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ぼくは世界の裏側から社会を見ている。地球の底からと呼び換えてもいい。
本当は、地下鉄の線路の薄暗いへこんだ奥だ。真上の頭上のホームにはひとびとが並んだり、歩いたりしている。三々五々に。自分がなぜ、その集団に含まれずにここに居るのかが分からない。ほんのちょっと前までは自分も確かに上の住人だった。一瞬で立場が変わる。ただの酩酊がその結果に結びつけた。
ぼくは呼ばれる。名前もない。ここは母の胎内なのだと思うとする。羊水にくるまれている。ほんとうは油じみた砂利や固い地面だった。ぼくはライトに照らされ、無事であることを確認する駅員の執拗な質問の投げかけを浴びる。ぼくは正気を取りもどうとする。なぜ、自分はここにいるのだ。列車が入ってくる。危うく命は助かったようだ。しかし、迷惑を無限にかけている。その迷惑をもたらした者だけが受ける恥の根源になっていることに詫びたい気持ちでいっぱいで、この自分という物体が消え入ることも考える。世界の闇のどこかに消える秘密の入口がここならありそうだった。
実際のところ、上りと下りの両ホームの電車は運転を停止し、ぼくはかけられたハシゴを両手でつかみ、両足の裏でしっかりと踏み、一段一段と照明の当たる世界に戻る。喝采もなく、逆に、ブーイングもなく。
ぼくは駅長室みたいな場所に入るよう促される。事情聴取がある。飲酒の有無を訊かれる。ぼくは飲んでいる。なにがこの部屋に導いたのか分からないまま。とにかく、どこかの分岐点を間違えてすすんでしまったのだ。
しかし、冷静になれば、ぼくは下のあそこで一回死んだのだ。泥だらけになり、母の羊水から産道を抜け、産声をあげる。医師や看護師の役はホームであわただしく自分の帰宅が妨げられているのを解除されているのを待っているひとびとだ。翌日、ぼくはシャワーを浴び、胎内にいたときの汚れを拭い取り、すべてを忘れる。夜になるときちんとした真ん丸の満月だった。これまでに数回見た映画も、意識をもった人間として今回が生まれてはじめて見た映画となった。
ぼくは死をむかえてもよかったのだ。無数のひとびとの帰宅を困難にして。一時、足止めにして。だが、頑丈な身体は複数の箇所のすり傷と、またこれもいくつもの打ち身程度で助かる。このぐらいなら我が学生時代の乱暴な周囲のやつらにもたらされたことより軽症で、かつダメージも少ないものであった。
乱暴なことをいえば、柔道の絞め技で落ちる快感こそが部類としては最高なものであるようだ。酒に酔い、自分から浮遊する。そこには痛みもなく、現世にしばられるさまざまな喜怒哀楽からも解放される。結果として、闇のような場所にいる。現世は羞恥でできている。羞恥もまたある一面では快楽でもある。君もご存知のように。
身体は油じみた匂いがする。それは地球の底の匂いでもあった。むかし、エネルギーを石炭に頼っていたころ、生活の糧としてひとびとは地下にもぐった。エネルギーに化ける塊を手に入れ、ぼくは反対にエネルギーを無駄に放出していた。
いや、防空壕にいるのだ。もしくはスターリングラードの戦火のなかを隠れて敵を狙っているのだ。言い訳をつくる。おそらくぼくが転がる過程がビデオに記録されていることだろう。そこにぼくの正常な意識はなく、無意識下の自殺願望があるようだった。酩酊を手に入れ、自分の存在を一時的に放棄する。しかし、それは翌朝、たまには不快感をともないながらも必ずもどってくる。ぼくはゴミ捨ての曜日を間違えたひとのように、もう一度、それを自分の部屋にもってくる。永遠に捨てられないもの。その中心にあるものが、正確な自分であった。
あの瞬間の居心地の良さをぼくは再体験したいと思う。どこにも映像を残さずに。ぼくは闇にあこがれている。同時に際限のないあかるさの太陽にも期待している。南仏をイメージするような。
あの角度から世界を見る。ぼくは踏みしめられる床のまだ下にいた。ヘリコプターの上空から下界を眺めることも世界を理解する一因になるならば、あの傾斜をもった視線も世界を理解する固いレンガを角からちょっとずつ破壊することだった。スターリングラードの無駄な死者数が世界の一ページの確実なる記述の証拠のひとつのように。
ぼくは世界を表側から見る。観覧車がまわる世界。高級マンションが竹林のように林立する世界。第三の男という映画で地下道をせわしなく逃げ惑う人間がいる。ぼくは、自分の酩酊の恥ずかしい状態を、美化し、芸術に高めようという努力をする。机上ではなく、経験でつかみとったことしか信奉しない人間は、関係者の迷惑を道連れにして、あの暗い場所を手に入れる。もうぼくから奪われた世界だ。もう一度行きたい。だが、もう行けない。世界の裏は、地球の底はいったい、どういうところだろう。ぼくは太陽の下でまぶしさと共に世界の光を浴び、暗い中で、これも世界の一部を実感した。ころげまわる夜中。痛む足首。貴重な財産。
ぼくは世界の裏側から社会を見ている。地球の底からと呼び換えてもいい。
本当は、地下鉄の線路の薄暗いへこんだ奥だ。真上の頭上のホームにはひとびとが並んだり、歩いたりしている。三々五々に。自分がなぜ、その集団に含まれずにここに居るのかが分からない。ほんのちょっと前までは自分も確かに上の住人だった。一瞬で立場が変わる。ただの酩酊がその結果に結びつけた。
ぼくは呼ばれる。名前もない。ここは母の胎内なのだと思うとする。羊水にくるまれている。ほんとうは油じみた砂利や固い地面だった。ぼくはライトに照らされ、無事であることを確認する駅員の執拗な質問の投げかけを浴びる。ぼくは正気を取りもどうとする。なぜ、自分はここにいるのだ。列車が入ってくる。危うく命は助かったようだ。しかし、迷惑を無限にかけている。その迷惑をもたらした者だけが受ける恥の根源になっていることに詫びたい気持ちでいっぱいで、この自分という物体が消え入ることも考える。世界の闇のどこかに消える秘密の入口がここならありそうだった。
実際のところ、上りと下りの両ホームの電車は運転を停止し、ぼくはかけられたハシゴを両手でつかみ、両足の裏でしっかりと踏み、一段一段と照明の当たる世界に戻る。喝采もなく、逆に、ブーイングもなく。
ぼくは駅長室みたいな場所に入るよう促される。事情聴取がある。飲酒の有無を訊かれる。ぼくは飲んでいる。なにがこの部屋に導いたのか分からないまま。とにかく、どこかの分岐点を間違えてすすんでしまったのだ。
しかし、冷静になれば、ぼくは下のあそこで一回死んだのだ。泥だらけになり、母の羊水から産道を抜け、産声をあげる。医師や看護師の役はホームであわただしく自分の帰宅が妨げられているのを解除されているのを待っているひとびとだ。翌日、ぼくはシャワーを浴び、胎内にいたときの汚れを拭い取り、すべてを忘れる。夜になるときちんとした真ん丸の満月だった。これまでに数回見た映画も、意識をもった人間として今回が生まれてはじめて見た映画となった。
ぼくは死をむかえてもよかったのだ。無数のひとびとの帰宅を困難にして。一時、足止めにして。だが、頑丈な身体は複数の箇所のすり傷と、またこれもいくつもの打ち身程度で助かる。このぐらいなら我が学生時代の乱暴な周囲のやつらにもたらされたことより軽症で、かつダメージも少ないものであった。
乱暴なことをいえば、柔道の絞め技で落ちる快感こそが部類としては最高なものであるようだ。酒に酔い、自分から浮遊する。そこには痛みもなく、現世にしばられるさまざまな喜怒哀楽からも解放される。結果として、闇のような場所にいる。現世は羞恥でできている。羞恥もまたある一面では快楽でもある。君もご存知のように。
身体は油じみた匂いがする。それは地球の底の匂いでもあった。むかし、エネルギーを石炭に頼っていたころ、生活の糧としてひとびとは地下にもぐった。エネルギーに化ける塊を手に入れ、ぼくは反対にエネルギーを無駄に放出していた。
いや、防空壕にいるのだ。もしくはスターリングラードの戦火のなかを隠れて敵を狙っているのだ。言い訳をつくる。おそらくぼくが転がる過程がビデオに記録されていることだろう。そこにぼくの正常な意識はなく、無意識下の自殺願望があるようだった。酩酊を手に入れ、自分の存在を一時的に放棄する。しかし、それは翌朝、たまには不快感をともないながらも必ずもどってくる。ぼくはゴミ捨ての曜日を間違えたひとのように、もう一度、それを自分の部屋にもってくる。永遠に捨てられないもの。その中心にあるものが、正確な自分であった。
あの瞬間の居心地の良さをぼくは再体験したいと思う。どこにも映像を残さずに。ぼくは闇にあこがれている。同時に際限のないあかるさの太陽にも期待している。南仏をイメージするような。
あの角度から世界を見る。ぼくは踏みしめられる床のまだ下にいた。ヘリコプターの上空から下界を眺めることも世界を理解する一因になるならば、あの傾斜をもった視線も世界を理解する固いレンガを角からちょっとずつ破壊することだった。スターリングラードの無駄な死者数が世界の一ページの確実なる記述の証拠のひとつのように。
ぼくは世界を表側から見る。観覧車がまわる世界。高級マンションが竹林のように林立する世界。第三の男という映画で地下道をせわしなく逃げ惑う人間がいる。ぼくは、自分の酩酊の恥ずかしい状態を、美化し、芸術に高めようという努力をする。机上ではなく、経験でつかみとったことしか信奉しない人間は、関係者の迷惑を道連れにして、あの暗い場所を手に入れる。もうぼくから奪われた世界だ。もう一度行きたい。だが、もう行けない。世界の裏は、地球の底はいったい、どういうところだろう。ぼくは太陽の下でまぶしさと共に世界の光を浴び、暗い中で、これも世界の一部を実感した。ころげまわる夜中。痛む足首。貴重な財産。