爪の先まで神経細やか

物語の連鎖
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悪童の書 i

2014年08月17日 | 悪童の書
i

 世間の目を気にする。

 自分の作為のない行動が誤解を受け、憐みや賞賛をまねく。

 普段は給食が出ている。ぼくは中学生だ。その日は代わりにお弁当を持ってくるようにと伝えられる。ぼくは家に帰ってそのことを告げる。でも、弁当など手がかかるものは要求しない。

「菓子パン、二、三個買ってきてくれたら、それで、いいよ」
「ほんとに、いいの?」
「いいよ、全然」そんな会話があっただろうことが想像される。

 翌日の昼になる。みな、お弁当を広げる。お手製ということが分かる中味。ぼくは袋を開いてパンを食べ、飲み物を飲み干す。意外にも、ぼくは同情の目を向けられている。まるで、親がいないとでもいうように。ぼくの空腹を気に掛けるひとがこの地上にひとりとしていないとでもいう風に。世間というのはこういう疑いの視線の集積でできあがっていることを知る。そもそも、このなかの何人もが、ぼくの母の存在を知っており、そのうちの何人かはぼくの家でぼくの母の手料理を食べているはずだった。ぼくは簡単に済ませた昼食のあと校庭にでて、身体を動かす。世間と同調する必要がある場合は、同調するべきだとの教訓を知る。サッカー・ボールを蹴る。オフサイドの説明をするサッカー部員が、理解できない手強い相手にいじめられている。待ち伏せ禁止令。要約すると。

 ぼくのうわさが流れている。あまりにもリアルな真実味を帯びた情報なので、ぼくはその偽の映像を自分に起こったこととして照射し信じそうになる。

 とある放課後。ぼくは教師と夕暮れがせまる教室にふたりでいる。そこにはいつもの反抗の成分を味付けした自分はおらず、しみじみと高齢の女性の教師と語り合っている。ぼくはいつもの悪びれた態度を詫び、彼女もぼくのその素直な態度に感銘して許そうとしている。これが、ぼくに起こったことなのだろうか?

 ぼくのその情報が一人歩きして、ぼくが何か悪いことをしても、あの夕焼けをともなう映像があるため、とくに女生徒たちはぼくの採点を甘くする。本音は分かっているのよ。ぼくはむずがゆいながらも否定すれば否定するほど、嘘か、あるいは誠は遠退くという事実を教えられる。もう、否定もしない。ひとは信じたいような事柄を信じ、陰にかくれたものを自分が知っているという優越にかられたいものなのだ。誰の口が出所なのだろう? 謎は謎のままだ。

 ぼくはその毅然としている先生に何度も叱られたが、ある日、もう定年後の彼女とすれ違った時に、ぼくの存在などまったく知らない世界にいるようで、ここはそっとしておく方が良いのだと理解する。ふたりしか本当の情報を知らない。そのふたりはあの枠組みを抜ければ他人以外の何物でもなかった。彼女の脳は一部だろうが、もう働きをやめているようでもあった。

 さらに比較の問題でもある。ぼくにはやんちゃな兄がいたので、相対的にみれば、ぼくのほとんどの悪い行いは善に近く、足を踏み外しても水たまり程度にしか浸からなかった。ぼくらのグループは悪いことをする。教室内で叱られる専門の役目のひとがいて、ぼくは注意にすら矢面に立てない。実際に怒られないと理解しないひとがいて、ひとへの注意で喚起し自分の行いを振り返れるというひともいるようだ。ぼくは幸いにも後者の扱いを受けている。

 ぼくは部活動を終え、だらだらと自室で着替えて塾に向かおうとしている。いっしょに連なる友人たちは階下のテーブルでご飯を食べている。ぼくはゆっくりと着替えている。このひとたちは少なくともぼくの証人にならなければいけなかったのだ。母には料理をつくる才能があり、ぼくはみなし児ではないという事実を。その後、大人になり、このときの献立がテーブルに並べられると、ぼくの母はぼくの友人の名前を出し、「あの子、これが大好きだった」と他人の赤ちゃんに乳をふくませたような感じでなつかしそうにもらしていた。子どもは、その代償として、お弁当もつくってもらえないという立場に甘んじていた。ぼく自身が、この料理を目にすると、もうその友人抜きにして考えられなくなってしまっている。不思議なものだ。

 そして、塾に行く。ぼくはいま考えれば方法だけを教えてもらっていたのだ。勉強の技術。だから、通ったのはそう長くはない。きちんとして管理された塾でもない。小さなテーブルがいくつか並べられた畳敷きの部屋。ぼくは車のボディだけを与えられ、あとはひとりになってドアを取り付けたり、色を塗り付けたりすればよかったのだ。それは、当然ひとりでやれた。だから、ぼくは塾をやめ、自室でひとりで勉強した。後年の自分のように。代わりに母の手料理を食べる機会をのがす友人たちの姿もある。彼らも自分らの母の味付けを捨て、恋人や妻の味を覚えていくのだろう。世の中は変化を求められる。同調し、順応すること。菓子パンの味になれるよりましなことかもしれない。ぼくもいまになって、友人たちの母がつくった料理やおにぎりを食べてきたのだというある日の情景を自分の思い出の一部としている。脳が働きをやめなければ、いつまでも覚えていられる。愛をもって叱った生徒ですら理解できなくなる日もくるのだ。そう遠くもなく。

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