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物語の連鎖
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悪童の書 k

2014年08月19日 | 悪童の書
k

 兄が提案する。このビーチ・ボールを彼女らに当てようと。

 ぼくはいたいけな十才ぐらいの男の子。兄もまだ小学生かもしれない。もしくは次の義務教育の段階のはじめあたり。場所は横浜にあったプール。親戚のおばさんの家に遊びにいったときの話だ。

 彼女たちというのは十五、六才ぐらいのこの地球にまだ確固たる地位を築いていない数人の少女たちだった。そして、兄の提案は功を奏しぼくらはその後の時間、楽しく遊ぶことになった。ぶつけたり、ぶつけられたり。そうされても痛くもないやわらかなクッションの利いたボールを。

 ここに兄の今後の萌芽があり、弟のような存在として軽くなぶられる自分を発見する。

 立場の違い。

 ぼくは小学生のときに将棋クラブというところに入る。授業の一環として。計画だって、先々を読んでというのがいたって苦手なので上手でもないし上達の余地もない。ただ、学校にいるわずかな時間を、なるべくなら努力という範疇にいないということだけを無意識に念頭に置いているための選択だった。王手もない。

 数才年下の子たちとも自然と仲良くなる。関係性を有効にするには、お兄さん的な立場のひとをからかえるかどうかの才能にかかっているともいえる。とくにぼくらの地域は。できる子が数人いる。ぼくはからかわれる。そのことを楽しむ。

 数年後に時間をスライドさせる。

 ぼくは中学生の最終学年で腕白ざかり。まだ小学生を引きずっている過去の少年たちが慣れない制服に身をつつみ登校する。そして、ぼくを発見する。あのときのままの慣れ親しんだ状態を忘れていないで。無心にふところにとびこんでくる。だが、数日も経つと様子が違っていることも彼らは認識しだす。ぼくは、もうあのときの気さくさを売り物にしている人間ではなかったのだ。一線をひける地位を確立しだした。その狭間にいる年(栄光の年代の中二)の後輩たちからはきちんと権威を帯びた視線と挨拶を勝ち得ている。制服が親しみだす頃にはこの男の子たちもぼくとの間柄を認識する。ぼくは敬意を得て、無邪気な交遊を失う。まあ、一切、後悔もしていないのだが。

 ところで、なぜ、兄はあの楽しさを勘付いていたのだろう?

 ぼくは敬意などもらうことに喜びも感じてはいなかった。正直にいえば。ただ、自分は弟のような存在として強いものたちに挑みたかった。マンガの「キャプテン」のような弱小という甘美な貴さで。接待されるという立場も魅力ではなく、賄賂をおそるおそる差し出される側でもなく。結果、収賄というもののありがたみを今でも知らない。

 このときもそうだが、兄はその後、恵まれた体格を有することになった。自分の両親に似ず。ぼくは遺伝子というものを信じることもつかみきることも懸命にためらう。彼は、家の間取りの尺度で使用する「一間」という単位ぐらいに身長が伸びた。朝、寝起きには頭が桟にぶつかりそうになっている。夕方はちょっと離れるそうである。

 体格も似ていなければ、内なる性質もぼくらは似ていない。提案型と、模索型。チャレンジ精神と、拘泥するタイプ。でも、潜在的には同じものを受容しているのだろう。

 弟の面と兄の面を社会で出せるようにならなければならない。先輩や上司に可愛がられること。反対に面倒見のよいこと。みんなどこで訓練するのだろう。小さな町での小さな敬意など、誰も履歴として認めない。正当なる資格ではないのだ。額に入れて飾ることもできない。

 記憶という不確かなものを捉えようとする。あの夏の日のプールの情景は覚えているが、もちろん、彼女たちの顔のひとつひとつを思い出すのは不可能だ。彼女たちの特徴や長所は若いということですべてであり、あの輝ける一日の数時間をぼくたちに手渡してくれたのだ。感謝しなければならない。

 大人になる過程で、それなりの役割や地位を手に入れる。その大まかな名称で呼ばれる場合もある。先生、大家さん、課長、すいません、ちょっと。水着をきた少女たちの役割は、ほとんどないようにも思える。十代の中盤というだけで。ある役割を押しつけられ、まっとうするように勤勉になりはじめると、ぼくらは老いていくようにも思える。日焼けをおそれ、もし、ボールをぶつけでもしたら失礼にあたる。菓子折をもってお詫びに行かなければいけない。若さは無防備であるから美しいのだろう。跳ね返す力が有り、肩書きもいらない。

 彼女たちもいずれ誰々くんのママと呼ばれるのだろうか。プールに子どもを連れていき、気になりだしたウエストを覆うような水着をきている。肩には大きめのタオルを羽織っている。子どもは足首ぐらいまでの水さえも恐れている。彼女は若き日に空想をもどす。見知らぬ男の子たちからビーチ・ボールをぶつけられたっけ。ある日、自分の息子もするようになる。時間も経てば、成り行き上、相手のお腹は大きくなる。妥当な順番を間違えたり、早まったりして。相手の両親にお詫びに行く。菓子折どころでもないような気もする。なにを手にぶら下げるのが最善なのだろう。だが、いまは絶対におぼれない地点であそんでいる。恐れる必要はない。

 ぼくは当然、空想に頼っているだけで彼女らが実在したことも証明できない。だが、この日の兄をはっきりと思いだすことができる。なんだかんだ、時間を多く接してきたのだから。接するということには愛着もあれば、嫌悪も生じさせる。そのうち、どちらもなくなる。別々の屋根があるだけだ。親から受け継いだものはおそらく同じであるという仮定のもとで。彼には兄という役割からの解放があり、ぼくも弟という立場を抹消させた。また、誰かの葬儀にでもいけば(めでたいことも等しく)その衣装を自分にあてがうかもしれない。みんな、そうして生きているのだろう。そのときには、ビーチ・ボールの空気はきっと抜けているのだろう。


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