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夏休みの直前に学校を休む。小学生の最終学年か、その前ぐらいの年だ。六回しかなかった夏休み目前の解放感の記憶のひとつ。その前になぜだか学校を休んでしまっている自分。体力しか、つきつめれば自慢できるようなものはないはずなのに。そのほんの短い間に友だちたちに何が起こったのか? 事件の闇を暴くのは誰なのか?
彼らはぼくにプレゼントを差し出す。休み明けの、長い休み前に。よかれと思って。
ぼくは数ページの紙の束を見る。まさか、夏休みの宿題のドリルの解答のすべてが手に入る幸運なども知らずに。
だが、簡単に受け取ってしまったとはいえ、ぼくは嬉しさが殺がれている。こんなことがあってはいけないのだ。実力以上の自分を世間にアピールしてはいけないのだ。でも、このまま返却とか、先生に告げ口するという選択もぼくにはない。ただカバンに仕舞い、学校の教室を去る。何はともあれ、明日からは夏休みなのだ。
適当に答えを当てはめ、適当に間違える。こちらの作為でどうにでもなるのだ。間違いも正解も自由自在。ぼくは四十日間だけ小さな全能者となる。
大人になる。解答なんか与えられず、そもそも回答なんてひとつとは限らないのだ。近似値に可能なまでに膨らませたものを期限内に納めるというシーソーの片方のはじで落ちずに居残れれば大正解だった。もう片方には発注者や上司が乗っていた。どちらかはひやひやして、どちらかは安心して。或いは、どちらもひやひやしながら。
でも、宿題のドリルはひとつだけで、他にもしなければならないことはあったように思う。絵を描いたり、毎日の天気をどこかに記したり。気象庁でもないのに。そして、総じて印象というものは、夏休みの宿題に苦しめられたとしか記憶されない。あれをもう一度するぐらいなら退屈な仕事をして、満員電車で汗まみれになったほうがましだった。
聖なるものへのあこがれ。俗なるものへの誘惑。
聖なるものへの誘惑という言葉はふさわしくない。誘惑というのは、どこかで下降がともなっている。ぼくの正直さは廃棄され、代わりに「ずるさ」という札をもらった。その札を御守りのように肌身離さず身につける。
いや、それほど深く考える問題ではないのだ。ただ、ラッキーだったのだ。ぼくは手を汚してもいない。いつのまにか口座に数字が増えていただけなのだ。そこには税金すらかからない。
実力で満点を取るという努力とその後の喜びも同時に奪われる。喜びというのは、その前の工程が大事なのだ。歓喜は一瞬のものだが、あの辛い汗と涙が混じった結果としての小さな褒美であり、勲章だった。だが、いくらかの割合で楽になったのも本当のことだった。それで、学力が大幅に劣ったとは思えない。概ね、同じ上空にただようものなのだ。自分なんて。
その当時の小学生はみな夏になると黒かった。そのなかでもぼくは上位だった。自慢にしたこともない。ただ、外で遊んでいたに過ぎない。目の前にはゲームも少なく、我を忘れさせるようなマンガもたくさんない。たまに上野でカンフー映画を見た。タルコフスキーも、ウディ・アレンの洒脱さも知らない頃だ。もちろん、上野以外の都会を縦横に歩くことも。
その後、同じ友人たちの間で廻るものも変わっていく。異性の身体に興味を示すことになる。紙が映像になり、あるときは文字になった。音だけというのもあった。部屋で小さなラジカセにつなげたヘッドホンでそれを聞く。ジミ・ヘンドリックスもエリック・クラプトンもまだぼくの前にはあらわれていない。
ある日、教室にいて、「女体の神秘」という文字を黒板にチョークで落書きし、担任の女性教師にこっぴどく叱られた。それは、冒涜に値するそうだ。
月に一度の女性の道具を、カバンの内側の持ち手の裏あたりにシールを剥がして、貼り付けた。このときも呼び出されて叱られた。当然のことだ。なぜ、あんなことをしなければいけなかったのだろう。やはり、汗を流しながら夏休みに勉強をしなかった所為であろうか。
俗なるものへのあこがれ。憧憬。
夏休みの宿題の解答集より光沢のある紙は、隠し場所が必要になる。女性には性欲がないとかたく信じ、議論したり、友人たちと審議もした。みな、むなしい時間である。取り返すことのできないひとときでもある。こんなことを繰り返しながら、大人になる。やはり何度もいうが正解はひとつではない。
宿題の詐欺は見つからない。異性の身体は、ときに見つかる。男三人兄弟がそれらに使った費用は、馬鹿にならないだろう。あれも真実であり、また異論もないだろうが同時に幻である。
聖も俗もなく、また両方が混在し、回答らしきものを自分で提出し、自分自身が採点する。満足もあれば、不満もある。ゴールもあれば、オウン・ゴールもある。あんなに長い夏休みだけはもうない。だが、いつかそう遠くない日にいくら行きたくても、所属を許してくれる会社もなくなるのだ。学生ももう一度できない。成長するという過程よりも、緩やかな降下に入ってしまう。日焼けの後遺症はいまごろになってでてくる。資本となってくれた勉強の時間も、またできるかもしれない。だが、賢くなっても達成すべきものは、もう過去にしかない。名声も、比較も、順位もない地点にぼくは向かう。もちろん、解答集を渡してくれるような優しい、共同体としての友人ももういない。
夏休みの直前に学校を休む。小学生の最終学年か、その前ぐらいの年だ。六回しかなかった夏休み目前の解放感の記憶のひとつ。その前になぜだか学校を休んでしまっている自分。体力しか、つきつめれば自慢できるようなものはないはずなのに。そのほんの短い間に友だちたちに何が起こったのか? 事件の闇を暴くのは誰なのか?
彼らはぼくにプレゼントを差し出す。休み明けの、長い休み前に。よかれと思って。
ぼくは数ページの紙の束を見る。まさか、夏休みの宿題のドリルの解答のすべてが手に入る幸運なども知らずに。
だが、簡単に受け取ってしまったとはいえ、ぼくは嬉しさが殺がれている。こんなことがあってはいけないのだ。実力以上の自分を世間にアピールしてはいけないのだ。でも、このまま返却とか、先生に告げ口するという選択もぼくにはない。ただカバンに仕舞い、学校の教室を去る。何はともあれ、明日からは夏休みなのだ。
適当に答えを当てはめ、適当に間違える。こちらの作為でどうにでもなるのだ。間違いも正解も自由自在。ぼくは四十日間だけ小さな全能者となる。
大人になる。解答なんか与えられず、そもそも回答なんてひとつとは限らないのだ。近似値に可能なまでに膨らませたものを期限内に納めるというシーソーの片方のはじで落ちずに居残れれば大正解だった。もう片方には発注者や上司が乗っていた。どちらかはひやひやして、どちらかは安心して。或いは、どちらもひやひやしながら。
でも、宿題のドリルはひとつだけで、他にもしなければならないことはあったように思う。絵を描いたり、毎日の天気をどこかに記したり。気象庁でもないのに。そして、総じて印象というものは、夏休みの宿題に苦しめられたとしか記憶されない。あれをもう一度するぐらいなら退屈な仕事をして、満員電車で汗まみれになったほうがましだった。
聖なるものへのあこがれ。俗なるものへの誘惑。
聖なるものへの誘惑という言葉はふさわしくない。誘惑というのは、どこかで下降がともなっている。ぼくの正直さは廃棄され、代わりに「ずるさ」という札をもらった。その札を御守りのように肌身離さず身につける。
いや、それほど深く考える問題ではないのだ。ただ、ラッキーだったのだ。ぼくは手を汚してもいない。いつのまにか口座に数字が増えていただけなのだ。そこには税金すらかからない。
実力で満点を取るという努力とその後の喜びも同時に奪われる。喜びというのは、その前の工程が大事なのだ。歓喜は一瞬のものだが、あの辛い汗と涙が混じった結果としての小さな褒美であり、勲章だった。だが、いくらかの割合で楽になったのも本当のことだった。それで、学力が大幅に劣ったとは思えない。概ね、同じ上空にただようものなのだ。自分なんて。
その当時の小学生はみな夏になると黒かった。そのなかでもぼくは上位だった。自慢にしたこともない。ただ、外で遊んでいたに過ぎない。目の前にはゲームも少なく、我を忘れさせるようなマンガもたくさんない。たまに上野でカンフー映画を見た。タルコフスキーも、ウディ・アレンの洒脱さも知らない頃だ。もちろん、上野以外の都会を縦横に歩くことも。
その後、同じ友人たちの間で廻るものも変わっていく。異性の身体に興味を示すことになる。紙が映像になり、あるときは文字になった。音だけというのもあった。部屋で小さなラジカセにつなげたヘッドホンでそれを聞く。ジミ・ヘンドリックスもエリック・クラプトンもまだぼくの前にはあらわれていない。
ある日、教室にいて、「女体の神秘」という文字を黒板にチョークで落書きし、担任の女性教師にこっぴどく叱られた。それは、冒涜に値するそうだ。
月に一度の女性の道具を、カバンの内側の持ち手の裏あたりにシールを剥がして、貼り付けた。このときも呼び出されて叱られた。当然のことだ。なぜ、あんなことをしなければいけなかったのだろう。やはり、汗を流しながら夏休みに勉強をしなかった所為であろうか。
俗なるものへのあこがれ。憧憬。
夏休みの宿題の解答集より光沢のある紙は、隠し場所が必要になる。女性には性欲がないとかたく信じ、議論したり、友人たちと審議もした。みな、むなしい時間である。取り返すことのできないひとときでもある。こんなことを繰り返しながら、大人になる。やはり何度もいうが正解はひとつではない。
宿題の詐欺は見つからない。異性の身体は、ときに見つかる。男三人兄弟がそれらに使った費用は、馬鹿にならないだろう。あれも真実であり、また異論もないだろうが同時に幻である。
聖も俗もなく、また両方が混在し、回答らしきものを自分で提出し、自分自身が採点する。満足もあれば、不満もある。ゴールもあれば、オウン・ゴールもある。あんなに長い夏休みだけはもうない。だが、いつかそう遠くない日にいくら行きたくても、所属を許してくれる会社もなくなるのだ。学生ももう一度できない。成長するという過程よりも、緩やかな降下に入ってしまう。日焼けの後遺症はいまごろになってでてくる。資本となってくれた勉強の時間も、またできるかもしれない。だが、賢くなっても達成すべきものは、もう過去にしかない。名声も、比較も、順位もない地点にぼくは向かう。もちろん、解答集を渡してくれるような優しい、共同体としての友人ももういない。