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繁栄の外で(36) 

2014年06月04日 | 繁栄の外で
繁栄の外で(36) 

 自分の内面以外のことも当然のことながら興味をもつようになる。だが、これも遅いといえば遅いはなしだ。

 サッカーというスポーツが日本でも市民権を得ていく過程を味わった。ぼくの学生時代にはあるテレビ局が番組と番組の穴埋めのように海外のサッカーを放送していた。テレビのチャンネル数も少なく、こちら側にはあまり選択権もなかった。それを目を凝らしてみながら、こんな完璧なスポーツが世の中にあるのだろうか? と感じ入る。もし、どこか別の国で生まれていたら、日々そのことだけを考え暮らしていたかもしれない。イングランドのある地方でひとつのチームを熱狂的に応援しながらの生活とかの。

 その気持ちはテレビのこちら側でも伝わった。自分は、まだ西と東に分かれているドイツで活躍していたルンメニゲという選手のことを好きになる。いまの選手ほど洗練されてもいなかったが、そこには躍動感が秘められていた。それさえあれば、なにもいらなかった。

 4年毎の祭典がある。これも、ある国に生まれていたらそのことと応援の意味や自分が監督でもあるように采配だけを考えて暮らすことになるかもしれない。ぼくが17才のときには、メキシコで行われ、あるアルゼンチンの小さな男性のための大会になった。その次は、イタリアで行われた。その時までは、自分のことで忙しかったのだろう。そんなには熱中しなかった。

 自分が一番、思い入れのあるのがその次の大会だ。ぼくは25才になり、ものごとの分別もできあがり、冷静と熱中への距離や間隔を置くことも憶えている。

 場所はアメリカ合衆国で、そのサッカー不毛地帯でありながらも迎え受ける側としては優秀なチームを作っていた。なんだかんだいってもスポーツを観戦する心得と盛り上げ方をしっている国民なのだ。バスケット・ボールとアメリカン・フットボールで検証済みなのである。誰が、その応援の仕方に文句が言えよう。

 集まったチームも凄かった。ブラジルにはロマーリオがおり、ベベットがいた。点を取ることの嗅覚が並外れてすごかった。日本のチームが参加しようが、不参加であろうがそんな些細な問題は関係なく見応えがあった。

 ぼくは時差のため熱心にビデオを録り、仕事からかえって夢中でみつめた。ほかのチームにも華麗なる選手が多かった。ルーマニアにはハジがいて、ブルガリアにはストイチコフがいた。コロンビアには走ることを忘れたかのようにバルデラマがいた。出られないヨーロッパのチームにも信じられないほどのスターがいた。ユーゴスラビアとあの一帯には銃声がきこえ、その負の影響はサッカー選手にも及ぶ。残念なことである。

 そして、いくつかのイメージが自分のことのように記憶される。イタリアのスターであるロベルト・バッジョはテレビで見ても分かるほどの暑さのなか走り回り、その最後に勝利の行方を決定するPKを蹴る。無情にもそのボールはゴールの枠すらにも行かない。そのまま彼は空を見つめる。ヒーローには、ささやかな仕打ちがいつも待っている。彼は喜びの代わりに、眠れぬ夜を手に入れたのだろうか?

 そのまま永久に眠らされる人もいる。

 コロンビアの代表であるひとりは誤ってオウン・ゴールを決めてしまう。間違ってもしたくないことだ。その場が4年に一度のワールド・カップならなおさらだ。しかし、運命の糸に導かれるようにボールは自分のゴールに吸い込まれ、彼は自分の国で銃弾を報いとして自分の身体に受ける。

 日本のチームは、どうしようもなく暖かい国民に包まれているのだろう。次のワールド・カップでゴールを決められなかったストライカーは空港で水をかけられる。もちろん、クリーニングにでも出せばすむ話だ。この熱の入れ具合の差こそ、サッカーに対する愛の歴史かもしれなかった。もちろん、どんな悲劇が起こっても良いはずはないのだが。しかし、この94年のワールド・カップこそが自分の記憶の最前列にある。すぐに、取り出せるかのように。

 国として戦いながらも、個別のチームとしての戦いもある。マドリードには、優秀な選手がスイスの銀行に預ける札束や金塊のように世界から集まってくる。いまほど露骨ではなかった98年に来日したロベルト・カルロスほど見たいと思う選手はいない。あの小柄な身体に、マグナム級の両足がついている。世界はひろく、スポーツを愛する人口も多いだろう。その対象になっている人々への称賛が自分から消えることはないだろう。