ね」と言われた。「嘘をつくのが、いつも下手」
「でも、治るよ。手術をすれば」
「そうだね、治す。ごめんね、心配をかける妻で」
「もっと、悪態をついたりしろよ。世間を恨んだり、ぼくをなじったり、叔母さんに向かってわめいたり」
「なんで、そんなことするの?」
「普通は、みんな、するんだよ。被害者になったときは」
「被害者じゃないかもしれないもん。加害者に近いかも」

「どうして?」
「ひろし君が可哀想だから」
「裕紀のほうが可哀想だよ。こんなに、若いのに」
「お父さんになれないひろし君。妻の看病をするひろし君。病院と会社を往復するひろし君。ひとりでご飯を食べるひろし君」
「直ぐ退院して、そんな生活ともお別れだね」
「再発する心配がずっとある」

「しないかもしれない」だが、ぼくはその後、何日も病院と職場を往復した。自分を憐れむ気持ちはなかったが、忙しいのは確かだった。仕事を融通することは、なかなか難しく、そのため、家ではぼろ雑巾のようになって寝た。眠りが浅くもっと心配すると思ったが、そうはならなかった。かえって、友人たちのほうが過度な心配をして、ぼくは彼らを慰めるほうになった。

「せっかく、取り戻した関係なのに、こうなってしまったね」智美は泣きながら言った。ぼくと裕紀がふたたび結ばれたのを喜んだのは、彼ら夫婦だった。ぼくらをいつも支援してくれ、その力が大きかったことを、ここで改めて発見した。だが、ぼくは誰に対しても弱音を吐けなかった。

「愛し方が足りなかったかな?」
「裕紀は、そんなことは絶対に言わなかった。逆に大切にされ過ぎている。もっと、粗雑に扱われてもいいとも言っていた」
「ぼくは、一度、乱暴に扱った。若い無知であり過ぎる年代の少女に対して」
「わたしたちも忘れることはできないけど、もうそれも終止符を打っていいころかもね」
「退院したら、そうする」
 退院したら、そうする。それを、ぼくは独り言のように頭に浮かべつづけた。シャワーを浴びているときも、通勤電車の中でも、テレビを見て、食事を摂っているときも。

 ある日、笠原さんから電話があった。「お見舞いに行ってもいいですか?」という内容だった。裕紀は、手術を終え(それは成功らしかった)病室で静養していた。
「今日、ぼくも寄るから、一緒に来る? 多分、話し相手が少なく、退屈していると思う。それに意外と人見知りであることを発見したので、顔なじみのひとがいると喜ぶと思うよ」

 彼女は花束を抱え、待ち合わせの場所に立っていた。きれいな真紅なバラだった。
「ありがとう。じゃあ、行くか」
 ぼくは部屋に入る前に軽くノックをして、顔をのぞかせた。「笠原さんが来てくれた」
「そう」彼女は化粧っ気のない顔にメガネをかけていた。
「こんにちは。体調は、どうですか?」
「ご飯も段々と食べれるようになっている。早く、ひろし君にも美味しいご飯を作ってあげたい。何にもできないひとだから」
「わたしの彼もそうでした。あの地方のラグビー部員は、そういうのに向かないんでしょうかね?」
「上田さんは、なんでも出来るじゃん」
「そうでしたね。偏見でした」

 それから一時間近くも話したようだった。限られた空間での時間は思ったより早く過ぎた。叔母さんも顔を見せ、互いが挨拶をする。
「きれいなお嬢さん」と、叔母さんは単純に感嘆の声をあげる。
「ひろし君の再婚相手をさがすのよ」
「ゆうちゃんは、いつもそういうつまらないことばっかり言う」

 入れ替わりに、ぼくらは退散した。途中、笠原さんが「どっかで、飲んで行きましょうか? 近藤さん、疲れた顔してますよ」と振り向いて言う。

 ぼくは鏡を見るような気持ちで、自分のほほを撫でた。それで、何が分かるわけでもないが、その言葉で、自分の疲れた表情があることが証明されたような気になった。

 ぼくらは、落ち着いた店に入る。笠原さんとは猥雑な店に入ることもあったが、今日はそんな気分ではなかった。ぼくらは、グラスを前にして、意図もせずに乾杯をする。「裕紀さんが早く治るように」と、彼女がぼそっと言った。その自然な温かみにぼくのこころは打たれる。ぼくは、誰にも弱みを見せないつもりだったが、急に気が緩んで思わず涙を流してしまった。女性の前で泣いた思い出など皆無だったが、ぼくのこころはそれを乗り越えてしまうほど弱っていた。

「ごめん、男が泣いた。まわりが変な目で見るかもしれない」
「大丈夫ですよ。可愛いですよ、近藤さんの泣いた顔」彼女を友人だとは思っていたが、真剣な気持ちで大切な人間なのだと再確認した夜だった。
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