人生の時(2024.9.12日作)
人生の時は短い
時間は夢の如くに過ぎて逝く
八十六年余の歳月を生きて来て
残された時間は今 僅か
心に映る人の世の景色は総てが
暗い色彩 死の影の下に
浮かび上がる
輝く太陽 青春の時は
遥か彼方 遠く過ぎ去り
思い出 郷愁のみが色濃く
日常の時を彩る
老齢の人達が歳と共に信心深くなるのは
死という逃れ得ない現実が日毎 年毎
より身近に 自身の身に迫って来る事の為だ
人は不安な心の下 眼には見えない何かに縋り
頼りたくなる それが
神 仏
自身の心に誠実に生きる
人の世の波は 自ずと
自身の身に還って来る
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
<青い館>の女(15)
そんな思いと共に、わたしが意を決して電話をする気になったのは、ある夜のダンボール工場でのアルバイト作業が終わってからの事だった。
ふと、沸き上がる空虚な思いの中で抑え難いまでの彼女への思慕に捉われ、深夜近くの遅い時間帯にも係わらず追い立てられる様に公衆電話に向っていた。
「もし、うちの仕事でも良かったら、父に聞いてみて上げるわよ」
そう言った彼女の言葉だけが頼りだった。
夜の遅さを懸念した心配を余所に彼女はすぐに電話に出た。
「はい、牧本です」
彼女は言った。
その声を聞いただけで緊張した。
「あのう、スキー場でお世話になった柿田ですけど」
速くなる胸の鼓動と共に半分、怯えた様な声で言っていた。
「なあんだ、柿田さん、どうしたのこんな遅い時間に」
彼女は笑いを含んだ声で快活に言った。
わたしがスキー場で与えた好印象はまだ有効な様だった。
それでもわたしは、電話をした本当の理由を見透かされてしまいそうな気がしてしどろもどろのうちに、
「すいません。あのう、就職の事で相談に乗って貰えないかと思って」
と言っていた。
「就職の事 ? まだ決まってないの ?」
彼女は言った。
「はい」
「それにしても、なんでこんな時間に電話をして来たの ? 明日、掛けてくればよかったのに」
彼女はわたしの唐突な行動を笑うかのように笑みの感じられる声で言った。
「今まだアルバイトの仕事中なんですけど、明日、就職面接の予定があるんで、その前に電話をして聞こうと思って」
わたしは息苦しくなる程の緊張感の中で言っていた。
「明日 ? 何時から」
彼女はなんの疑いもない様に言った。
「午後の三時からなんです」
「午後三時 ? じゃあ、明日、午後十二時半までに銀座四丁目の和光の前に行ってなさいよ。わたし達は車で行くから」
彼女は言った。
ーーわたし達と彼女は言った。
わたしは不審に思った。
それでも聞き返す事は出来なかった。
翌日、彼女は二人の取り巻きの女性仲間を伴ってベンツで現れた。
わたしが和光の入口横にポツンと立っているのを見ると車の窓ガラスを開けて、
「今、車を置いて来るから」
とわたしに声を掛け、また走り去って行った。
程なくして取り巻きの二人と共に彼女が姿を見せた。
わたし達はそのまま、近くにある高級果物店の二階にあるフルーツパーラーへ向かった。
わたしに取っては初めて入る高級な雰囲気に満ちた店だった。
それでなくても緊張していわたしの緊張度は一層高まった。
彼女はそんなわたしを尻目に、如何にも馴れた様子の気軽さで二階への階段を先に立って上っ行った。
わたしはその席で彼女が問い掛けるのに対して改めて、<スーパーマキモト>への就職が可能かどうか聞いてみた。
「いいわよ、父に聞いてみて上げるわよ」
彼女は気抜けのする程簡単に請け合ったが、彼女に取っては総てが気軽な世間話しにしか過ぎない様に思われた。
「そうすればまた、あのスキー場へ行けるものね」
二人の秘密でもあるかの様に彼女は悪戯っぽく言った。
わたしはそんな彼女の言葉に就職への手掛かりを得た喜びよりも、再び、彼女の傍に居られるという思いの安堵に心充たされていた。
そうして<スーパーマキモト>で働く様になった。
わたしが大学を卒業するまでの間もアルバイトで、そこで働ける様に彼女は骨を折ってくれた。
わたしと妻との年齢差は二歳だった。
彼女と出会って二年目の冬、大学生活最後の年もわたし達は同じスキー場で彼女の取り巻き達と滑った。
彼女の計画したままに<マキモト>のアルバイトも何日か休んで行った。
妻が<マキモト>の本社で働く様になったのは、わたしより二年遅れの大学を卒業してからだった。
わたしはその時、上野公園の近くの店舗で働いていた。
当時の<マキモト>は都内に六店舗を持つだけの規模だったが、安売りを主体にしたチェーン店形式の販売方法はまだ目新しくて、商売仲間からは「安かろう悪かろうのマキモト」と酷評されながらも、順調に売上を伸ばしていた。
それはだが、決して安かろう悪かろうの商売方法ではなかったのだ。
<札束で頬を張る> 義父の強引なまでの取引方法で得られる成果だった。
<マキモト>の本社は昔から現在の場所の御徒町にあった。
上野とはすぐ近くの距離だったが、わたしと彼女はスキーの季節を除いては他にほとんど顔を合わせる事が無かった。
わたしは一介の社員でしかなかったし、彼女は社員と言っても社長の娘だった。その存在感には雲泥の差があった。気楽に彼女を誘う雰囲気はわたしの気持ちの中には生まれて来なかった。
わたしはそれでも、実に良く働いた。意識の中には常に彼女の存在があった。
それがわたしの尻を叩いて仕事に専念させた。
働きぶりが社内で噂になれば、自ずと彼女の耳にも届くだろう。
その為にのみ働いた。
その上、普段は滅多に会う機会は無くても、スキーの季節になれば必ず彼女から声が掛かって、その時には改めて彼女が身近に感じられてわたしの気持ちを一層昂ぶらせた。
大学を卒業してからの彼女は以前程に取り巻き達を連れ歩く事もなくなっていた。
殊に男子学生達は就職と共に、学生時代の遊び半分の気持ちは許されなくなっていて、次第に彼女とも疎遠になっていった。
中には社会生活の厳しさを知るに連れ、彼女の理不尽とも言える行動の強引さに嫌気が差して自ら離れていく者達もいた。
無論、彼女の美貌はなお衰える事は無くて何処でも男達の注目を集めていた。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます