償いの書(107)
ぼくは、バックを抱え自分の家の玄関前に着いた。彼女は扉の向こうで以前のような元気な姿でいるのだろうか。そのことが心配の種のひとつになっている。地元にいるときも電話では話したが、声だけでは実際の様子は分からない。だが、声だけを聞くと元気なことは間違いようのない事実のようでもあった。
「ただいま」
「お帰り、どうだった、向こう?」
「あいつらにあったよ」あいつらというのはぼくらの共同認識で甥や姪たちに対するくだけた呼び方だった。
「そう、大きくなったかな」
「かなりね。外見だけでもなく考え方も成長するもんだよ」自分が口にするまでは、そう思ってもいないはずだったが、不思議と口にすると、彼らの成長が理解できるような気がした。この離れた距離を通して。「その証拠に帰る前に手紙を手渡された」
「あの子たちに?」
「そうだよ。ここに2通」ぼくは、バックの手前のジッパーを開け、それを取り出した。
「何が書いてあるの?」彼女は容易に手を伸ばさなかった。
「え、読んでないよ。親展と言われたし」
「まさか?」
「まあ、嘘だけど。それを読む楽しみは裕紀のものだろう」
彼女はようやく手を伸ばし、手紙を受け取った。しかし、なかなか封を開けなかった。ぼくは、その間に汚れた衣類を取り出し、洗濯機に突っ込んだ。そして、電源を入れ、いま履いている靴下も脱ぎ、そこに投げ込んだ。白い泡ができ、それを無感動に見つめる。
もどると、彼女はカーテンの隙間から入る日射しのもとで手紙を読んでいた。感動のためか目頭が濡れているようにも感じられた。ぼくは手を洗い、ビールを冷蔵庫から取り出した。出張が終わったことを証明するように缶を開ける。
「どうだった?」
「大人になった、読んでみる?」
「うん」ぼくは受け取り、先ずは女の子の筆致を見る。
「ゆうきおねいちゃん。げんきになりましたか。わたしもこのまえ、ちゅうしゃをうたれました。とても、いたかったです。ママにきくと、あれぐらいにいたいびょうきになったとおしえてくれました。でも、もういたくないです。なんにちかねたらわすれちゃいました。おねいちゃんも、もういたくないといいんだけども。また、あそんでください。めぐみ」
「そういえば、彼女は片腕をおさえて病気のことをぼくに訊いた。あれが、痛さの強烈な証拠なんだろうね」
「そうなんだ、予防注射かなにかかな?」
「子どもはたくさん、注射を受けるもんだよね。次は?」
「ゆうきおばさん。こんにちは。かずやです。遠足に行ったり、サッカーをしたり、たまに宿題がおくれたりしてお父さんにおこられたりして、大いそがしの生活をおくっています。ひろし君はよくあそんでくれるけど、ゆうきおばさんとはなかなか会えなくて残念です。また、こっちにきていろいろなことをおしえてください。いもうとも会いたがっています。おとうさんもおかあさんも、ついでに、ぼくもです。写真いれました」
自分の考えが手紙を通して思った以上に伝わることを彼らは、どれほど知っていたのだろうか。ぼくらは文明のもと、電話で話したり、ビデオを見たりもできるが、このたどたどしい文字でしか伝わらないものも確かにあることを知った。彼らは成長し、文字という共有財産をまなび、それを暖かい気持ちの代弁として使った。ぼくは、自分が受けた教育のことを考えている。それは、あまりにも格安に受けた気もするし、もっとそれを利用尽くしておけば良かったという悔恨の情も生まれた。しかし、いまからでも遅くないのだ。ぼくは優しさを裕紀のために使う。甥や姪も優しさのために使った。
「みんな、心配してくれる」
「自分がそうしてきたからだよ。誰も嫌いなひとのことを心配したりしない」
「そう思う?」
「うん。彼らに報えるのは、元気になって、また遊んであげることだよ。彼らは、いつの間にか大人になり、友人との時間を大切に、貴重に思って、ぼくらのことなんか直ぐに忘れてしまう。その前に、彼らに思い出を植え付けないと」
「そうだね、そうする」裕紀はそう言うと、手紙をしまい、自分の仕事用の引き出しの中にそっと置いた。ぼくの缶ビールは空になり、ちょっと眠気をもよおした。目をつぶると、数十分だけソファーの上で眠っていたらしい。
「ひろし君のほうが疲れている。毎日、働いている」目を覚ますと、彼女は優しげな口調でそう言った。
「会社員なんて、みんなそういうもんだよ。どっかでご飯でも食べに行こうか。さっき冷蔵庫のなかに足りないものがあるような気もしている。スーパーにも寄ろう」
彼女は着替え、ぼくらはいっしょに外に出た。いっしょにエレベーターを待ち、いっしょにポストを覗いた。ダイレクトメールが何通か入っていた。そこには甥たちのそぼくな筆跡はなかった。ただ、事務的に世の中は進み続けるようだった。根本的に。
「会ったの、それだけ?」
「あとは社長と飲んで、甥たちと公園で遊んだぐらい。そういえば、外回りに付き合い、裕紀のお祖母ちゃんのお墓の横を通った。あの辺がいちばん変わらないな」と、感傷的にぼくは言った。だが、ぼくは彼女の祖母のお墓のまえで自分が発した言葉には触れなかった。それを、誰かに伝えてしまえば、ぼくの神聖な気持ち自体が消えてしまうような気がしていたからだ。
ぼくは、バックを抱え自分の家の玄関前に着いた。彼女は扉の向こうで以前のような元気な姿でいるのだろうか。そのことが心配の種のひとつになっている。地元にいるときも電話では話したが、声だけでは実際の様子は分からない。だが、声だけを聞くと元気なことは間違いようのない事実のようでもあった。
「ただいま」
「お帰り、どうだった、向こう?」
「あいつらにあったよ」あいつらというのはぼくらの共同認識で甥や姪たちに対するくだけた呼び方だった。
「そう、大きくなったかな」
「かなりね。外見だけでもなく考え方も成長するもんだよ」自分が口にするまでは、そう思ってもいないはずだったが、不思議と口にすると、彼らの成長が理解できるような気がした。この離れた距離を通して。「その証拠に帰る前に手紙を手渡された」
「あの子たちに?」
「そうだよ。ここに2通」ぼくは、バックの手前のジッパーを開け、それを取り出した。
「何が書いてあるの?」彼女は容易に手を伸ばさなかった。
「え、読んでないよ。親展と言われたし」
「まさか?」
「まあ、嘘だけど。それを読む楽しみは裕紀のものだろう」
彼女はようやく手を伸ばし、手紙を受け取った。しかし、なかなか封を開けなかった。ぼくは、その間に汚れた衣類を取り出し、洗濯機に突っ込んだ。そして、電源を入れ、いま履いている靴下も脱ぎ、そこに投げ込んだ。白い泡ができ、それを無感動に見つめる。
もどると、彼女はカーテンの隙間から入る日射しのもとで手紙を読んでいた。感動のためか目頭が濡れているようにも感じられた。ぼくは手を洗い、ビールを冷蔵庫から取り出した。出張が終わったことを証明するように缶を開ける。
「どうだった?」
「大人になった、読んでみる?」
「うん」ぼくは受け取り、先ずは女の子の筆致を見る。
「ゆうきおねいちゃん。げんきになりましたか。わたしもこのまえ、ちゅうしゃをうたれました。とても、いたかったです。ママにきくと、あれぐらいにいたいびょうきになったとおしえてくれました。でも、もういたくないです。なんにちかねたらわすれちゃいました。おねいちゃんも、もういたくないといいんだけども。また、あそんでください。めぐみ」
「そういえば、彼女は片腕をおさえて病気のことをぼくに訊いた。あれが、痛さの強烈な証拠なんだろうね」
「そうなんだ、予防注射かなにかかな?」
「子どもはたくさん、注射を受けるもんだよね。次は?」
「ゆうきおばさん。こんにちは。かずやです。遠足に行ったり、サッカーをしたり、たまに宿題がおくれたりしてお父さんにおこられたりして、大いそがしの生活をおくっています。ひろし君はよくあそんでくれるけど、ゆうきおばさんとはなかなか会えなくて残念です。また、こっちにきていろいろなことをおしえてください。いもうとも会いたがっています。おとうさんもおかあさんも、ついでに、ぼくもです。写真いれました」
自分の考えが手紙を通して思った以上に伝わることを彼らは、どれほど知っていたのだろうか。ぼくらは文明のもと、電話で話したり、ビデオを見たりもできるが、このたどたどしい文字でしか伝わらないものも確かにあることを知った。彼らは成長し、文字という共有財産をまなび、それを暖かい気持ちの代弁として使った。ぼくは、自分が受けた教育のことを考えている。それは、あまりにも格安に受けた気もするし、もっとそれを利用尽くしておけば良かったという悔恨の情も生まれた。しかし、いまからでも遅くないのだ。ぼくは優しさを裕紀のために使う。甥や姪も優しさのために使った。
「みんな、心配してくれる」
「自分がそうしてきたからだよ。誰も嫌いなひとのことを心配したりしない」
「そう思う?」
「うん。彼らに報えるのは、元気になって、また遊んであげることだよ。彼らは、いつの間にか大人になり、友人との時間を大切に、貴重に思って、ぼくらのことなんか直ぐに忘れてしまう。その前に、彼らに思い出を植え付けないと」
「そうだね、そうする」裕紀はそう言うと、手紙をしまい、自分の仕事用の引き出しの中にそっと置いた。ぼくの缶ビールは空になり、ちょっと眠気をもよおした。目をつぶると、数十分だけソファーの上で眠っていたらしい。
「ひろし君のほうが疲れている。毎日、働いている」目を覚ますと、彼女は優しげな口調でそう言った。
「会社員なんて、みんなそういうもんだよ。どっかでご飯でも食べに行こうか。さっき冷蔵庫のなかに足りないものがあるような気もしている。スーパーにも寄ろう」
彼女は着替え、ぼくらはいっしょに外に出た。いっしょにエレベーターを待ち、いっしょにポストを覗いた。ダイレクトメールが何通か入っていた。そこには甥たちのそぼくな筆跡はなかった。ただ、事務的に世の中は進み続けるようだった。根本的に。
「会ったの、それだけ?」
「あとは社長と飲んで、甥たちと公園で遊んだぐらい。そういえば、外回りに付き合い、裕紀のお祖母ちゃんのお墓の横を通った。あの辺がいちばん変わらないな」と、感傷的にぼくは言った。だが、ぼくは彼女の祖母のお墓のまえで自分が発した言葉には触れなかった。それを、誰かに伝えてしまえば、ぼくの神聖な気持ち自体が消えてしまうような気がしていたからだ。