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ぼくら未熟な生徒たちに優しく接してくれた定年を迎える先生から、次年度になると、女性の先生が担任になった。一年のほぼ、影響を与える存在として彼女が君臨する。義務教育を通過しなければならない。製造過程。大人となるには様々な過程を経るのだ。こうして書く題材を無闇に探さなければわざわざ思い出さなくても良かった人物なのだ。自分は、何者であるのか? 何が異端であり、何がその他、大勢に導くのか?
彼女は、まだ幼少期の自分に、その言葉の具体的な認識はなかったかもしれないが、ときにヒステリーと呼ばれる状況を起こすひととして映った。感情をあらわすということを前面の攻撃隊に設け、そこから子どもたちに接するように思えた。感情をコントロール下に置けるということをその場で捨てた。さらに平等であるということより、女性たちを可愛がる傾向もあったようだ。周りから、「それ、贔屓だよ!」という言葉が飛び交い、ぼくは実例をともなってその用語をおぼえた。贔屓されるには、スカートを履かなければならないのだという短絡的な回答もあった。
ぼくは平泳ぎをしている。ひとりで網羅し、学科のすべてを教えるという限界もあるが、教師もあの状況では精一杯がんばっていたのだろう。その波紋をぼくらは岸辺で受ける。
ぼくの足の動きや回転がどうもスムーズではないらしい。ぼくは炎天下のコンクリートのうえで、水槽からまちがって飛び出てしまった魚のように水中に戻れないまま、そこで横たわり泳ぐ姿勢の実演をさせられる。あんまりだよな、というぼくの頭は拒否感で充満するが抵抗する術もない年代だ。頑なに拒否しても良かったのだろうか。彼女も必死だったのだろう。その恩恵もありがたみもなく、ぼくの泳ぎは上達しない。そして、水中に多くいなくてもぼくは生活できるのだ。ぼくは干上がった蛙のようにプールサイドの暑いコンクリートのうえで身もだえた。
前の先生は達観していた。子どもを追いまわし、叱るエネルギーを失っていただけなのかもしれない。首根っこをつかみ、罵倒することもない。その和やかな時間に戻りたかったが、後ろに目を向けることを常にするには不向きな年頃の、ぼくはただ一介の少年であった。
また日常的にヒステリーを起こすわけでもない。彼女にとって勉強とは取得であるように映った。自動的に受け取るような簡単なものではなく、奪い取るということで目的は達せられそうでもあった。その教え手に適していたのか、もうぼくの記憶も古過ぎていってしまった。子どもにとって体育や運動場での活動には男の先生の方がふさわしかっただろう。どうすれば、野球は上達し、サッカーはうまくなり、でんぐり返しや鉄棒は上達するのだろう。そもそも、学校がそういうことを子どもに伝達すべき時間を割くかどうかも分からない。ぼくは、国語も算数も普通にできるのだから、あの当時のいくつもの宿命的な出会いは正解だったのだと思いたい。
学校にいれば、友ができる。いくつかの異なった苗字を、その狭い場で覚える。
あるひとりのことを思い出す。彼は、いま考えると社宅というところに住んでいた。ぼくは長い間、そうした居住形態を理解できずにいた。自分の父親とともに家に住み、その家が普通の一軒家だったので、父の仕事と住居を一体化させることを普通にしてこなかった。
彼は足が速かった。そのことでクラスのヒーローになるタイプでもなかった。社宅の一階に住み、ぼくはその家に何度も入った。お母さんは優しかったように思うが、彼に兄弟がいたかどうかももう思い出せない。
別の友人には可愛い妹がいた。川沿いの町で、社宅に住む友人の父が働いていたであろう大きな工場は上流側にあり、この妹がいる友人の家は下流側だった。二キロから三キロぐらい離れているが、その広さこそがぼくの世界のすべてであるとも言えた。
妹はお兄ちゃんに温かみのある尊敬を抱いていたらしく、その友だちも同じ扱いを受けた。いまでもぼくが年下の女性をからかおうとするときに、この子に対して示した愛情の模倣に過ぎないのだとも感じられる。妹はお兄ちゃんに認められたいと望みながらも、できないことも多かった。兄はその分だけ助け、いっしょの位置に連れて行ってくれる。自分にはそうした人間本来の優しさが欠けているようでもあった。男兄弟など、どこかで追い越すということを密かな念頭に置き暮らしているのだろう。ある程度、成長し別々の方向を見るまでは。
ある日、工場もなくなり、社宅にもひとが住まなくなる。彼らはどこに消えたのだろう。安価な労働のためアジアに進出という具体例など、子どもの自分にはおぼろげながらも入ってこなかった。影響を与えてくれたはずのものたちが、いつか失われる。あの先生の達観したような優しさも、ときにイライラを前面に出した女の先生の一生懸命さもなくなってしまった。だが、自分の成分表などがあれば、仮に分析した結果、この先生や友や、友の妹に接したぼくの態度なども、明らかになることだろう。あの川の情景も絶景とは呼べないながらも、それなりに美しいものだった。
ぼくら未熟な生徒たちに優しく接してくれた定年を迎える先生から、次年度になると、女性の先生が担任になった。一年のほぼ、影響を与える存在として彼女が君臨する。義務教育を通過しなければならない。製造過程。大人となるには様々な過程を経るのだ。こうして書く題材を無闇に探さなければわざわざ思い出さなくても良かった人物なのだ。自分は、何者であるのか? 何が異端であり、何がその他、大勢に導くのか?
彼女は、まだ幼少期の自分に、その言葉の具体的な認識はなかったかもしれないが、ときにヒステリーと呼ばれる状況を起こすひととして映った。感情をあらわすということを前面の攻撃隊に設け、そこから子どもたちに接するように思えた。感情をコントロール下に置けるということをその場で捨てた。さらに平等であるということより、女性たちを可愛がる傾向もあったようだ。周りから、「それ、贔屓だよ!」という言葉が飛び交い、ぼくは実例をともなってその用語をおぼえた。贔屓されるには、スカートを履かなければならないのだという短絡的な回答もあった。
ぼくは平泳ぎをしている。ひとりで網羅し、学科のすべてを教えるという限界もあるが、教師もあの状況では精一杯がんばっていたのだろう。その波紋をぼくらは岸辺で受ける。
ぼくの足の動きや回転がどうもスムーズではないらしい。ぼくは炎天下のコンクリートのうえで、水槽からまちがって飛び出てしまった魚のように水中に戻れないまま、そこで横たわり泳ぐ姿勢の実演をさせられる。あんまりだよな、というぼくの頭は拒否感で充満するが抵抗する術もない年代だ。頑なに拒否しても良かったのだろうか。彼女も必死だったのだろう。その恩恵もありがたみもなく、ぼくの泳ぎは上達しない。そして、水中に多くいなくてもぼくは生活できるのだ。ぼくは干上がった蛙のようにプールサイドの暑いコンクリートのうえで身もだえた。
前の先生は達観していた。子どもを追いまわし、叱るエネルギーを失っていただけなのかもしれない。首根っこをつかみ、罵倒することもない。その和やかな時間に戻りたかったが、後ろに目を向けることを常にするには不向きな年頃の、ぼくはただ一介の少年であった。
また日常的にヒステリーを起こすわけでもない。彼女にとって勉強とは取得であるように映った。自動的に受け取るような簡単なものではなく、奪い取るということで目的は達せられそうでもあった。その教え手に適していたのか、もうぼくの記憶も古過ぎていってしまった。子どもにとって体育や運動場での活動には男の先生の方がふさわしかっただろう。どうすれば、野球は上達し、サッカーはうまくなり、でんぐり返しや鉄棒は上達するのだろう。そもそも、学校がそういうことを子どもに伝達すべき時間を割くかどうかも分からない。ぼくは、国語も算数も普通にできるのだから、あの当時のいくつもの宿命的な出会いは正解だったのだと思いたい。
学校にいれば、友ができる。いくつかの異なった苗字を、その狭い場で覚える。
あるひとりのことを思い出す。彼は、いま考えると社宅というところに住んでいた。ぼくは長い間、そうした居住形態を理解できずにいた。自分の父親とともに家に住み、その家が普通の一軒家だったので、父の仕事と住居を一体化させることを普通にしてこなかった。
彼は足が速かった。そのことでクラスのヒーローになるタイプでもなかった。社宅の一階に住み、ぼくはその家に何度も入った。お母さんは優しかったように思うが、彼に兄弟がいたかどうかももう思い出せない。
別の友人には可愛い妹がいた。川沿いの町で、社宅に住む友人の父が働いていたであろう大きな工場は上流側にあり、この妹がいる友人の家は下流側だった。二キロから三キロぐらい離れているが、その広さこそがぼくの世界のすべてであるとも言えた。
妹はお兄ちゃんに温かみのある尊敬を抱いていたらしく、その友だちも同じ扱いを受けた。いまでもぼくが年下の女性をからかおうとするときに、この子に対して示した愛情の模倣に過ぎないのだとも感じられる。妹はお兄ちゃんに認められたいと望みながらも、できないことも多かった。兄はその分だけ助け、いっしょの位置に連れて行ってくれる。自分にはそうした人間本来の優しさが欠けているようでもあった。男兄弟など、どこかで追い越すということを密かな念頭に置き暮らしているのだろう。ある程度、成長し別々の方向を見るまでは。
ある日、工場もなくなり、社宅にもひとが住まなくなる。彼らはどこに消えたのだろう。安価な労働のためアジアに進出という具体例など、子どもの自分にはおぼろげながらも入ってこなかった。影響を与えてくれたはずのものたちが、いつか失われる。あの先生の達観したような優しさも、ときにイライラを前面に出した女の先生の一生懸命さもなくなってしまった。だが、自分の成分表などがあれば、仮に分析した結果、この先生や友や、友の妹に接したぼくの態度なども、明らかになることだろう。あの川の情景も絶景とは呼べないながらも、それなりに美しいものだった。