時よ 止まれ(2019.4.1日作)
時よ 止まれ
願わくば
父や母の笑顔の輝いていた
あの頃に戻してくれ
わが青春の輝いていた
あの頃に戻してくれ
今はただ 失われてゆくだけのもの
あの幾多の恋
愛した人の数々
記憶の底に堆積する
あの事 この事
喜び 悲しみ 怒りと嘆き
すべては幻
遠い日の還らぬ夢
独りたたずむ時の流れの中で
過ぎ去りし日々の記憶は
ふたたび 還り来ぬ道ゆえに
いよいよ鮮やかに 懐かしく
日ごと 迫り来る時の終わりは
重たく心を覆う
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(2)
「でも、あまり霧が濃くなれば、国電だって止まってしまう事もあり得るわ」
「霧の夜には、街中に死人の山が出来るんですって。さっき、テレビで言ってたわ」
健康そうな女の客が言った。
「街を歩く人が、濃い霧の中で息が出来なくなって、窒息してしまうんだって言ってた」
男の客が続けた。
「だから、霧の夜が明けた朝には、街角のいたる所に出来た死人の山を片付けるのに、衛生局では清掃車を出して、死体を寄せ集めて歩くんですって」
「テレビで行ってたの ?」
バーテンダーが聞いた。
「そう。さっき、街頭のテレビが言ってたわ」
「嫌だわ。そんなにならないうちに、早く家へ帰りたいわ」
しのぶが大袈裟に身震いをしてみせた。
「いよいよになったら、ここへ泊まればいい」
大木は楽観的な声で言った。
「でも、霧は悪魔のように、僅かなドアの隙間からも押し入って来るんですってよ」
女の客が大木を見て言った。
「街中にあふれた霧は、それ自体、悪魔のように膨張して、行き場がなくなると、ドアというドアの小さな隙間を見付けて家の中に忍び込むんだって。だから、厳重に戸締りをして、隙間という隙間にはガムテープを貼るようにって、テレビで言ってた」
男が言った。
「そんなの、嘘だよ。嘘に決まってるさ」
バーテンダーが笑い飛ばした。
「そうだよ。嘘に決まってるさ」
男も言った。
「霧の中には、濃い硫酸が混入している模様ですので、街を歩く人は水中眼鏡などで眼を防禦し、ガーゼを三枚重ねにしたマスクをするように、都の衛生局では注意を呼び掛けています」
ラジオの男性アナウンサーの声が聞こえた。
「なお、都合の付く方は、一刻も早く帰宅をして、冷水で眼を洗い、うがいをしてやすむようにとの事です」
「しのぶちゃん、あなた帰っていいわよ。チーフ、看板の灯を落として。今夜はもう、閉めましょう。美紀ちゃん、亜佐ちゃん、さっちゃん、あなた達も早く帰りなさい」
小太りの中年のママが言った。
「どうやら、早く帰って寝た方が良さそうだなあ」
四十代の年齢を感じさせるチーフが言った。
「大木さん、お車ですか」
ママが聞いた。
「いや、飲む時は車に乗らない」
「ああ、そうね。でも、大木さんの所は国電で江戸川を越えた向こうだから、安心らしいわ」
「うん、霧は都内だけのようだしね」
「そうらしいわ。だから、家が都内でない人は早く帰った方がいいのよ」
しのぶが言った。
「おれ達は都内だから、何処にいても同じだ」
若い男が投げ遣りに言った。
「でも、早く帰って、厳重に戸締りをして寝た方がいいわよ」
しのぶが諭した。
「大木さん、追い出すようで御免なさいね」
ママが謝った。
「いや、いいんだ。こんな夜じゃ仕方がないよ」
大木はゆっくりとスツールを降りた。
酔いのせいで足元がふら付いた。
「大丈夫ですか ?」
ママがカウンターの中から、心配げに見守って聞いた。
「大丈夫、大丈夫」
大木はわざとしゃんとした振りをして応じた。
ドアを押して外へ出ると階段を上った。
地上へ出ると、街はまさに霧一色だった。
霧の中にすべてが溶けていて、所どころに街灯の明かりや、ネオンサインがぼやけているのが見えた。
「確かにこれはひどい霧だ」
大木は思わず呟いた。
人々の動く姿がほんの近くにいても、黒く影絵のように見えた。
霧の幕が遮断してしまうのか、声や物音はまるで聞こえなかった。
車のヘッドライトが人魂のように、霧の中に蒼白く滲んで消えて行った。
霧の中には多量の硫酸が含まれているという、ラジオのアナウンサーの言葉を思い出して大木は、ハンカチを取り出して口に当てた。
体中に霧の湿気が粘り付いて来るようで、たちまち人間にも黴が生えてしまうのではないか、と思わずにはいられなかった。
大木は狭い路地を抜けて広い通りへ出た。
普段なら、当然、何処の通りか分かるはずだったが、この濃い霧の中では、何一つ正確な判断が出来なかった。まるで見知らぬ土地の街中を歩いているかのような感覚だった。
むろん、駅の方角の見当は付けてある。新宿駅のあの巨大な建物なら、いかなこの濃い霧の中でも、不夜城のように浮かび上がっているに違いない。
大木は不意に眉を寄せた。
粘り付いて来る霧の異様に臭いのは、霧の中に含まれている硫酸のせいだろうか ?
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