27歳-32
ぼくは、いつまできれいごとの世界の住人のような顔をしているのだろう。美化した自分を、読む者が少ないとはいえ見せびらかすことに恥はないのか。ためらいは一抹も起こらなかったのか。
動物園のなかにいる優雅な動物も夜中になれば獰猛な様子で餌を食べているのだろう。飼育員もろともという機会もゆくゆくは狙って。摩天楼とよばれる輝ける都市の明かりや照明も、蛍光灯を取りかえる時期が周期的にやってくるはずだ。タイムズ・スクウェアであろうと、五番街の華やかさであろうと。
飲食店の多い地下を行き交う溝にはねずみが繁殖している。大っぴらに顔は出せないが事実は事実であった。反対にぼくは七五三の衣装を毎日、着ているような素振りをしている。
自分のことを客観視することは立派なことである。俯瞰という不思議な言葉もある。だが、段々とぼくはきらめきというものに身を包み過ぎている。自分の醜さやずるさや劣等感は、裏側にかくれてしまっていた。
楽しみという分量が炭酸飲料の泡のように徐々に消えかかっている。口ゲンカやそれに準じた無言の時間が能動的に支配する。その傘下にいることを望んでもいない。ぼくは意図などしていない。だが、癇に障るということを自然にしてしまっているようだ。そもそも他人のふたりなのだ。好きなところも見つかった(奇跡の一部)のであれば、きらいなところがあっても仕方がない。そこを注意されるとは自分はこの日まで考えてもこなかったのだ。指摘されなければそれは存在もしなかった。わざわざ名称を与えることによって公衆で明らかになり、名誉ある立場も得られるのだった。勲章のような欠点。共有される感情。しかしながら、不快に思っているのはぼくだけのようでもある。
何が、この不快感の原因なのだろう。足をくじいたとか、魚の骨がのどに引っかかったという具体的な理由が欲しかった。その理由が分かれば対策は講じられる。ぼくは男女間でも対策などという無駄な言葉を使いたがっている。そこには政府軍も反政府軍もない。ただの漠然とした違和感のぬかるみが横たわるだけである。
希美は黙り込んだまま屈んで公園でハーブを触っている。その指先をぼくの鼻にもってきた。
「どう?」これで、いさかいも終了だよという合図のようでもあった。ぼくは、まだ自分の周囲の環境を美化したがっている。
「こんな匂いがするんだ」
「知らなかったでしょう?」
明確に分けることもないが希美がいなければ知らなかったこともたくさんある。ぼくはそれを求めて希美と交際をしているわけではないが、結果として得るものもあるのだ。ぼくは得という観点に立ちはじめている。損も、また反対の利益など眼中にもなかったはずなのに。ぼくはお金で動かない代わりに、相手にも自分のすべてにも揺るぎない損得勘定の役割や、間違っても判断の材料として介在させたくなかった。これも、きれいごとをひとつ増やすに過ぎない。
希美の将来がある。彼女の両親もそのことを検討に入れる。ぼくの職場の名前や明らかになっていない収入も話題のひとつであろう。ひとそのもののパーソナリティーの深い部分は、最初のきっかけより、目に付かないという点で臆病かつ重要で、さらにすすめば対外的に力があるほうが安心でもあり、また守られているという感覚を女性に与えるのであろう。希美がぼくを選ぶことをためらっている理由を彼らも欲していた。
勉強をする。良い会社に所属する。その自分の選ばなかったものがしっぺ返しをする。される正当な理由がある。誰も穴の開いた船にすすんで自分の娘を乗り込ませる必要性を感じない。
ブランド品のバッグも選ばれる正当な理由があるのだ。では、ぼくは希美の外見を見栄や資産であると一切、感じなかった、もしくは魅力とも思わなかったと言い切れるのだろうか。奥深いパーソナリティーを知るまではそのことがぼくというものを動かす原動力になっていただろう。誰も間違えていない。だが、誰もがボタンを掛け違える要素を忘れかけている。
判断材料を探す。収入。名声。知名度。将来性。ぼくという個人は会社のような基準で判断できるのだろうか。もし、ぼくという株が流通していれば、将来を見越して、先行きを見届けたくてわざわざ買ってくれるだろうか。ぼくはリコールされ、ぼくは倉庫に投げ込まれる。株価は下がる。
希美という存在を同じようなもので判断しようとした。ぼくに安心感を与え、一人前の人間になれるよういろいろ考えてくれる。彼女も自分の個性や才能を伸ばす。誰も自分自身のままでいることを許してくれそうになかった。成長しないものは、つまりは悪なのだ。
「ハーブね」とぼくは無意味に口に出す。
「アーブ。フランス人なら」
Hという音声もどこかの国では悪なのだ。いや、悪とまではいかなくても、いらない類いのものなのだ。ぼくのいない世界というのを希美も、希美の両親も選ぶのかもしれない。しかし、発音しないからといっても、あるものは渾然一体とはならないでどこかに歴然とあるのだ。主張がすべてである世界と、自らを消そうとする世界。対策もなにもない。受容するしかないのだ。汚れてクタクタになったタオルこそ、水を吸収する。踏みつけられてもそういうものであろうと思った。希美が靴の裏で花々を踏みつけないよう注意しながら歩いている背中を見てそう願っていた。
ぼくは、いつまできれいごとの世界の住人のような顔をしているのだろう。美化した自分を、読む者が少ないとはいえ見せびらかすことに恥はないのか。ためらいは一抹も起こらなかったのか。
動物園のなかにいる優雅な動物も夜中になれば獰猛な様子で餌を食べているのだろう。飼育員もろともという機会もゆくゆくは狙って。摩天楼とよばれる輝ける都市の明かりや照明も、蛍光灯を取りかえる時期が周期的にやってくるはずだ。タイムズ・スクウェアであろうと、五番街の華やかさであろうと。
飲食店の多い地下を行き交う溝にはねずみが繁殖している。大っぴらに顔は出せないが事実は事実であった。反対にぼくは七五三の衣装を毎日、着ているような素振りをしている。
自分のことを客観視することは立派なことである。俯瞰という不思議な言葉もある。だが、段々とぼくはきらめきというものに身を包み過ぎている。自分の醜さやずるさや劣等感は、裏側にかくれてしまっていた。
楽しみという分量が炭酸飲料の泡のように徐々に消えかかっている。口ゲンカやそれに準じた無言の時間が能動的に支配する。その傘下にいることを望んでもいない。ぼくは意図などしていない。だが、癇に障るということを自然にしてしまっているようだ。そもそも他人のふたりなのだ。好きなところも見つかった(奇跡の一部)のであれば、きらいなところがあっても仕方がない。そこを注意されるとは自分はこの日まで考えてもこなかったのだ。指摘されなければそれは存在もしなかった。わざわざ名称を与えることによって公衆で明らかになり、名誉ある立場も得られるのだった。勲章のような欠点。共有される感情。しかしながら、不快に思っているのはぼくだけのようでもある。
何が、この不快感の原因なのだろう。足をくじいたとか、魚の骨がのどに引っかかったという具体的な理由が欲しかった。その理由が分かれば対策は講じられる。ぼくは男女間でも対策などという無駄な言葉を使いたがっている。そこには政府軍も反政府軍もない。ただの漠然とした違和感のぬかるみが横たわるだけである。
希美は黙り込んだまま屈んで公園でハーブを触っている。その指先をぼくの鼻にもってきた。
「どう?」これで、いさかいも終了だよという合図のようでもあった。ぼくは、まだ自分の周囲の環境を美化したがっている。
「こんな匂いがするんだ」
「知らなかったでしょう?」
明確に分けることもないが希美がいなければ知らなかったこともたくさんある。ぼくはそれを求めて希美と交際をしているわけではないが、結果として得るものもあるのだ。ぼくは得という観点に立ちはじめている。損も、また反対の利益など眼中にもなかったはずなのに。ぼくはお金で動かない代わりに、相手にも自分のすべてにも揺るぎない損得勘定の役割や、間違っても判断の材料として介在させたくなかった。これも、きれいごとをひとつ増やすに過ぎない。
希美の将来がある。彼女の両親もそのことを検討に入れる。ぼくの職場の名前や明らかになっていない収入も話題のひとつであろう。ひとそのもののパーソナリティーの深い部分は、最初のきっかけより、目に付かないという点で臆病かつ重要で、さらにすすめば対外的に力があるほうが安心でもあり、また守られているという感覚を女性に与えるのであろう。希美がぼくを選ぶことをためらっている理由を彼らも欲していた。
勉強をする。良い会社に所属する。その自分の選ばなかったものがしっぺ返しをする。される正当な理由がある。誰も穴の開いた船にすすんで自分の娘を乗り込ませる必要性を感じない。
ブランド品のバッグも選ばれる正当な理由があるのだ。では、ぼくは希美の外見を見栄や資産であると一切、感じなかった、もしくは魅力とも思わなかったと言い切れるのだろうか。奥深いパーソナリティーを知るまではそのことがぼくというものを動かす原動力になっていただろう。誰も間違えていない。だが、誰もがボタンを掛け違える要素を忘れかけている。
判断材料を探す。収入。名声。知名度。将来性。ぼくという個人は会社のような基準で判断できるのだろうか。もし、ぼくという株が流通していれば、将来を見越して、先行きを見届けたくてわざわざ買ってくれるだろうか。ぼくはリコールされ、ぼくは倉庫に投げ込まれる。株価は下がる。
希美という存在を同じようなもので判断しようとした。ぼくに安心感を与え、一人前の人間になれるよういろいろ考えてくれる。彼女も自分の個性や才能を伸ばす。誰も自分自身のままでいることを許してくれそうになかった。成長しないものは、つまりは悪なのだ。
「ハーブね」とぼくは無意味に口に出す。
「アーブ。フランス人なら」
Hという音声もどこかの国では悪なのだ。いや、悪とまではいかなくても、いらない類いのものなのだ。ぼくのいない世界というのを希美も、希美の両親も選ぶのかもしれない。しかし、発音しないからといっても、あるものは渾然一体とはならないでどこかに歴然とあるのだ。主張がすべてである世界と、自らを消そうとする世界。対策もなにもない。受容するしかないのだ。汚れてクタクタになったタオルこそ、水を吸収する。踏みつけられてもそういうものであろうと思った。希美が靴の裏で花々を踏みつけないよう注意しながら歩いている背中を見てそう願っていた。