爪の先まで神経細やか

物語の連鎖
日常は「系列作品」から
http://snobsnob.exblog.jp/
へ変更

繁栄の外で(45)

2014年06月15日 | 繁栄の外で
繁栄の外で(45)

 欲しいという対象のものが目の前にあり、それを直ぐに決めてしまえばよいのだが、ちょっとした迷いにより、チャンスは逃れ、手に入るのが遅くなることがある。ひととの出会いもそうだし、品物との遭遇もそのようなものかもしれない。説教くさくいえば、チャンスは限りなく、はかないものでもある。

 仕事が終わったあとに神田や秋葉原まで歩き、町をぶらぶらと散歩することがあった。立ち寄るところとして、古本屋があったりレコード屋に入ったりした。電気店で新製品をみるのも楽しいことだ。以前より、収入的に少なくなってしまっていたので、あまりすすんで購入する意欲を失い、また制限する必要をかんじていた。そのような躊躇は賢いことだろうけど、のちのち大きな気がかりとなって復讐する。

 ウジェーヌ・ブーダンという画家がいた。海辺の風景を多く描き、絵のサイズの三分の二は空で、三分の一は砂浜で、それに合った色が塗られていた。点々と避暑の客も小さく描かれ、前時代的な遊びというものが感じられ、何より空と雲のコントラストを描くことに長けていた。

 それは、まだ見たこともないノルマンディーという地方に思いを馳せることにも役立ったし、なによりその優雅な海辺の印象が、写真以上に実在のものとして、ぼくの脳に投影された。

 神田の本屋にはいって画集をみていると、そのひとの作品があった。財布の中身と相談していまは手持ちがないから、数日後に行って購入することにしようと決めた。もちろん、結果としてそれは棚から無くなっている。運命というものは意外と薄情なものである。そのことを忘れなかったことにしようと決意したわけでもないが、いつの間にか自分の家の本棚に並んでいる。どこかで買ったはずだが、その日にちや状況を思い出すことはできない。こうして、手に入ったものより、手に入らなかった過程の方が、人間にとって刻まれやすいのかもしれない。

 たまにそれを開いて、巧いひとがいるものだな、と静かに納得する。後日、数々の美術館で本物を数点ずつ観るが、さすがに現物は違うものである。偽札をあつめても満足できないように、本物のもつ確かなきらめきを感じる。

 若いころに電波の悪い横浜にあるFM放送を深夜、聴いていた。その歌声はサラ・ヴォーンであった。演奏場所はライブであり、歌う響きはあまり若い年代のころではないようだ。まるで患者の容態を気にかける医者のようだ。

 そこまで聴き取り、歌詞をメモし曲名もあたりをつける。本を広げ、そのアルバムを探す。中野で行われたライブ演奏らしかった。だが、CD化されておらず、直ぐに手に入れることはできないようだった。

 ある日、秋葉原の音楽ショップに入ると、それがあった。復刻されたらしい。だが、ぼくの財布の中身は空に近かった。それで、次に来たときに買おうと思ったら(いつも同じ経緯があるな)それは消えていた。売り切れなのか、そうだとしたら他の店舗にいくか、それとも系列店によって仕入れのルートがないのか? とさまざまな状況を考えてみるも解決しないので、一番簡単な方法である店員さんに聞く、ということをした。

「あれ、版権の問題で売れなくなったんです。それで回収されました」

 と言った。数日は確かに店に並んでいたはずなのに、ちょっとした油断が思わぬ方向に行ってしまった。

 なんどか探してみるも版権は版権である。海賊版があふれる社会に暮らしているわけでもない。泣き寝入りと我慢のセットである。

 あるときはネットで検索し、あるときはオークションの値段にため息をつき、という状態を10年近く繰り返し、やっとヨーロッパの方で再販された輸入盤を手に入れた。満足のいく状況だったが、もしあのとき手に入っていたら、何倍もの感激があったかもしれない。また宿命的な事実として、願うということは、いつかそれを手に入れるための通り過ぎなければならないステップのようにも感じる。その願った度合いに応じて、自分のものとなるのであろう。

 うまく文章をまとめることを考えすぎているのかもしれない。ただ、品物のことについて書いたが、もっと違った事柄でもあてはまる部分も多いのだろう。だが、「損して得とれ」という6文字の言葉を説明するために、いらぬ数の言葉を並べたのかもしれない。ただ、あまりにも大きな欲求は消え、いつもいつも自分の背丈に応じたものしか近づけない、ということを淋しく感じているのかもしれない。いや、誰かの連絡先をあえて訊かず、偶然の再会を求めている馬鹿な人間の頭のなかの話かもしれない。 

繁栄の外で(44)

2014年06月14日 | 繁栄の外で
繁栄の外で(44)

 文房具としてのパソコン。

 ウインドウズの98を翌年に買ったはずなので、99年に手元にあることになる。子どものころから機械類は好きだったが、説明書を読むのは好きではない。いろいろ手探りで使い方を覚える。一度、故障させないことには、自分のものとして生かされないという馬鹿な信念みたいなものもあった。それだと、確かに困るけど。

 最初はイメージ的なものと友人宅でみたソニー製のものを買った。ノートブックであった。これが将来、文房具の変わりになるであろう予感もあった。鉛筆もノートもいらないのである。計算はコンピューターの得意であることから計算機もいらない。(ほんとうのところは確かにいる)メモを残しておきたければ、それ用のソフトも入っている。

 また近いうちにこれで買い物をすることもできるようになり、多くのひとがそれを使うことも予想できた。自分はこころのどこかで、ライ麦畑のサリンジャーてきなこの体制と隔絶した生活にあこがれる部分があった。そのためにこの道具を使いこなす必要をかんじていた。また、そのような生活に憧れをもたないようなひとも家で買い物をする安易さに流れ行くことも予感できた。ならば、売る側にまわって商売をはじめればよいのだろうが、そこまでは頭はまわらなかった。

 普通に働いていたので、ひとりの時間をつくって操作を覚えた。そのために、友人からの誘いを何回かは断り、眠る時間をちょっとだけ削って、その機械に近付いていった。詳しくなりすぎないように、文房具は文房具であるという位置にとどめ、それなりに手なづけることもできた。

 時間というものがもっとも貴重なものならば、最初の世代は、操作がなめらかにいかなかったり(フリーズです)考え込んでしまうような様子もみられた。だが、いろいろ引っ張りつづけ、4年以上は使った。

 ひとつのものごとと関連付けられるようになって、さらにその価値も高くなってくるものもあると思う。デジカメというものを旅行の際に買い、そのデータをため込むためには記憶する箇所の容量が大きくなければならないことに気付く。そして、2代目のXP時代がやってくる。なにごとも新しいものを使うことは気分の良いものである。使いこなすにはメモリを増やすことも覚え、いろいろな使い勝手の良いソフトをダウンロードする必要も感じた。案の定、買い物もするようになり、重い荷物をもってかえる苦労から開放された。しかし、いまだに電車の隣にひとり分ぐらいの幅を荷物にあてがっているひとにも愛らしさを感じてしまう。手触りでしか判断できないなにかもあるのだろうと思う。自分は、そこから解放されたけど。

 機械のことだから寿命との戦いでもある。いつの間にかスピードが出ないという衰えをみせ、(人間も同じである)同じ失敗を繰り返し、熱を発散させるということもできなくなってしまう。しかし、一度手に入れた自由を手放すことは難しくなる。

 あのときまで、自分は調べ物をどのようにしていたのか、もう思い出せない。図書館に行き、コピーを取り、メモを書き、ノートを汚した。確かにそのようにしたはずだが、何も手元に残っていない。時刻表を改札でもらい、乗り換えも丹念にしらべた。

 でも、もう地図で簡単にルートも分かり、見知らぬ外国ですら、爆弾をピンポイントで落とせるぐらい正確に一般人でも場所が分かる。それは、一本のラインで(ラインすら目で確認できないこともある)つながっているからだ。

 自分は、キーボードの位置をはっきり識別することはできないが、どうやら5本ずつの指は、勝手に押したいイメージをつかんでいる。家計簿などつける気はないが、それも徹底的に行う方法をしっている。ひとに見せるための資料作りも、職場でこなしていった。

 すべては一台のパソコンから始まったのだろう。誰かに手紙を書き、意思が通じないことも知っている。友人が旅した土地を追体験できる方法もある。世界は狭まっているのかもしれないが、人間の可能性は、果てしなく拡がって行くのだろう。

 玄関のチャイムが鳴り、荷物が届く。自分は数回、右手を使っただけかもしれない。16桁の自分の預金の身代わりの数字が、ぼくの代わりに財布をひらき支払ってくれたのかもしれない。しかし、ひととの間はどうしてもアナログがうまく行く。 

繁栄の外で(43)

2014年06月13日 | 繁栄の外で
繁栄の外で(43)

 明日は、けっして分からないものだという。その通りかもしれない。

 ある女性の存在がいつの間にか、自分の内面に忍び込んでいる。そこで居場所を作っている。そのひとは、ぼくより2才ほど年上で、時期によっては3才うえになったりする。

 ぼくは、もう30に近付き、すべてを流れだけに任せることはしなくなっている。冷静に判断し、こころのなかを点検し整備し、それでも、これが恋という感情であることは間違いないようだった。

 自分のことを考えてしまう。男兄弟のなかで育ったせいで、姉のようなものが欲しかったのかもしれないし、女性を尊敬したいという気持ちが働いていたのかもしれない。自分と世界のあいだに立って、和解させてくれる存在も必要だったのかもしれない。いろいろな欲求がうまれる。自分は、世界としっくりした関係がもてるのだろうか? そう悩んでいるわけでもないが、自分が世界に対して仮住まいしているような状態であることは間違いないようだった。

 そのひとは、賢い女性だった。そのひとを知らなければ、女性というものを2割ほど差し引いたものとして考えていたかもしれない。とくに、彼女の会話の仕方に感心する。ぼくの不得意なことだが、誰かから聞いた話をもう一度第三者に披露するとき、構成がたどたどしくなってしまうときがある。自分の頭の中で理解していることは、ほかのひとも理解するであろうという目論見の甘さがある。彼女は、きちんと話の流れを整理し、いらない部分は割愛し、足りない部分は補足して、どんでんがえしがあったり、きちんと終わりをまとめたりすることができた。そのことに何度純粋な喜びを感じたことだろう。

 ぼくは、基本的にひとりでしか美術館にはいらなかった。真剣勝負にほかのひとが入る余地はなかったのかもしれない。だが、なぜか彼女とは一緒にいて、不快に思ったことは一度もなかった。いま、考えても不思議なことだ。新宿でシスレー(たぶん最高の画家のひとり。この地味さが自分の性分とぴったり合う)を見たり、渋谷でマグリットをみた。まだ、交際する前に、上野でオルセー展もみたりした。なぜか、このチケットを無料でくれた人がいた。

 ぼくは、結婚などをしたいと思うことはあまりなかったが、ただ一度だけ、このひとなら問題はないだろうと考えた。それは、いくらかの決意と覚悟がいる。人生は折り返しに近付き、孤独でずっといる訳にもいかなかった。そして、彼女にプロポーズをする。すぐに答えはなかった。

 その答えを得られないまま彼女は父親の仕事の関係でアジアの国にいる。なんどかメールや電話のやりとりをする。いま考えると、ぼくには優しさの容量が大昔のパソコンのように決定的にないことをしっているが、そのときはかなり無茶なことを言ったと思う。メールの返事がすくないとか、いろいろと。あちらではたぶん環境が揃っていないし、精一杯のことはしていたのではないかと思う。

 そして、もう一度返事を要望するが、それはまだなかった。電話だけでつながっている関係は、それはそれで薄いのかとも思う。しかし、ぼくはここらで、もしかしたら終わりにしていたのかもしれない。

 彼女は、東京に戻っている。ぼくたちの交際はまだ継続している。でも、もうそれは過去に大ヒットした映画のできの悪い続編のようなものだったかもしれない。もう、あのみんなで力をあわせて成功させる労力などなかったのかもしれない。ただ、時間だけがすぎてしまった。誰が悪いわけでもないだろう。しかし、ぼくにもう少しだけ優しさの容量があったなら、結果は違っていたかもしれないが、それは尽きない問題のひとつである。ぼくは、それとずっと付き合っていかなければならないしね。

 その後、ぼくの好みも変わっていく。多少、頭の中身のできが悪かろうが、尊敬できなかろうが、そんなことは些細な問題にしてしまう。一生懸命ならば、そこは目をつぶってしまっていいぐらいの条件じゃないかと。まあ、彼女も懸命なひとであったが、ぼくには出来すぎたひとでもあったのだろう。

 その後、ぼくには圧倒的なまでに誰かの存在がこころに入ることはなくなった。何事も時期がある。すべてのものに時がある。さがすのにも時があって、植えるのにも時があるようだ。

 もうあれから10年も経ったのかと思うと、人生というのは転がり続ける石のようなものかもしれない。

繁栄の外で(42)

2014年06月12日 | 繁栄の外で
繁栄の外で(42)

 御茶ノ水で働くようになっている。近くには、水道橋があり湯島があり、本の街の神保町がある。

 自分は意識して交友範囲を広げようなどと考えたことはおそらく一度もないだろう。それでも、まったくそういったものを排除しようと意図したこともない。多くのひとと同じように趣味があうひとがいれば、自然と仲良くなっていった。

 そこにひとりの青年がいる。ぼくより3、4才年下だったように思う。ある日、休憩時間にでも会話の糸口が見つかったのだろう。詳しくは憶えていないが、どちらかが本を片手に終わり行く休憩を楽しんでいたのだと思う。そこで自然に「なに、読んでいるの?」と訊いたのかもしれない。もしかしたら、自分がしらない名作がどこかに転がっているという漠然とした喪失感を恐れて。それで、どちらかが答え、どちらかが納得する。

 彼は、アメリカの文学が好きだった。歴史の浅い国であることから、ほんとうのクラシック(ギリシャ悲劇的な)を持たない代わりに、新大陸的な希望と厭世があったり、この体制へのやりきれなさと怒りをまとった文章があった。そこにはゲーテがいない代わりにヘミングウェイがいた。ミステリーの形を借りた、文芸作品(認めようが認めまいが)もあったりした。そういう意味合いでぼくはこの国の文章を捉えていた。彼は、どう思っているか知らないが、それでもアメリカの文学が好きであるといった。

 ヨーロッパから移ってきた民族(一部は迫害などを避け、亡命する文化人もいる)は新たな土地で希望をもつかもしれない。また逆に、どこにいってもいずれ希望などは廃れ行くものかもしれない。その気持ちが文章にあらわれないはずもない。そこに、非ヨーロッパてきなものがあるはずだし、もっと先には混沌とした南米の文学というものもある。

 ふたりはいつしか御茶ノ水から神保町にかけての坂をくだっている。途中には明治大学があった。中古レコード屋が並び、いくつかの大衆的な飲食店がある。それを過ぎ去り、有名な本屋に入る。ときには何かを買い、ときには評価するためだけにとどめ、ときには立ち読みした。

 それに飽きると、地下にあるビールが飲めるパブにはいった。冷たいコクのあるビールを頼み、ソーセージなどを食べながら、そのとき買った本の話をしたり、これから読むべきものを語り合った。たぶんそうした内容をはなす相手を深いところでは必要としていたのだろう。いつしかそれは、ビートルズのどのアルバムが好きか?  という話になったり、好きなミュージシャンの話になった。

 ぼくはノー・リプライという曲のことが好きといったような憶えもあるし、「ラバー・ソウル」というアルバムへの肩入れを語ったようにも思う。あのころのジョン・レノンの必死な声には何かしらのパワーがあった。もう死んでから30年近く(生きていたら70才)も経ってしまうが、彼の存在はまだまだ語り継がれていくのだろうか? そして、なによりも好きなロック・ミュージシャンは、ボブ・ディランとスライ&ザ・ファミリー・ストーンであった。ふたりをロックの範疇に入れてよいのか分からないが、(分類化が必要であるならば、フォークとファンクかもしれない)彼らの音楽の個性的なところがなにより好きであった。そして、個性というものがない芸術家やスポーツ選手などを応援する意味など、まったくないのかもしれない。

「そういう音楽が好きならば、村上春樹を好きになるはずだよ」と彼はぼくに向かって予言をすることになる。彼は、この作家の熱心な読者であった。その予言は当たることになるが、もう少し先の話だ。

 話が盛り上がると、ビールのジョッキの数も増えていった。しかし、限度を超えることはなかった。

 あんなにも話したのに彼の好きな音楽をあまり覚えていない。これが記憶の悲しい部分だ。3、4才違っただけでも同時代の音楽はそうとう変わってきてしまうだろう。

 彼は、ぼくより前にそこを辞めた。それで、ぼくはそのような内容を話す相手を失ったのだ。もともと本を読むということが孤独な作業であるように、もとに戻っただけかもしれない。

 そういった状態は一般的であるならば、学生時代に行われていく過程かもしれない。しかし、あの学生が多い町で自分もいくらか若返ったような印象をもち、本を選び、ビールを飲んだ。ぼくのハイデルベルク時代がそこにあったのかもしれなかった。

繁栄の外で(41)

2014年06月11日 | 繁栄の外で
繁栄の外で(41)

 そろそろ時期も来たかなということで実家をあとにする。それでも、歩いて10分ぐらいのところにアパートを借りたので、見知らぬ土地では決してなかった。なぜか、自分は自分の環境としての境遇に満足することはなかったけれど、この土地から離れることができなかった。なにかの誘引力が働いていたのであろうか? この町の多くの人は、その感情を知っているはずだ。

 自分は、28歳になろうとしていた。アパートは近くの不動産屋でさがし、契約した。間取りは8畳ぐらいのフローリングの部屋に、4畳半の台所があった。夏は暑く、冬は寒かった。近くには環状線が走っていたが、眠れないほどの騒音はきこえなかった。そこは、いま思い出しても一人暮らしにぴったりの部屋だった。
 引越しには友人二人に手伝ってもらい、その代わりにステーキをおごったと思う。彼らは熱心に働いてくれ、見返りとしてぼくが支払ったものは少なかったかもしれない。しかし、それが友情かもしれなかった。

 家具も買い揃え、きちんとレコードが整理できるような棚もそろえた。敷金や礼金で思った以上にお金は飛んで消えていった。しかし、いささかも惜しいという感じはしなかった。ここでも、無頓着な性格がでているのだろう。

 別の友人なども呼び、酒を買い込みピザを頼んで、にぎやかに飲んだこともある。空いたビンを片付けながら、残ってひとりでシンとなった部屋にいることは、いささかの孤独感もあったかもしれないが、そのこととは妥協できる関係を構築できるようになっていた。自分は、女性との関係を最初からやりはじめることを、なぜだか忘れてしまっていた。そのような時期に自分が入っていることすら多くの時間を割いて考えなかったかもしれない。不思議なものだ。

 定期的に掃除をし、これまた定期的に洗濯をした。若いころ、リゾート地のホテルで働いたので、これぐらいの身の回りをきれいにする仕事をあまり負担に感じることはなかったが、料理はあまりしなかった。自分の中にある完ぺき主義をいつも自分はおそれた。やりだしたら、とことん突き詰めないことには我慢がならない性格を、自分の一部では有していた。それで、それを閉じ込めるためにも真剣になることを恐れた。

 あまり新しいレコードを買うことはなかったが、揃っているなかから適度な音量で聴いていると、幸せが実感できることが分かった。だんだんと忙しくなり、その時間を削らなければならないことに悲しみすら感じるが、それも仕方がないことだった。大人になるってことは、自由時間を削る、そういうことなのだろう。

 ある日、いつの間にか自分がワインを飲み始めていることを知る。何かのきっかけがあったとは思えないが、その味や酔い方に魅力があったのだろう。ウンチクを語るような高級なワインを飲むことはないが、日常的に気取りも見栄もなく、普通に普通に飲んだ。しかし、この普通にワインを飲むということに勘違いがはたらくのはなぜなのだろう。そこには、ある種の言葉と気取りが内在されなければならない宿命のようなものを感じてしまう。決して、そのような飲み物ではないはずなのに。

 一回、家をでるとあまり実家には帰らなくなった。近所に住んでいるのでうわさだけは耳にするが、それでアクションを起こすようなことはまったくなかった。親不孝の出来上がりである。これも自分の性分なのだろう。ある日、ぼくは熱をだす。家の冷蔵庫の中味の空に近づいていく。友人から電話がありそのことを知った友人の母はつみれ汁を作ってくれ、(ぼくの好物である)その友人が届けてくれた。こういうところが、この町の持っている底力かもしれない。とにかく、知り合いの面倒をみたい体質なのだろう。

 駅に隣接しているスーパーで買い物をして、簡単にソーセージなどを茹で赤ワインを飲んだ。フランスやイタリアの労働者もこんな感じかもしれない、と思ったがまだそこらの人々をしらない。結局は自分の見たものしか信じたくない自分がいたのかもしれない。

 たまにはその途中でビデオを借り、デッキに入れた。月々、数万円の代償としての生活は、それ以上の楽しみと満足感があった。あれ以来、誰かがうちの中を行き来することはないが、それを望んでの結果であるとはこれも言えないかもしれない。 

繁栄の外で(40)

2014年06月10日 | 繁栄の外で
繁栄の外で(40)

 いままでの仕事がこれからの生活と相容れなくなって、転職することにする。主に肉体をつかった仕事で、自分は思い上がった人間であることを忘れるように努める。まあ大した人間ではないのだ。いままでも、これからも。

 その前に、新しい仕事につくまで休みがあったので、その期間を利用して旅行をすることにする。自分は、いつも限界を感じると直ぐに見知らぬところで、リセットするように自分に仕向ける。ある意味での逃げだと思うが、それも仕様がない。正気を保つことは、意外とたいへんなものだ。そのとき友人にもちょうど暇があった。

 考えて、どちらもアメリカという存在に影響をうけた人間でもあるので、行き先は西海岸を選んだ。たぶん9日間で10万円もしなかったと思う。場所は、サンフランシスコとラスベガスとLAという三ヶ所が行程に含まれていた。

 影響のことを考えなければならない。ぼくらは、Tシャツを着て、ジーンズを履いて、トム・クルーズの映画を見て育った。子どものころには、休日の昼間にヤンキースやドジャース(そのリーグ分けにはとまどっていたが)の試合をみた。ローマ字を習い始めたころで選手の背中の文字を見ることも好きだった。名前というのは、ローマ字表記と同一ではないというささやかな事実をしる。当面は、外国というのはアメリカ合衆国のこととイコールだった。

 このようにベースボールも見て育った。古い話だが、憧れの存在としてレジー・ジャクソンがいて、敏捷な猫のようにオジー・スミスは転がり行くボールをグローブでひろった。

 86年には、グッデンとストロベリーがいたメッツは優勝する。そのときの監督は元巨人の選手でもあった。選手たちはその後、かずかずのトラブルを起こすがそんなことは関係なく、ぼくの喜びや感動もミラクルなものであった。

 その後の興味は、オークランドに移る。カンセコとマグワイアという太い腕をもつ2人の時代にはいる。その当時は、薬物なんていうものも知らず、ただ彼らの豪快さに魅了された。これがアメリカの力でもあった。リッキー・ヘンダーソンは今日も盗塁しエカーズリーは髪を乱し投げた。

 その他にも、アメリカの陸上界も凄かった。ぼくが15才のときにLAでオリンピックがあり、カール・ルイスの独壇場ともなった。カルビン・スミスのコーナーの走り方は目立たなかったが理想的でもあった。その後、マイケル・ジョンソンは不可思議な走法を編み出した。なにより、ダン・オブライエンという10種競技の選手のことを思い出す。金メダルがとれることが確実でありながらアメリカでの予選で失敗し、代表に選ばれる機会を失う。その次のオリンピックでは念願のそれを手にする。しかし、それはフェアの問題であった。まだ、あの当時のアメリカにはそのフェアな感覚が根付いていたように思える。その部分が好きでもあったのだろう。いつも、代表選びでゴタゴタする国に生まれてしまった自分としても。

 その憧れを抱いて、かの地を旅する。そこは期待を裏切るような真似はしなかった。サンフランシスコの赤い橋は限りない青空を背景にしてあった。ロスアンゼルスの空はスモッグに覆われているという評判だったが、どこよりも楽園というものを思い出させてくれるような色をしていた。ホテルでビール片手にテレビを見ていると、トム・グラビンというアトランタの左投手はコーナーの出し入れで打者をいらだたせていた。ベースボールはストを行い、消えかかった人気を取り戻そうとインターリーグという交流試合をその年から行っていた。しかし、いちばん人気を戻すのに役立ったのは、日本から来たトルネードだったのかもしれない。彼もその町にいるはずだった。その球場のまわりも通った。

 ラスベガスの大きなホテルの大きな画面では、長谷川選手が投げていた。まだアナハイムと呼ばれていたチームに所属していた。その孤独な戦いを見て、自分も故郷ということを考えないわけにはいかなかった。

 サン・ディエゴという美しい港町もみた。カーメルという有名な映画俳優(最近の活躍に年齢というのは老いと無関係であるのかという根本的なものの謎をかんがえる)が市長になった町も眺める。クラム・チャウダーの味にも満足し、国境を越え、メキシコにも入った。彼らは、もともとは俺たちの土地だと、アメリカのいくつかの場所を返還要求しているのか考えた。北方領土という領地に拘泥するような感じはメキシコ人にはないのだろうか? いつかアメリカに対する愛が消えてしまうことを知らない自分はたくさんの写真もとり、それをいまだに大切にしている。 

繁栄の外で(39)

2014年06月09日 | 繁栄の外で
繁栄の外で(39)

 離陸も順調に終え、激しい揺れも震動もなくなり、あとはコンピューター制御にして航路をすすめばよかった。ときには雑誌を読み、ときにはイヤホンで古臭い音楽や落語を聴く。そして、いつの間にかうとうとしている。そのような過程に自分の人生もはいっているはずだった。

 ある日、そのような過程にありながらも自分が神に見つけられてしまっていることを知る。もしそんなことが自分の身に起こるならば20代の前半ぐらいまでに起こってほしかった。しかし、そのときには見つけてはくれず、やっと自分のそれなりの人生をつかみかけたところ、やぶからぼうに見つかった。缶蹴りで隠れ場所をしくじった少年のように、自分はその視線に無防備だった。そして、無防備がゆえに策を講じることもできず引きずり出される。そして判断をくだす。それも仕方がないじゃないかと。次はこっちが鬼の番で、探すほうに廻るだろうことも理解できる。

 宗教というものをヤブ医者ぐらいの観念で考えている人も多くいる。もっと良い医者もいることだし、なにより病気(精神面でも)にかからないことや、予防が大事なんだと。そのようなひとに何も勧めないし、なにも言いたくない。だが、あの感覚、「見つけられた」ということは当人にしか分からないだろう。それゆえに、ひとの首根っこをつかんで「信じてくれ」とも言える立場にないことを知る。だが、冠婚葬祭をするための宗教やファッションとしてのクリスマスをしているぐらいが、生きる上では中庸でちょうど良く、賢い方法でもあるんだろうな、とさびしいながらも理解する。

 それで通俗的な本と共存しながらも(自分はいままでの過去をすべて投げ出すわけにはいかなかったのだろうか?)聖書を読む。数人のその中の登場人物に感情移入する。

 旧い約束。鯨のなかのヨナ。ぼくは、ポール・オースターの優れた小説でも知っていた。そこでは、ピノキオと同系列で比較し書かれていた。

 ヨナは神からの仕事を命令されるが納得できず逃げることにする。この人物のあまりにも人間くさい性格がよくあらわれている導入だ。

 ヨナは逃げる途中で船に乗っている。あまりにも揺れがひどいため、誰かこのなかの一人のせいだと船員のなかでの犯人探しがはじまる。もちろん、物語上ヨナであることが明らかになる。ヨナは海中に放り投げられる。

 そこで意外なことが待っている。大魚が口を開け、彼を飲み込む。その中に三日三晩とどまり、彼は思いのたけを告白する。それが次の章全体で説明される。簡単に俗っぽく言えば(こういうことが便利である)「分かりました、あなたからは逃げられませんよ。そのあなたとの約束を実行しましょう」といくらか捨て鉢な態度を見せ、彼はそとに吐き出される。これまた、ピノキオのようにである。(ポール・オースターはそう書いている)

 彼は触れ告げる。「神は怒っていらっしゃいます。悔い改めてください。いままでの生き方を変えてください」これはそこらの街頭演説と同じかもしれない。私たちは、それを聞くとも聞かぬとも判断しない状態で通り過ごすことを憶えている。

 しかし、ヨナの言葉には効果がある。彼ががんばればがんばるほど、悔い改めるひとが出て、当初の問題であったニネベという町を滅ぼす、ということは実行されなくなってしまう。ヨナは、ふて腐れる。これまた人間くさい感情の表し方だ。「最初から、こうなると思っていたんですよね」という態度を隠しもせず、舌打ちをするかのような感じでへそを曲げる。

 彼は小屋を作り、日陰をつくってくれるひょうたんの下でなにもせずに座っている。いらだちはまだ残っているのかもしれない。神は、そのひょうたんを枯らしてしまう。彼は強い太陽を浴びる。

「お前が、一個のひょうたんですら惜しむのに、わたしがニネベの都市の住人を惜しむのは間違っているのか? 悪いことから立ち直ったことだし、都市を滅ぼすことを躊躇したのは間違いなのか?」

 ヨナは、ぐったり疲れながら、「たぶん最初からこうなるとおもっていたんですよ。あなたは優しいかたですから」といって、唐突に終わる。(もちろん原文はもっと高貴です)

 ヨブという不幸のどん底におちるひとのことも書きたかったが、やはり何事もこれぐらいでも充分なのかもしれない。  

11年目の縦軸 16歳-33

2014年06月08日 | 11年目の縦軸
16歳-33

 悲劇は終わらない。

 Yシャツについたスパゲティのソース。台無しにするのは簡単だ。卸したてに戻れないさびしさ。

 音楽ならば、イントロや序章が終わったばかりなのだ。このぼくの恋の顛末も。そうした長い構成の曲をぼくはまだ知らない。途中で飽きるという退屈が放つ身勝手さによりかかって聴いていなかっただけなのだろう。こんなことになるのなら第一楽章で退席しておけばよかったのだ。だが、またもや暗転になりつづきがはじまってしまう。空咳をしておかなければ。

 ことの成り行き。ぼくらは会わないという変更の基点はあったが、実物を目にしないで、さらに当人との会話がなくなっただけで、さまざまな情報は耳にした。小さな町での無条件かつ無抵抗の侵犯。
 彼女は新しい男性をみつけた。みつけたというより言い寄られたから付き合っただけなのだろう。

 ぼくとその男性は去年まで同級生だった。ハイエナという形容詞をためらいもなくぼくは値札のシールのようにつける。女性を選ぶときに、誰かの後釜ということに拘泥しない、あるいは、そのことに付加価値を認めるような性質なのだろう。ぼくには中学のときに交際にいたらなかったが好きといってくれた女性がいた。直接にせまられたわけでもないので、本心は分からない。のちのち、彼女のタイプを系統だって見れば完全にぼくという存在は外れているようにも見受けられた。しかし、未遂に終わると、やはり、次の出番として彼があらわれる。舞台での代役のように。だから、今回で少なくとも二回目だった。それでも順序がどうであろうと彼はきちんとものにする。ぼくがずっとためらっていたことをきちんと遂行する。友人たちがその話をしている。彼女はどうやらはじめてだったようだ。ぼくは文章という声高にならないがすこしだけ暴力的な媒体を信奉するのに脳が犯されているため、ここでこの事実を書かない訳にはいかなくなる。ぼくの周りに生まれて動向を目撃されてしまった悲劇でもある。

 つまりはぼくは彼女とそういう関係にならなかった、ということも暗黙のことながら知れ渡ってしまう。近いうちにという予定はあきらめとも同義語になる場合もあった。いつか、誰かと接触と関係をもち、大人になる。いずれ誰しもが通らなければならない。多少の早さの前後はあるが、大体は似通った時期に訪れるのだろう。だから、ぼくは恨みをもちこむ必要はまったくないのだ。しかし、はらわたが煮え返るという表現を用いたい誘惑にもかられる。そして、正解としては、ほんとうはぼくが彼女を手放さなければよかっただけなのだ。怠った自分も同様に憎んでいる。模範解答もない青春の日々の誤った記述と失くした消しゴム。

 その二人の通学範囲は近寄っていた。うわさのつづきでは、アマチュアの蜜月はそう長くももたなかったらしい。彼女はぼくとの関係が終わり、やけになっていただけなのだろうか。誰かがそばにいてほしかったのだ。ぼくは自分を美化することを辞められない。いくら女になろうと、ぼくは彼女の少女性を簡単に捨て去る訳にもいかなかったのだろう。ゴミの収集車を追いかける自分の姿を映像化する。このときの焦燥を詰め込んでほしい。ぼくの見えないところに捨て去ってほしい。または高温で焼き尽くしてほしい。しかし、どうやっても追いつかない。ぼくはぜいぜいと身体から変な息切れの音をだし、懸命に追いかけるのをあきらめてしまう。

 一度、ぼくらのたまり場になっていた居酒屋で彼女とその男性をみかける。彼女はぼくと視線を合わせもしない。そして、勘違いであってほしいが、ぼくに見せなかった表情を彼女が作れることを見つける。ぼくにも、してほしかったという切なる憧れがのこった。

 そこからのぼくの話になる。

 ぼくは、はじめて男性を受け入れるという女性と対面したこともない。皆が皆、ぼくの舞台の壇上に登場したのは、すれっからしでもないし、ぼくが避け通しですまそうと誓ったのでもなかった。ただ、機会が単純に目の前にこなかっただけだ。さらなるうそと美化の上塗り。

 象徴というのは、いつも限りなく美しいものである。痛々しいぐらいに純な美を含んでいる。

 まっさらな半紙に墨汁を滴らせるような行為を自分は誰にもしないであろう、今後も。手を出せない少女か、もしくは成熟した女性しか目を向けない。過渡期をおそれる。だが、もうぼくの年ではその恩恵も、あるいは加虐の機会もそうやすやすと訪れてはくれないだろう。心配する必要もない。地下鉄のトンネルは掘られ、もう毎分ごとに電車が行き来している。吊革につかまるぐらいしかぼくに道はのこされていないのだった。過去に掘削機が活躍した。その現場を知らないことにグレイスという言葉を当てはめる。

 強力な洗剤でもしみは落ちなかった。かえって手のひらや指が荒れた。クリームが必要だ。保護し、油分が浸透する。湿潤。しかし、書くことの題材を与えてくれたことにも感謝する心境である。むしゃくしゃも結局は、扉でしかない。扉の開いた向こう側に行くも、反対に躊躇するのも自分自身の決断である。意識しても、盲目のとりこになった無意識にでも。

11年目の縦軸 38歳-32

2014年06月07日 | 11年目の縦軸
38歳-32

 誰かに恋焦がれるということの対象は女性に限ったことであろうか。

 ぼくも、もう三十八才なのだ。より壮大な人類愛に目覚めたとしても、決して罰はあたらないだろう。もちろん精神的なことにというタイトルをつけて限定される話だが。

 ある一人のひとが居なかった世界を真っ向から拒絶する。

 アルフレッド・ライオンとフランシス・ウルフがジャズのレーベルを立ち上げる。アメリカ合衆国で。船で祖国を離れて。もし彼らが浮かんだ計画を実現していなければ、ぼくはレコードやCDを一時的にせよコレクションすることもなかったのだ。実際のところ、冷静に判断すれば、その誘惑に負けたかもしれないが、確実に棚の枚数は減っていたはずなのだ。彼らの作り上げた、もしくは採取した音楽はとても魅力があった。ジャケットもアートになり得るということも教えてくれた。天才という言葉を軽々しく使いつづける人類。ぼくは彼らにもその言葉をあてはめない。ただ淡々と(底辺にながれる深い情熱で)仕事をこなす立派さ。一時的な華やぎではないのだ。そこに永続性を帯びる不思議さもある。

 仮に。もし、ドイツに居つづけたら? すると、ヒトラーの行った唯一、素晴らしかったことは彼らにとってドイツという国を住みにくくしたことなのだ。追い出された地で実が結ぶ。外国人の耳というのは固定観念を脱ぎ捨てれば、時折り重要な価値を与え、到達できない仕事をのこさせる。

 より身近に。三十八才の人類愛。音楽への捨て切れない情熱。

 対象には名前はある。仮にT・Hとする。ベーシスト。

 低音の有無こそが音楽のクオリティを左右する。ぼくは家のうらにあった小さなジャズ・ハウスで彼を発見する。ウッド・ベースという持ち運びに不便な楽器がすでに室内に置かれ、主人のないままに横たわっている。

 ぼくは年に四度ある会計がもたらす残業が片付いてゆっくりとした日々を黒いビールを飲みながら座席にすわって実感している。特に目当てというひとがいるわけでもない。この日までは。

 誰に会わなくてもいい、電話をすることも必要ない。その解放感がすべてのような時間だった。お詫びも催促もいらない。誰に気に入られる必要もない。どこにも劣等感も優越感も起こらない。ただビールの減り具合だけを気にしているだけの時間だった。

 今日、演奏するであろうひとが部屋の片隅でコーヒーを飲み、軽食を口に入れている。はっきりといえば自分の特技や技能を職業にしているひとの誇らしさが彼らにあるようだった。だが、その才能がなければひとは衝動として突き動かされることも減り、安定した気分でいられるのも確かだった。ぼくは絵美のことをすっかりと忘れていた。思い出すと、なにかの記念日とか、しなければならない未来のいくつかのことに少しだけ憂鬱になった。

 ぼくは自由であることを望んではいなかったが、この場所で取得していた。トイレに行ったり、店主と雑談をしたりした。そこには本もたくさん並べられている。数冊をぱらぱらとめくる。視力には良くないであろう薄暗い明りなので根気をいれることもない。ただの待ち時間のためで、暇つぶしだった。

 ブルー・ノートのレコードを一枚選び、店主にかけてもらう。大きなスピーカとそれに見合ったアンプが個人の家での限界を忘れさせてくれる。小さいという面はある面では貴重で、反対に大きさや重厚さもふさわしいときがある。電話など小さくなればなるほどいいと思うが、手のひらにしっくりとくるサイズも計算にいれる。聴くということに重点を置いた自分だったが、なにかを演奏するとか表現するという才能はまったくないようだった。だから、レコードの内容にも精通していて演奏者より詳しい部分もある。だが、それを音とかコードという実際的なノウハウに移す場合、この費やした時間はまったくの無意味になった。無意味にならないということを追い求めるだけも能ではない。ほとんどのことが無駄であり、暇つぶしであるとも言えた。

 ファンというものは総じてそういう輩だった。監督の気分になってスポーツを観戦する。交代のタイミングを計る。攻撃のパターンを考えたり、踏襲したりする。理想というのは現実に踏み入れないからこそ、幻想であり、楽しい事態のままで納まった。 

 すると演奏がはじまる。ピアノ・トリオ。ベースの豪快な音に耳が向く。科学者のような理知的な風貌からは想像できない挑みかかるような音だった。彼が長いソロを取る。イントロからずっとベースだけが主役の演奏だ。曲はダーク・アイズ。ブロードウェイも弾く。スタンダードになるには時間を要する。歴史の一部になるということは踏み固められてほこりの舞い散らない砂のようなものだった。土になり、雑草も生えないまでに固められる。

 演奏が終わる。ぼくは声をかける。ほとんど貸切のような状態だったのだ。占有できた時間と場所。ぼくはひとを誉めることに遠慮しない。多分、唯一の長所であり、同様にけなすこともいとわない。

 重い扉を開ける。思いベースを担いで帰る必要もない。ポケットに携帯電話があるぐらいだ。引っ張り出すと絵美からの着信があった。ぼくは彼女を占有する。いや、しない。きな臭い予感のために自分の育った場所を、あらゆる理由にせよ去る必要もない。だが、ほんの数歩で家に着いてしまう。もう、夜も遅かった。明日にすべてをもちこし今日は寝ることに決めた。

繁栄の外で(38)

2014年06月06日 | 繁栄の外で
繁栄の外で(38)

 繁栄の外にいることを忘れてはならない。

 自分の勤めているところに定期的に窓ガラスを清掃するひとが来た。狭いところなので一人で充分でもあり、こちらもひとりでいることが多かったので、きれいになった後に多少の世間話をすることがあった。そこは平日にも休みがあり、それに合わせて窓ガラスを清掃する日にちも決められていたのだろう。

 ある日、その休みの日にほかの場所を清掃しに行く仕事があるので「君もいって小遣い稼がない?」と誘われる。人手が足りないことだし、ぼくのことを見た目にも信用できそうだしと簡単な気持ちで言っただけだろう。特別な約束があったわけでもないが、その誘いをぼくは簡単に断ってしまう。幼少のころの兄の言葉「金で動くような人間にはなるな」という宣告の言葉は生きていたのかもしれない。いや、ただの根っからの怠け癖が出ただけかもしれない。はっきりとした答えは分からないが、どちらでもあるのだろう。

 いまなら、面白そうだしやってみて損はない、という気持ちになるがそのときはなぜか躊躇した。躊躇をすること自体が、自分の幅を狭めてしまうことが分かっていながらも、その狭さのなかに安住していた。

 その狭さには、本と音楽(JAZZ)と映画だけが備わっていた。自分はなぜ、あんなにも一生懸命取り込もうとしていたのだろう。といって、記憶とは不確かなもので忘れてしまうこととの戦いでもある。だが、人間が忘れることがなかったら、自分に与えられた傷にどう対処してよいかも分からなくなる。その三つが自分がたどり着いたゴールだと思っていた。ある程度までその三つはぼくを豊かにしてくれ、ものごとの考え方の根源的なヒントともなってくれた。

 世の中には素晴らしい革新的な一握りのひとがいて(チャーリー・パーカー)その後を追うように才能を薄めたような人たちが、自分も天才であると錯覚し、実力不足を見抜かれ、ある人は敗れ、ある人は生き方の方向転換をして過去の行跡(自分のみっともなさ等)を握りつぶす、という考え方ができるのも、ジャズという音楽をきいたからだ。結局は、最終的にそういう考え方ができるようになったかもしれないが、その音楽を演奏する人々について熟考すると、そういうことが理解できやすくなった。

 最近でも幕末の長州藩を考えるときに、このチャーリー・パーカーの法則が生きていることを知る。

 なので、バイトのお手伝いという新しいチャンスを払いのけ、自分のなかにこもり、休日にはその三つのうちのどれかを楽しんでいたことだろう。その楽しみには魅力があった。

 もう廃れていたレコードのプレーヤーを新たに買い込み、日常的に使うためにポータブルのMDプレーヤーも買った。あまりにもマイナーな映画を見て、その道中にはヘッドホンを耳に突っ込み、ブレッドという70年代のグループの音楽を聴いた。誰を受け入れることもなかったし、誰かに認めてもらいたいという必要もなく欲求もない幸せな日々だった。20代の半ばを越え、やっとそれなりなものだが自分のサイズに合った人生をつかみかけようとしていた。そんなに、ハンサムでもないし、話す能力も限られているし、それでもそこそこ楽しい趣味もみつけたし意外とトータル的には間違っていなかったんじゃないの? と自分の人生に合格点を出そうとしていた。

 週末には気の合った友人たちと酒を飲みながら、腹をかかえて笑ったり、また逆にはたまに笑わすこともできた。それでいながら初対面のひととはこころを開放することもない、相変わらずの狭さのなかに生きている。だが、多くの人はそれを友人との交友ともいうし、気の置けない仲間とのひと時とも言うのだろう。

 同級生やその友達の結婚相手(あまり異性を意識させることがなかった)と5、6人で近所の居酒屋で飲んでつまらない冗談をいっているときの自分が好きで、この状態が過去を通しても、「自分らしさ」というレッテルを貼り、標本にしたいぐらいの見本であり郷愁感をさそうものだ。

 このような日々が過去にあった。飢える心配もないぐらいには財布の中身も満たされ、映画を見てCDを買い集めるぐらいの小遣いもあった。自分には上昇志向は欠けていただろうが、自分の能力をかんがみればこれぐらいの高さにいる自分がちょうどぐらいにも思えた。もう自分がなにものであるかという悩みも、いつのまにかどこかに置いて来てしまい、自分がみつけた安住の地で静かに暮らすことになっていた。良くもないが悪過ぎもしない選択だった。 

繁栄の外で(37)

2014年06月05日 | 繁栄の外で
繁栄の外で(37)

 避けられない事実として、何人かが命を終える。しかし、正確な日付は覚えていない。もっと記憶力がましであればとも思うが、このぐらいが限度だろう。

 どれも自分が20代におこったことは間違いないはずだ。先ずは、自分が学生時代に陸上部に所属していたときの一学年先輩のひとが亡くなったと聞く。その先輩は中距離や長距離がはやかった。自分が住んでいる区での大会でも、常に優秀な成績を残したし、走るときにはいつも人を寄せ付けない孤高な感じがあった。

 自分は短距離走者だったので自分の練習もかね、交代で学校のまわりを一週ずつ先導する。ペースメーカーとしての役目。その練習がとてもきつかったことだけは、しっかりと記憶されている。2度と、あんなことはしたくないと思いながらも。

 もちろん、学校からも部活動からも離れてしまえば接することも少なくなり、その後の彼のことはあまり知らない。ただ、ある日情報が耳に飛び込んだときには、もうその人がいなくなっていることになる。過去にしまわれた映像が頭のどこかから呼び出され、再生される。その再生される回数もだんだんと減り、自分のその頭脳もいずれ無くなってしまうのだろう。

 次は、同級生の女性が亡くなった。現代の医学では治らない病気にかかっていたときく。彼女の元気な姿を思い出せるが、その病状を見舞うほどの仲でもないので、その後の経過をしらない。おそらく髪は抜けやつれていくのだろう。一般的な知識としてはしっているが、それを彼女に当てはめたくないと願っている自分もたしかにいる。

 その女性も地上から消え(いまだに信じられない気持ちがある)どこか安らかなところに行ってしまったのだろう。もっと医学がすすみ、治らないものもいつかは治療されることがあるかもしれない。だが、現在は限られた命を限られた医療でなおすしかない。それは、ぼくの問題ではなく、どこかの病院の先生か製薬会社のひとが考えることだろう。けっして、ぼくの問題ではない。彼女の母を路上で見かけ、抜け殻のようになってしまった印象を受けた。

 最後には、祖母が亡くなる。自分もそのひとを記憶し、そのひとも自分の幼少期をしっている。そのような一人がいなくなってしまう寂しさを、口では言い表すことは不可能かもしれない。だが、いくらかはできるだろう。

 祖母は、母を産んだ。母には年の離れた兄がいて、墨田区に住んでいた。そこに大体は一緒に暮らしていた。しかし、なんの取り決めがあったのかは子どもには分からなかったが、ぼくらと暮らしている時期もあった。ぼくが小学生のときにもそれは重なっている。

 ぼくの父が家から10分ほど離れたところに新しい家を建てた。完成は夏休みの時期とも合い、大工さんに飲み物や軽食を一緒に差し入れたりした。完成後、一晩だけ留守番もかねいっしょに新築の家に泊まった。祖母というのはおおむねそのようなものであろうが、自分にも無条件に優しかった。あのように接してくれるのは、世の中に祖母ぐらいなものではないのか? すくなくとも何年かはいっしょに暮らす時期があってよかったと思っている。孝行のあるなしにかかわらずに。

 母の兄は大工で、下町と呼ばれる地域に住み、学校のPTAの会長もしていた。不思議なことに、そのときの校長はぼくが学生のときに、ぼくの学校に移ってきた。ぼくは、校長室に呼ばれ、なんとなく世間話に付き合わされる。目立つようにはしなかったが、友達たちは奇異な目でぼくを見る。校長に呼ばれるというのは大事件を起したときだけだろう。

 幼少期に母に連れられ、祖母に会いに行く。町並みはこじんまりとして狭い路地をくねくね曲がりながらそこにたどりつく。あまり、自分を主張しない子ども時代の自分は人質のように、ひとりでそこに泊まることになる。いとこやおじさんといっしょに銭湯にいき、ちかくでお祭りがあると、いろいろな衣装を着せられ、そこにも連れて行かれる。そのような下町の雰囲気に、いくらかの抵抗感がいつもこころのどこかに眠っていた。

 子どもが根っから好きなおじさんは、思い出したかのように「ここのうちの子になれ」といって自分にいささかの恐怖感を与えた。競馬をみては「お前も騎手になれ、そのために大きくなるな」と無茶なこともいった。その言葉にも無条件の恐怖を覚える。身体なんか勝手に大きくなってしまうじゃないか、という言葉が口からは出ないが存在した。祖母はぼくを連れ出しお小遣いをくれる。亀戸には大きな亀がいて、ぼくはそれを思い出している。 

繁栄の外で(36) 

2014年06月04日 | 繁栄の外で
繁栄の外で(36) 

 自分の内面以外のことも当然のことながら興味をもつようになる。だが、これも遅いといえば遅いはなしだ。

 サッカーというスポーツが日本でも市民権を得ていく過程を味わった。ぼくの学生時代にはあるテレビ局が番組と番組の穴埋めのように海外のサッカーを放送していた。テレビのチャンネル数も少なく、こちら側にはあまり選択権もなかった。それを目を凝らしてみながら、こんな完璧なスポーツが世の中にあるのだろうか? と感じ入る。もし、どこか別の国で生まれていたら、日々そのことだけを考え暮らしていたかもしれない。イングランドのある地方でひとつのチームを熱狂的に応援しながらの生活とかの。

 その気持ちはテレビのこちら側でも伝わった。自分は、まだ西と東に分かれているドイツで活躍していたルンメニゲという選手のことを好きになる。いまの選手ほど洗練されてもいなかったが、そこには躍動感が秘められていた。それさえあれば、なにもいらなかった。

 4年毎の祭典がある。これも、ある国に生まれていたらそのことと応援の意味や自分が監督でもあるように采配だけを考えて暮らすことになるかもしれない。ぼくが17才のときには、メキシコで行われ、あるアルゼンチンの小さな男性のための大会になった。その次は、イタリアで行われた。その時までは、自分のことで忙しかったのだろう。そんなには熱中しなかった。

 自分が一番、思い入れのあるのがその次の大会だ。ぼくは25才になり、ものごとの分別もできあがり、冷静と熱中への距離や間隔を置くことも憶えている。

 場所はアメリカ合衆国で、そのサッカー不毛地帯でありながらも迎え受ける側としては優秀なチームを作っていた。なんだかんだいってもスポーツを観戦する心得と盛り上げ方をしっている国民なのだ。バスケット・ボールとアメリカン・フットボールで検証済みなのである。誰が、その応援の仕方に文句が言えよう。

 集まったチームも凄かった。ブラジルにはロマーリオがおり、ベベットがいた。点を取ることの嗅覚が並外れてすごかった。日本のチームが参加しようが、不参加であろうがそんな些細な問題は関係なく見応えがあった。

 ぼくは時差のため熱心にビデオを録り、仕事からかえって夢中でみつめた。ほかのチームにも華麗なる選手が多かった。ルーマニアにはハジがいて、ブルガリアにはストイチコフがいた。コロンビアには走ることを忘れたかのようにバルデラマがいた。出られないヨーロッパのチームにも信じられないほどのスターがいた。ユーゴスラビアとあの一帯には銃声がきこえ、その負の影響はサッカー選手にも及ぶ。残念なことである。

 そして、いくつかのイメージが自分のことのように記憶される。イタリアのスターであるロベルト・バッジョはテレビで見ても分かるほどの暑さのなか走り回り、その最後に勝利の行方を決定するPKを蹴る。無情にもそのボールはゴールの枠すらにも行かない。そのまま彼は空を見つめる。ヒーローには、ささやかな仕打ちがいつも待っている。彼は喜びの代わりに、眠れぬ夜を手に入れたのだろうか?

 そのまま永久に眠らされる人もいる。

 コロンビアの代表であるひとりは誤ってオウン・ゴールを決めてしまう。間違ってもしたくないことだ。その場が4年に一度のワールド・カップならなおさらだ。しかし、運命の糸に導かれるようにボールは自分のゴールに吸い込まれ、彼は自分の国で銃弾を報いとして自分の身体に受ける。

 日本のチームは、どうしようもなく暖かい国民に包まれているのだろう。次のワールド・カップでゴールを決められなかったストライカーは空港で水をかけられる。もちろん、クリーニングにでも出せばすむ話だ。この熱の入れ具合の差こそ、サッカーに対する愛の歴史かもしれなかった。もちろん、どんな悲劇が起こっても良いはずはないのだが。しかし、この94年のワールド・カップこそが自分の記憶の最前列にある。すぐに、取り出せるかのように。

 国として戦いながらも、個別のチームとしての戦いもある。マドリードには、優秀な選手がスイスの銀行に預ける札束や金塊のように世界から集まってくる。いまほど露骨ではなかった98年に来日したロベルト・カルロスほど見たいと思う選手はいない。あの小柄な身体に、マグナム級の両足がついている。世界はひろく、スポーツを愛する人口も多いだろう。その対象になっている人々への称賛が自分から消えることはないだろう。

11年目の縦軸 27歳-32

2014年06月03日 | 11年目の縦軸
27歳-32

 ぼくは、いつまできれいごとの世界の住人のような顔をしているのだろう。美化した自分を、読む者が少ないとはいえ見せびらかすことに恥はないのか。ためらいは一抹も起こらなかったのか。

 動物園のなかにいる優雅な動物も夜中になれば獰猛な様子で餌を食べているのだろう。飼育員もろともという機会もゆくゆくは狙って。摩天楼とよばれる輝ける都市の明かりや照明も、蛍光灯を取りかえる時期が周期的にやってくるはずだ。タイムズ・スクウェアであろうと、五番街の華やかさであろうと。

 飲食店の多い地下を行き交う溝にはねずみが繁殖している。大っぴらに顔は出せないが事実は事実であった。反対にぼくは七五三の衣装を毎日、着ているような素振りをしている。

 自分のことを客観視することは立派なことである。俯瞰という不思議な言葉もある。だが、段々とぼくはきらめきというものに身を包み過ぎている。自分の醜さやずるさや劣等感は、裏側にかくれてしまっていた。

 楽しみという分量が炭酸飲料の泡のように徐々に消えかかっている。口ゲンカやそれに準じた無言の時間が能動的に支配する。その傘下にいることを望んでもいない。ぼくは意図などしていない。だが、癇に障るということを自然にしてしまっているようだ。そもそも他人のふたりなのだ。好きなところも見つかった(奇跡の一部)のであれば、きらいなところがあっても仕方がない。そこを注意されるとは自分はこの日まで考えてもこなかったのだ。指摘されなければそれは存在もしなかった。わざわざ名称を与えることによって公衆で明らかになり、名誉ある立場も得られるのだった。勲章のような欠点。共有される感情。しかしながら、不快に思っているのはぼくだけのようでもある。

 何が、この不快感の原因なのだろう。足をくじいたとか、魚の骨がのどに引っかかったという具体的な理由が欲しかった。その理由が分かれば対策は講じられる。ぼくは男女間でも対策などという無駄な言葉を使いたがっている。そこには政府軍も反政府軍もない。ただの漠然とした違和感のぬかるみが横たわるだけである。

 希美は黙り込んだまま屈んで公園でハーブを触っている。その指先をぼくの鼻にもってきた。

「どう?」これで、いさかいも終了だよという合図のようでもあった。ぼくは、まだ自分の周囲の環境を美化したがっている。
「こんな匂いがするんだ」
「知らなかったでしょう?」

 明確に分けることもないが希美がいなければ知らなかったこともたくさんある。ぼくはそれを求めて希美と交際をしているわけではないが、結果として得るものもあるのだ。ぼくは得という観点に立ちはじめている。損も、また反対の利益など眼中にもなかったはずなのに。ぼくはお金で動かない代わりに、相手にも自分のすべてにも揺るぎない損得勘定の役割や、間違っても判断の材料として介在させたくなかった。これも、きれいごとをひとつ増やすに過ぎない。

 希美の将来がある。彼女の両親もそのことを検討に入れる。ぼくの職場の名前や明らかになっていない収入も話題のひとつであろう。ひとそのもののパーソナリティーの深い部分は、最初のきっかけより、目に付かないという点で臆病かつ重要で、さらにすすめば対外的に力があるほうが安心でもあり、また守られているという感覚を女性に与えるのであろう。希美がぼくを選ぶことをためらっている理由を彼らも欲していた。

 勉強をする。良い会社に所属する。その自分の選ばなかったものがしっぺ返しをする。される正当な理由がある。誰も穴の開いた船にすすんで自分の娘を乗り込ませる必要性を感じない。

 ブランド品のバッグも選ばれる正当な理由があるのだ。では、ぼくは希美の外見を見栄や資産であると一切、感じなかった、もしくは魅力とも思わなかったと言い切れるのだろうか。奥深いパーソナリティーを知るまではそのことがぼくというものを動かす原動力になっていただろう。誰も間違えていない。だが、誰もがボタンを掛け違える要素を忘れかけている。

 判断材料を探す。収入。名声。知名度。将来性。ぼくという個人は会社のような基準で判断できるのだろうか。もし、ぼくという株が流通していれば、将来を見越して、先行きを見届けたくてわざわざ買ってくれるだろうか。ぼくはリコールされ、ぼくは倉庫に投げ込まれる。株価は下がる。

 希美という存在を同じようなもので判断しようとした。ぼくに安心感を与え、一人前の人間になれるよういろいろ考えてくれる。彼女も自分の個性や才能を伸ばす。誰も自分自身のままでいることを許してくれそうになかった。成長しないものは、つまりは悪なのだ。

「ハーブね」とぼくは無意味に口に出す。
「アーブ。フランス人なら」

 Hという音声もどこかの国では悪なのだ。いや、悪とまではいかなくても、いらない類いのものなのだ。ぼくのいない世界というのを希美も、希美の両親も選ぶのかもしれない。しかし、発音しないからといっても、あるものは渾然一体とはならないでどこかに歴然とあるのだ。主張がすべてである世界と、自らを消そうとする世界。対策もなにもない。受容するしかないのだ。汚れてクタクタになったタオルこそ、水を吸収する。踏みつけられてもそういうものであろうと思った。希美が靴の裏で花々を踏みつけないよう注意しながら歩いている背中を見てそう願っていた。

繁栄の外で(35)

2014年06月02日 | 繁栄の外で
繁栄の外で(35)

 話が前後するが、音楽のことも書いておこう。

 自分が成長期に聴いていた音楽が一番だろうが、当然のごとく耳には自然と入りながらも、あまりに生ぬるく大人になってからは意図的に聴かなくなってしまった。それより、古い音楽をさかのぼって聴くようになった。

 60年代のロックから、そのギターやドラムという分かりやすい音のバックにはジョン・レノンのハーモニカが隠し味としてあり、ブラスのアンサンブルを取り入れたロックも出てくる。そうすると、モータウンやオーティス・レディングなども聴きたくなってくる。次第に深みにはまるようにブルースに移行し、最後はジャズにぶつかった。文字としての言葉を愛する自分は、歌詞としての言葉を必要としていないのかもしれない。

 失うと同時に手に入るものもある。

 アート・ブレイキーというジャズ・ドラマーが1990年10月16日に亡くなる。ぼくが、21才のときだ。もちろん全盛期は過ぎていて、生で聴く機会もなくなる。しかし、ラジオでは(その当時のラジオはいまよりガッツがあった。聴衆におもねっていなかった)全盛期の音楽が追悼番組でながされていた。それ(追悼の放送)を、リアルタイムで聴くことにより、自分のジャズに対する愛がひろがった。しつこいが、当人はもうここには存在しなかった。古臭い表現を借りれば、黒い円盤だけがしっかりと残っていた。

 次に世を去るのは、マイルズ・デイヴィスの番だった。1991年9月28日。ぼくは、22才になっている。同じようにラジオでは盛大に追悼されていた。もちろん、そうされて良い過去を彼はもっていた。あまりにも神格化されるきらいはあるが、過去の音楽(全盛期も一般的なひとよりあまりにも長い)を探ることによって、その冷酷すぎる音色は都会で生活する人間のリアルな感情のようであることを理解する。そして、ラジオでは物足りず何枚かの銀の円盤を買った。

 アントニオ・カルロス・ジョビンというボサノバの名作曲家が1994年12月8日に亡くなる。ぼくは、25才だ。スタン・ゲッツがジャズとの親密な関係から浮気するようにその軽やかな曲をサックスで吹いた。同じ過程を通過せざるを得ない自分は、ラジオのスイッチをつける。あまりにもたくさんの曲が努力の形跡なしで、この地上に産み落とされたことを知る。

 そして、忘れられない一日がある。ぼくは20代前半だ。五反田のホールにモダン・ジャズ・カルテットがやってきた。前日から自分は発熱し、行こうか悩んでいた。しかし、行ってみれば体調もどうにかなるだろうと軽い気持ちででかけた。演奏がはじまるまでは意識も朦朧とし深く椅子に身をしずめるしか方法がなかった。だが、はじまってしまえば、そこには現実か桃源郷にいるのかが分からないほど、音楽的な達成があった。そこに、ギタリストのローリンド・アルメイダ(一緒に演奏しているレコードは自分の愛聴盤の1枚でもあった)が加わり、アランフェスを弾いた。たぶん、過去の一日をもう一度だけ再現することができるなら、もう少しまともな体調であの場に座っていたいと思う。

 しかし、全盛期を支えた音楽も、徐々に古いマニュキアがはげるようにひとりひとりといなくなってしまう。それもまた運命である。ただ、人生の貴重な真理とおなじように、その場その場の一瞬を大切にしなければならないという事実を知るのみだ。明日は、来ないかもしれないし、明日には誰かはいなくなっているかもしれない。優しくするのは、いまなのだ。

 思い出は残りながらも、モダン・ジャズ・カルテットの4人のメンバーはいなくなる。ぼくはその後、30代になったときに働いていた職場で音楽に詳しい(実際に自分で演奏もする)ひとに出会い、そのひとからいつも不思議なことに、「あのミュージシャンが亡くなったけど、知っている?」と尋ねられることになる。その人が、不幸の使者のような気持ちをいだく。ほんとうはそんなことはなくて、ただ音楽(古いものも、新しいもの)を愛するが故の損失に痛みを覚えてしまうのだろう。君やぼくのように。

 音楽家を失って、悲しむならばもっと近しい友人たちを失った悲しみも比例どころか倍増するものなのだろう。その時期が来る前に、ぼくらは関係性を強化しておく必要があるのだろう。

 オーネット・コールマンは生きている。ソニー・ロリンズもサックスを吹いていることだろう。ストーンズも踊っている。ぼくが、思春期に見ていた黒い音楽家は白くなり、ついこの前亡くなった。これも時代なのだろう。

繁栄の外で(34)

2014年06月01日 | 繁栄の外で
繁栄の外で(34)

 まわりでは結婚をする人間がでてくる。2度目を経験するひともいる。その前には、当然のように離婚というポイントを通過する必要があるのだが。

 なかには可愛い子どもが生まれる場合もある。その彼らの分身を自分は不思議な気持ちで見つめる。きっと、自分自身を愛しすぎる傾向のある場合は、そうしたものを持たない方が良いのではないかという理性的な躊躇の気持ちがはたらく。当然のように、自分はそういう傾向を持っていた。

 世界にはさまざまな職業もある。なにかの役割を演じて、その代償に金銭をもらうことだとそのときの自分はおもっていたのだろうか? 王様は頭にターバンを巻き誰かに指図し、兵隊は銃をピカピカに磨き靴の重さで音をたてる。その頃、学生時代の女ともだちが水商売のひととして働いていた。友人たち数人で面白半分に、その店へ向かった。まあ、あちらも金銭を落としてもらう必要もあるし、こちらも楽しいひとときと後々の面白い話題が見つかれば、という遊び半分の気持ちで。

 彼女らは、自分が誰かに好意を持っていることを見せかけるという役割があるのかもしれない。また、ないのかもしれない。そういう気持ちに精通していない自分は、分からないことも多い。だが、いくらか分かることもある。

 自分が猟のわなにひっかかって身動きがとれなくなってしまったウサギのような状態にあることをしる。そのことは、そのお店で働いていた別の女性の顔を見た瞬間に、自分が追い求めていた(20数年間)顔を持っているひとがいたという驚きがあったからだ。

 気楽に話せる人と話せない人の差が大きい自分は、最初のうちは戸惑ったがなんとか会話をするようになった。だが、いつもいつも働いている子がとなりにいるわけもないので、目の端で追うことになる。それは、見つからないように自然と行っていたはずだが、他のひとから見たらあまりにも意識しすぎで完全にばれていた。

 そして、何度かの二日酔いと金銭の浪費を行い、その子の顔を眺めた。それだけで、心地のよい瞬間でもあった。

 たぶん秋ごろであっただろうが、その子の誕生日があった。ぼくはプレゼントを買い込み、それを手渡した。彼女は、喜んでくれた。ひとは何かの役割で生きているものだ。しかし、自分は根本的に人を悪意をもってみたり、裏をかいてみたりすることができなかった。口は悪いが、根は正直なひとたちに囲まれて育ったので、彼女の喜びを、そのままのサイズで受け止めた。

 ただ、自分がまたもや恋の幻影につかまえられていることに驚くばかりだ。基本的に人間は(はっきり言ってしまえばぼくは)何事も学ばないし、成長しない生き物なのだろう。しかし、どう理屈をつけてみても恋は恋だった。古臭い歌のように事実の提示は、みっともないものである。

 そのプレゼントが馴染んだころで、告白でもしようと思ったのだろう、日にちを決める。店に行く。彼女がいる。彼女が席を立った瞬間にぼくもあとを追う。言うべき言葉は喉元まででかかっている。フライングの危険さへ戒めれば。

 しかし、ぼくが目にするのは、常連さんと(明らかに彼女に気がある)楽しげに話している彼女の姿である。それは商売なのだから、そうするのは理解できるのだが、ぼくはリゾート地での、君江という痩せたおんなの子のシルエットがいつの間にか目の前に出現し、彼女と重なり合っていることを知る。その影を振り払うことができなかった。

 ぼくは、そのまま席に戻り、またもや水割りを口にする。言うべき言葉は、外に出なかった。そもそも、出ない運命にあったのだろうか。エンジン・トラブルのため宇宙飛行士は待機してください、と命令されるように。

 あの時、もうちょっとバランスを取り、自分をアピールして、自分を弁護して、参考人を呼び、自分の潔白であることを証言してもらいという段階を踏めば、人生はいくらか変わっていたかもしれない。だが、やっぱり変わっていなかったのかもしれない。

 しかし、誰のものであろうが、あの顔を自分は好きであることをしる。もっとずっと後になって10年以上も経って、スペインの地である彫刻を目にして彼女とそっくりである事実と対面する。忘れていたと思っていたが、思っていただけだった。いまでも、元気でいるのだろうか?