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エキストラのバイトをする。多分、十七か八ぐらいだろう。
片岡鶴太郎さんがまぎれもなく素晴らしい芸人だったころ。
すすんでその他大勢になり、わずかばかりのバイト代を手にする。末端にいながらも役得として有名なひとの顔をちらっと見るが、拘束時間がやたらと長かった。楽しみというものをもちこむのもむずかしい。主体的になにかアクションを起こす立場でもない。ひたすら、ゴドーを待つ。当面の役割もなく、やっと待ちに待った昼の休憩になる。支給された弁当を抱え、外でも食べられそうな公園のベンチを見つける。
何人か同じようなバイトがいた。数回、目にしたこともある女性がいる。
「ひとりで、食べてるんだ」とふたり組の片方の女性が訊いた。見れば分かることを敢えて訊く、ということが人間社会に対しての好意の第一歩である。誰も、洞窟でひとりで暮らせない。
彼女の姿はぼくのこころに響く。彼女も近づいて声をかけるぐらいだから、不愉快とは思っていないだろう。たまに、そこに居るだけで不愉快な気持ちをもよおさせるひともいる。経験を通じた真実の開示というのは辛いものである。
「うん。もう食べ終わったの?」
だが、会話は数語で終わる。また、じっと待つ。
彼女の特徴を文字で具体的に述べることにする。このような時代に、写真でもなく映像でもなく文字であらわすことに意味があるのだろうか。さらに、ぼくは一瞬だけでも彼女がテレビの映像として流れている姿を見かけてもよいはずなのに、その記憶も皆無だ。その他大勢の悲劇。
彼女の容貌は、大陸的という表現に似つかわしいように思う。アジアのどこかの奥で、少数民族のもっとも美人とうわさされてもよさそうだった。もしくは台湾のどこかの奥地で。
ぼくはいまという観点から見ている。もっとシャイさを早めに我がこころから退出させ、異性から見て魅力的な態度を習得していれば、この数語で話題を尽きさせることもなくデートぐらいに誘うこともできたのかもしれない。しかし、この時点でぼくは失恋後の自分という防護服を自分に着させていた。
未練たっぷりだった自分は過去にばかり目を向け、未来に待ち受けている新鮮な幸福を拒んだ。もちろん、そのことを彼女は知らない。知っていても、応じてくれたかもしれないと勝手に想像するのは、範疇の外であることももちろん知っている。
ぼくはその生産性のなさに飽きて直ぐにバイトを辞めてしまった。そして、関係も生まないまま立ち消えになった幸福の煙をぼくはいまこうして吸い込んでいる。やはり香ばしい。
しかし、一歩足を出していれば、彼女は前の傷など簡単に忘れさせてしまうぐらい魅力的だったし、官能的だったかもしれない。ぼくは事実と空想を天秤にかけ、空想のほうが余っ程、楽しい媒体であることをとっくに気付いていた。また手にしなかった可能性をあれこれ彩色するのも楽しいことであった。
失恋というのは自分の魅力への信頼を軽減させられてしまうことなのか。なぜ、戻らない過去にあのような強引な力で引き寄せられてしまうのだろう。ぼくにあの経験がなく、率直にそのまま、幸せの予感を受け入れていたら、もっと深いところで彼女の魅力を知っていたかもしれない。もちろん、耐えられないぐらいにイヤなやつということも可能性として否定しきれない。しかし、振り回されるのを恐れる十七、八がいるだろうか。ぼくはアジアの原石のような彼女を思い出す。せっかく言葉も通じたのに。
バイトがおそくなると、タクシーで乗り合わせて帰ることになった。世の中というのを景気だけで判断すれば、ぼくの十代は恵まれていた。だが、ぼく自身が半端な仕事ばっかりしていたため、恩恵は遠かった。若さの疑問もある。世の中の大切なことを金銭で計ることを躊躇してしまう。その分、両親は信仰のように疑うこともなく働いている。
このようにかなり長い時間が経っても覚えているぐらいだから、彼女の姿や容貌はぼくの潜在的な主旨や意図と根本的に合致しているのだろう。しかし、なにも始めない代わりに、なにも終わらないという起伏のない安心感だけがある。ぼくは起伏や気持ちの高低がこわかった。それを差し出し、どこかで勝手に失った。奪われでもしたら楽しいものだろう。前後も考えずに、髪を振り乱してぼくはなにかに挑んだことがあるのだろうか。対象としてひとつもない。主役ではない。いつも傍観者であり、端役であった。観察だけが上手になった。
付き合うことに踏み切らないということはあのときの姿をそのまま保存させることである。真空状態で。思い出の代わりに、一枚の無菌のピンナップが脳に置かれる。好かれることもなければ、嫌われることも憎まれることもない。ぼくはたくさんの法則を信じ、たくさんの主義を疎んじた。実際に行動に移すひとには、主義も法則もない。ただ、もぐらが自分の頭部で穴を掘り進めるような本能が究極の実行を司るプログラムである。
ぼくはその本能が薄いらしく、後日、文字でその姿を再現するということを別の本能で信奉していた。くすぐることも笑わすこともできない。少しぐらい、傾いていてもよかったかもしれない。
こうして自分以外になれないことを知る。俳優という職業は誰か別のひとの人生を短時間ながら生きることになる。この短い人生でそうすることは、ただもったいないなと感じてしまう。このぼくという矮小で、優れた存在にならなかった人間だとしても。
エキストラのバイトをする。多分、十七か八ぐらいだろう。
片岡鶴太郎さんがまぎれもなく素晴らしい芸人だったころ。
すすんでその他大勢になり、わずかばかりのバイト代を手にする。末端にいながらも役得として有名なひとの顔をちらっと見るが、拘束時間がやたらと長かった。楽しみというものをもちこむのもむずかしい。主体的になにかアクションを起こす立場でもない。ひたすら、ゴドーを待つ。当面の役割もなく、やっと待ちに待った昼の休憩になる。支給された弁当を抱え、外でも食べられそうな公園のベンチを見つける。
何人か同じようなバイトがいた。数回、目にしたこともある女性がいる。
「ひとりで、食べてるんだ」とふたり組の片方の女性が訊いた。見れば分かることを敢えて訊く、ということが人間社会に対しての好意の第一歩である。誰も、洞窟でひとりで暮らせない。
彼女の姿はぼくのこころに響く。彼女も近づいて声をかけるぐらいだから、不愉快とは思っていないだろう。たまに、そこに居るだけで不愉快な気持ちをもよおさせるひともいる。経験を通じた真実の開示というのは辛いものである。
「うん。もう食べ終わったの?」
だが、会話は数語で終わる。また、じっと待つ。
彼女の特徴を文字で具体的に述べることにする。このような時代に、写真でもなく映像でもなく文字であらわすことに意味があるのだろうか。さらに、ぼくは一瞬だけでも彼女がテレビの映像として流れている姿を見かけてもよいはずなのに、その記憶も皆無だ。その他大勢の悲劇。
彼女の容貌は、大陸的という表現に似つかわしいように思う。アジアのどこかの奥で、少数民族のもっとも美人とうわさされてもよさそうだった。もしくは台湾のどこかの奥地で。
ぼくはいまという観点から見ている。もっとシャイさを早めに我がこころから退出させ、異性から見て魅力的な態度を習得していれば、この数語で話題を尽きさせることもなくデートぐらいに誘うこともできたのかもしれない。しかし、この時点でぼくは失恋後の自分という防護服を自分に着させていた。
未練たっぷりだった自分は過去にばかり目を向け、未来に待ち受けている新鮮な幸福を拒んだ。もちろん、そのことを彼女は知らない。知っていても、応じてくれたかもしれないと勝手に想像するのは、範疇の外であることももちろん知っている。
ぼくはその生産性のなさに飽きて直ぐにバイトを辞めてしまった。そして、関係も生まないまま立ち消えになった幸福の煙をぼくはいまこうして吸い込んでいる。やはり香ばしい。
しかし、一歩足を出していれば、彼女は前の傷など簡単に忘れさせてしまうぐらい魅力的だったし、官能的だったかもしれない。ぼくは事実と空想を天秤にかけ、空想のほうが余っ程、楽しい媒体であることをとっくに気付いていた。また手にしなかった可能性をあれこれ彩色するのも楽しいことであった。
失恋というのは自分の魅力への信頼を軽減させられてしまうことなのか。なぜ、戻らない過去にあのような強引な力で引き寄せられてしまうのだろう。ぼくにあの経験がなく、率直にそのまま、幸せの予感を受け入れていたら、もっと深いところで彼女の魅力を知っていたかもしれない。もちろん、耐えられないぐらいにイヤなやつということも可能性として否定しきれない。しかし、振り回されるのを恐れる十七、八がいるだろうか。ぼくはアジアの原石のような彼女を思い出す。せっかく言葉も通じたのに。
バイトがおそくなると、タクシーで乗り合わせて帰ることになった。世の中というのを景気だけで判断すれば、ぼくの十代は恵まれていた。だが、ぼく自身が半端な仕事ばっかりしていたため、恩恵は遠かった。若さの疑問もある。世の中の大切なことを金銭で計ることを躊躇してしまう。その分、両親は信仰のように疑うこともなく働いている。
このようにかなり長い時間が経っても覚えているぐらいだから、彼女の姿や容貌はぼくの潜在的な主旨や意図と根本的に合致しているのだろう。しかし、なにも始めない代わりに、なにも終わらないという起伏のない安心感だけがある。ぼくは起伏や気持ちの高低がこわかった。それを差し出し、どこかで勝手に失った。奪われでもしたら楽しいものだろう。前後も考えずに、髪を振り乱してぼくはなにかに挑んだことがあるのだろうか。対象としてひとつもない。主役ではない。いつも傍観者であり、端役であった。観察だけが上手になった。
付き合うことに踏み切らないということはあのときの姿をそのまま保存させることである。真空状態で。思い出の代わりに、一枚の無菌のピンナップが脳に置かれる。好かれることもなければ、嫌われることも憎まれることもない。ぼくはたくさんの法則を信じ、たくさんの主義を疎んじた。実際に行動に移すひとには、主義も法則もない。ただ、もぐらが自分の頭部で穴を掘り進めるような本能が究極の実行を司るプログラムである。
ぼくはその本能が薄いらしく、後日、文字でその姿を再現するということを別の本能で信奉していた。くすぐることも笑わすこともできない。少しぐらい、傾いていてもよかったかもしれない。
こうして自分以外になれないことを知る。俳優という職業は誰か別のひとの人生を短時間ながら生きることになる。この短い人生でそうすることは、ただもったいないなと感じてしまう。このぼくという矮小で、優れた存在にならなかった人間だとしても。