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記憶をなくすことしか念頭になかった。手っ取り早くはアルコールの効用をつかって。血管に流れるのは、安手の液体。品評会などに出展されることもない日々の味付け。
ある時まではメモなど必要もなく、頭脳のまっさらな象徴的な白いノートにがむしゃらに肉筆で書き込んでいった。余白がなくなったのか、ノートを使い果たして新しいものを購入できないからなのか、もう不可能になってしまった。記憶をなくすことをひたすら望み、反面、記憶できない事実を切迫しながら拒んだ。
スーパーにいる。自分の家の冷蔵庫のなかの飲み物のパックの残量すら不確かになっている。まだあるのか、もうないのか? そもそも買おうと思いながら忘れることもある。メモなどいらなかった時代がなつかしい。そして、酔って眠ってしまった脳の状態で買い物をしている。翌朝、レシートを見ると、きれいに小銭を合わせておつりをもらっている自分がいて、なんだかうっとりとする。三つ子の魂のそろばんの恩恵である。
そして、朝になり汚れた匂う身体をシャワーのお湯で清潔にして冷蔵庫を開ける。コーヒーはなくなっていた。ぼくはわざと水道水を飲む。自身へのいましめのように。むかし、この地域の水はもっともまずいという評判だった。でも、いまでは科学の力を応用しておいしくなったのだ。味覚というのは清涼さがあって加算される。とくに冷たい飲み物ならば。どろっとした煮込まれたスープというものはまた別だ。ぼくは腹を無意識にさする。その部分を全身が映る鏡に向ける。ひとはこれが自分ではないなどと判断しない。文明というのはつまりは鏡に映った自分を認めるということに過ぎないのだろうか。
前はもっとこうだったという比較もできる。日々、目にするものの移り変わりをジャッジすることには向いていない。久々にあう知り合い。ある期間が経過した写真。それらと対面したときに記憶という無節操な媒体の複雑な仕組みと、その泥沼から導き出すひとつの答えに感謝することになる。
ぼくは玄関を出て、自動販売機であらためて缶コーヒーを購入して喉をうるおす。これも、一々むかしは九十円だったなとか思わない。万人に流通されるものとして規定の価格があり、安いものもあるんだな、という多少のラックに一喜一憂する。
「あれ、ストーブ消したっけ?」
と、ひとりごとを言う。意識もせずにカギをしめ、ガスの栓を閉めている。コーヒーの缶を捨てたかどうかは悩まない。もう手の平にないのだから。室内のティッシュやゴミ箱の定位置が変われば、探す羽目になる。ひとは探すという行為にも多くの時間を費やす。真理とか、絶対神とかそういう問題のことではない。形而上的なことは一先ず度外視する。
ぼくは電車の停まる位置を確認もせずにおよその目安でドアの前に立ち、なかに入ればある面々の顔を覚えている。このひとの降りる駅はここだから、もうそろそろ席が空く、といういらない情報もぼくの脳は取り込んでいく。名前も知らない。ただの降車駅を知っている面々。顔と顔。
そのときが来るまでは視線を右往左往させ、週刊誌の吊り広告でスキュンダルを知り、電車を降りるころにはきれいさっぱり忘れている男女の関係を鵜呑みにして、赤面をみなが克服したからもう病院の情報がないのかと安堵する。
ある日、これらすべて、もくろみも心配の両方とも消えてしまう日がくる。ならば、この毎日、追加される情報自体に深い(あるいは浅い)意味などあるのだろうか。この記憶装置は使われなくなった方程式を惜しみなく見事に忘れていき、頭蓋骨のなかの引き出しやレールは固くなり、書類の端が引っかかったのか中味が取り出せなくなる。大体、中味の整理もあやふやなものとなる。乱雑になった脳のなか。
おそらくストーブは消えている。トイレの電球ぐらいはついているかもしれない。時が経てば自然とスイッチが切れる省エネの仕組みもある。人体も七、八十年を経てそうなるようになってしまったのだ。ぼくは抵抗しない。そして、保険の契約内容を吟味する。紹介している女性もいずれいなくなるのだ。見事な受給内容を饒舌にしゃべったとしても。
ぼくが死ねば誰かが金銭を受け取る。これは家族というある種の屋根のしたにいる人々のためのものなのだ。ぼくは誰に金銭をのこすのか。そして、誰のために文字を書いているのか。近い将来に読もうとして書いていたが、その近くはぼくの背中に過ぎ去ってしまうようでもあった。
仕事を終える。ノートを閉じると言いたいところだが、パソコンの電源を落とすだけだ。さようなら、今日という一日。ひげと髪と爪は一日分の収穫を勝ち取ったはずだ。この三点も最後に切った日を思い出せない。いや、ひげは毎日の通常のことだから今朝が正確な唯一の答えだ。
エレベーターのボタンを押す。間違って上に行くものにはなぜだか乗らない。一階に着く。頭のなかで記憶をなくせる場所を探す。記憶をなくせるところを覚えているというパラドックス。おそらく数時間後には定期を改札でタッチして出ているのだろう。コーヒーの残量は? 買い足すものはなかったのか。もう遅い。闇という唯一の光のなかにいる。
記憶をなくすことしか念頭になかった。手っ取り早くはアルコールの効用をつかって。血管に流れるのは、安手の液体。品評会などに出展されることもない日々の味付け。
ある時まではメモなど必要もなく、頭脳のまっさらな象徴的な白いノートにがむしゃらに肉筆で書き込んでいった。余白がなくなったのか、ノートを使い果たして新しいものを購入できないからなのか、もう不可能になってしまった。記憶をなくすことをひたすら望み、反面、記憶できない事実を切迫しながら拒んだ。
スーパーにいる。自分の家の冷蔵庫のなかの飲み物のパックの残量すら不確かになっている。まだあるのか、もうないのか? そもそも買おうと思いながら忘れることもある。メモなどいらなかった時代がなつかしい。そして、酔って眠ってしまった脳の状態で買い物をしている。翌朝、レシートを見ると、きれいに小銭を合わせておつりをもらっている自分がいて、なんだかうっとりとする。三つ子の魂のそろばんの恩恵である。
そして、朝になり汚れた匂う身体をシャワーのお湯で清潔にして冷蔵庫を開ける。コーヒーはなくなっていた。ぼくはわざと水道水を飲む。自身へのいましめのように。むかし、この地域の水はもっともまずいという評判だった。でも、いまでは科学の力を応用しておいしくなったのだ。味覚というのは清涼さがあって加算される。とくに冷たい飲み物ならば。どろっとした煮込まれたスープというものはまた別だ。ぼくは腹を無意識にさする。その部分を全身が映る鏡に向ける。ひとはこれが自分ではないなどと判断しない。文明というのはつまりは鏡に映った自分を認めるということに過ぎないのだろうか。
前はもっとこうだったという比較もできる。日々、目にするものの移り変わりをジャッジすることには向いていない。久々にあう知り合い。ある期間が経過した写真。それらと対面したときに記憶という無節操な媒体の複雑な仕組みと、その泥沼から導き出すひとつの答えに感謝することになる。
ぼくは玄関を出て、自動販売機であらためて缶コーヒーを購入して喉をうるおす。これも、一々むかしは九十円だったなとか思わない。万人に流通されるものとして規定の価格があり、安いものもあるんだな、という多少のラックに一喜一憂する。
「あれ、ストーブ消したっけ?」
と、ひとりごとを言う。意識もせずにカギをしめ、ガスの栓を閉めている。コーヒーの缶を捨てたかどうかは悩まない。もう手の平にないのだから。室内のティッシュやゴミ箱の定位置が変われば、探す羽目になる。ひとは探すという行為にも多くの時間を費やす。真理とか、絶対神とかそういう問題のことではない。形而上的なことは一先ず度外視する。
ぼくは電車の停まる位置を確認もせずにおよその目安でドアの前に立ち、なかに入ればある面々の顔を覚えている。このひとの降りる駅はここだから、もうそろそろ席が空く、といういらない情報もぼくの脳は取り込んでいく。名前も知らない。ただの降車駅を知っている面々。顔と顔。
そのときが来るまでは視線を右往左往させ、週刊誌の吊り広告でスキュンダルを知り、電車を降りるころにはきれいさっぱり忘れている男女の関係を鵜呑みにして、赤面をみなが克服したからもう病院の情報がないのかと安堵する。
ある日、これらすべて、もくろみも心配の両方とも消えてしまう日がくる。ならば、この毎日、追加される情報自体に深い(あるいは浅い)意味などあるのだろうか。この記憶装置は使われなくなった方程式を惜しみなく見事に忘れていき、頭蓋骨のなかの引き出しやレールは固くなり、書類の端が引っかかったのか中味が取り出せなくなる。大体、中味の整理もあやふやなものとなる。乱雑になった脳のなか。
おそらくストーブは消えている。トイレの電球ぐらいはついているかもしれない。時が経てば自然とスイッチが切れる省エネの仕組みもある。人体も七、八十年を経てそうなるようになってしまったのだ。ぼくは抵抗しない。そして、保険の契約内容を吟味する。紹介している女性もいずれいなくなるのだ。見事な受給内容を饒舌にしゃべったとしても。
ぼくが死ねば誰かが金銭を受け取る。これは家族というある種の屋根のしたにいる人々のためのものなのだ。ぼくは誰に金銭をのこすのか。そして、誰のために文字を書いているのか。近い将来に読もうとして書いていたが、その近くはぼくの背中に過ぎ去ってしまうようでもあった。
仕事を終える。ノートを閉じると言いたいところだが、パソコンの電源を落とすだけだ。さようなら、今日という一日。ひげと髪と爪は一日分の収穫を勝ち取ったはずだ。この三点も最後に切った日を思い出せない。いや、ひげは毎日の通常のことだから今朝が正確な唯一の答えだ。
エレベーターのボタンを押す。間違って上に行くものにはなぜだか乗らない。一階に着く。頭のなかで記憶をなくせる場所を探す。記憶をなくせるところを覚えているというパラドックス。おそらく数時間後には定期を改札でタッチして出ているのだろう。コーヒーの残量は? 買い足すものはなかったのか。もう遅い。闇という唯一の光のなかにいる。