爪の先まで神経細やか

物語の連鎖
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悪童の書 g

2014年08月15日 | 悪童の書
g

 その一帯は子どもが多く住んでいた。当時。そして、ぼくも子どもだった。鬼ごっこで「おまめ」という立場に甘んじているほどに。しかし、この定位置を早く抜け出したかった。子どもの世界だが、欲するのだ、一応の市民権を。リスクがある人生が魅力であることを。

 となりに女の子がふたりいた。父親は新聞関係の仕事をしているらしく留守がちだった。数度の記憶だが、賢そうな容貌をもっていると思うも、なにが賢いかなどその年齢に自分が立証できるほどの基準をもっていたとも思えない。大人の象徴でもある自分の父との比較でそう感じたのかもしれないが、賢さこそが立派に近づく最短距離とも思ってもおらず、そこから外れる父も、父という栄光の役割だけで採点が甘くなる年齢でもあった。

 その賢い風貌のとなりの家の妻は、どこか頼りなかった。これも女性の一面の基準である我が母の生命観の強さみたいなものと比較した結果なのかもしれない。お嬢さんという言葉がぴったりくる印象であった。だから、その女性がふたりの幼い女の子を育てるということにうまく順応できない自分もいた。ぼくが悩んでも、困っても勝手に育つのが子どもでもある。

 下の女の子はおむつを取り替えてもらっている。ぼくは上の女の子と遊んでいたようにも思う。だが、ぼくはその一部に視線を向ける。

「男の子ばっかりだと、ね、驚くでしょう?」

 お嬢さんでもあった彼女の母は、意外にも図太く、ぼくにそう言葉を投げかけた。ぼくは、どこかで「ずるい」と思っていた。いったい、棒がないとしたら、トイレでの行為はどうすればいいのだろう? 不便な機能なものだし、それにデザインとしてつけ忘れて生まれてきたのではないか、と腑に落ちないことばかりを考えていた。

 ある日、彼女の一家は引っ越していなくなる。でも、いまだにそのふたりの女の子の名前を覚えているぐらいだから、原始的な記憶として魅力的な過去の日々を作ってくれたのだろう。

 もっと奥には兄と同じ年齢の女の子がいた。この子もおしとやかな女性であった。いつまでも「おまめ」という偏った境遇から抜け出せなくても不満もないようだった。色も白く、保護下に置かれるということを運命の大前提にしているようだった。ぼくは、そんなことでどうする? と、子どもながらに強くゆすぶって怒鳴りつけたかったが、自分もやはり鬼にもならずに、誰も追いかけることができない弱々しい立場だった。

 ぼくらと違い公立の学校にはいかなかったと思う。学ぶということが単純に地位とリンクするということも漠然と浮かび上がらせてくれた。ぼくの家族内では、そういうまどろっこしい過程のことを美化する傾向がなかった。その差が立証されるべき頃には、ぼくらの方が少し離れたところに引っ越していた。

 野球がうまいお兄さんたちもいた。ぼくは砂利の道でバットで素振りをする。そうしてばかりいられない社会の構成員たるべき自分は、幼稚園のバスをふたりの女の子に囲まれて待っている。棒のことはもう忘れている。どちらからも好意をもたれたら選ぶのに困るなと考えているが、彼女たちがほんとうのところ誰が好きなのかも分からない。さらに、男の子は好かれるということも、奥底では分からなかったかもしれない。周囲のからかいに少し演技を上乗せしただけだった。

 大人になる。あの頃の当時、近所に住んでいたというひとに話しかけられる。ある居酒屋で。ぼくは、まったく知らない。だが、ぼくの家も家族構成もすべて知っており、その後、母に訊くと名前も(経営していた店も)きちんと知っていたので彼は嘘をついていないことは理解できたが、ぼくの記憶をどう引っくり返しても彼の情報も映像もでてこなかった。ただ、同年齢の恋人をつれてきていて、ぼくはその草原を跳びはねる小鹿のような女性に憧れてもいたので、そのことだけがうらやましかった。ぼくもその立場になれるなら何でもしたいぐらいだったが、無理なものは無理である。記憶も年の差も覆せないのだ。だが、どうしてもうらやましい気持ちだけは消えない。だから、ぼくは男性とも親しくしておく利点を天秤にかけ、いっしょの席にうつる。

 もう棒の優位性など信じていない。機能も違ければ、髪の長さも、発するすべてが片方の性別とまったく異なっていた。異なっているから魅力もあり、また欲しくもあったし、手に入れたくもなった。しかし、ここでもおまめである。鬼にも、ましてや恋人にもなれない。ライオンでもない。追いかけられることも、逆転して、追いかけられることもない、ただの傍観者。いずれ、引っ越しと同様にどこかに消えて忘れてしまうような間柄かもしれない。だが、こうして執拗に思い出せるのだから、ある日の、ある現場にいる自分というのはどう転がっても隠せないものだし、誰かの目にとまり、少なくとも自分の記憶の吹き溜まりのようなところには、とどまってくれるのだろう。草や雑草でも腹を満たさなければならないとしても我慢が肝要であるのだ。

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