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繁栄の外で(45)

2014年06月15日 | 繁栄の外で
繁栄の外で(45)

 欲しいという対象のものが目の前にあり、それを直ぐに決めてしまえばよいのだが、ちょっとした迷いにより、チャンスは逃れ、手に入るのが遅くなることがある。ひととの出会いもそうだし、品物との遭遇もそのようなものかもしれない。説教くさくいえば、チャンスは限りなく、はかないものでもある。

 仕事が終わったあとに神田や秋葉原まで歩き、町をぶらぶらと散歩することがあった。立ち寄るところとして、古本屋があったりレコード屋に入ったりした。電気店で新製品をみるのも楽しいことだ。以前より、収入的に少なくなってしまっていたので、あまりすすんで購入する意欲を失い、また制限する必要をかんじていた。そのような躊躇は賢いことだろうけど、のちのち大きな気がかりとなって復讐する。

 ウジェーヌ・ブーダンという画家がいた。海辺の風景を多く描き、絵のサイズの三分の二は空で、三分の一は砂浜で、それに合った色が塗られていた。点々と避暑の客も小さく描かれ、前時代的な遊びというものが感じられ、何より空と雲のコントラストを描くことに長けていた。

 それは、まだ見たこともないノルマンディーという地方に思いを馳せることにも役立ったし、なによりその優雅な海辺の印象が、写真以上に実在のものとして、ぼくの脳に投影された。

 神田の本屋にはいって画集をみていると、そのひとの作品があった。財布の中身と相談していまは手持ちがないから、数日後に行って購入することにしようと決めた。もちろん、結果としてそれは棚から無くなっている。運命というものは意外と薄情なものである。そのことを忘れなかったことにしようと決意したわけでもないが、いつの間にか自分の家の本棚に並んでいる。どこかで買ったはずだが、その日にちや状況を思い出すことはできない。こうして、手に入ったものより、手に入らなかった過程の方が、人間にとって刻まれやすいのかもしれない。

 たまにそれを開いて、巧いひとがいるものだな、と静かに納得する。後日、数々の美術館で本物を数点ずつ観るが、さすがに現物は違うものである。偽札をあつめても満足できないように、本物のもつ確かなきらめきを感じる。

 若いころに電波の悪い横浜にあるFM放送を深夜、聴いていた。その歌声はサラ・ヴォーンであった。演奏場所はライブであり、歌う響きはあまり若い年代のころではないようだ。まるで患者の容態を気にかける医者のようだ。

 そこまで聴き取り、歌詞をメモし曲名もあたりをつける。本を広げ、そのアルバムを探す。中野で行われたライブ演奏らしかった。だが、CD化されておらず、直ぐに手に入れることはできないようだった。

 ある日、秋葉原の音楽ショップに入ると、それがあった。復刻されたらしい。だが、ぼくの財布の中身は空に近かった。それで、次に来たときに買おうと思ったら(いつも同じ経緯があるな)それは消えていた。売り切れなのか、そうだとしたら他の店舗にいくか、それとも系列店によって仕入れのルートがないのか? とさまざまな状況を考えてみるも解決しないので、一番簡単な方法である店員さんに聞く、ということをした。

「あれ、版権の問題で売れなくなったんです。それで回収されました」

 と言った。数日は確かに店に並んでいたはずなのに、ちょっとした油断が思わぬ方向に行ってしまった。

 なんどか探してみるも版権は版権である。海賊版があふれる社会に暮らしているわけでもない。泣き寝入りと我慢のセットである。

 あるときはネットで検索し、あるときはオークションの値段にため息をつき、という状態を10年近く繰り返し、やっとヨーロッパの方で再販された輸入盤を手に入れた。満足のいく状況だったが、もしあのとき手に入っていたら、何倍もの感激があったかもしれない。また宿命的な事実として、願うということは、いつかそれを手に入れるための通り過ぎなければならないステップのようにも感じる。その願った度合いに応じて、自分のものとなるのであろう。

 うまく文章をまとめることを考えすぎているのかもしれない。ただ、品物のことについて書いたが、もっと違った事柄でもあてはまる部分も多いのだろう。だが、「損して得とれ」という6文字の言葉を説明するために、いらぬ数の言葉を並べたのかもしれない。ただ、あまりにも大きな欲求は消え、いつもいつも自分の背丈に応じたものしか近づけない、ということを淋しく感じているのかもしれない。いや、誰かの連絡先をあえて訊かず、偶然の再会を求めている馬鹿な人間の頭のなかの話かもしれない。