“世界の盗塁王”福本豊
昭和22年大阪府生まれ。中堅手。左投左打。背番号40→7。通算:20年、2401試合、2543安打、208本塁打、884打点、打率291、1065盗塁
1969年、松下電器からドラフト7位で阪急ブレーブスに入団した福本豊の代名詞は“世界の盗塁王”。入団2年目に盗塁75個で盗塁王に輝いて以降、13年連続で盗塁王を獲得しました。
この間、72年にはシーズン106個の盗塁を成功させ、当時のモーリー・ウィルスの104盗塁を破る世界記録を樹立。83年には、ルー・ブロックが持つ通算盗塁938の世界記録を破りました。最終的に通算盗塁数は1065まで積み重なり、78パーセントの成功率を誇ります。福本は、驚くほどの駿足というわけではなかったので、投手の癖を完璧に盗むところに彼の盗塁術の真骨頂があったと言ってもいいいでしょう。
また打撃面では、「つちのこバット」と呼ばれた重いバットを鋭く振り切るバッティングで、4度のシーズン最多安打を記録。通算115個の三塁打の日本記録保持者でもあります。
1970年代の阪急黄金時代、1番の福本がヒットか四球で出て二盗。2番の大熊忠義がバントかエンドランを決め、クリーンアップの加藤秀司、長池徳二の犠牲フライで1点というシーンを思い出す人も多いでしょう。福本こそはチームの後輩に当たるイチローに勝るとも劣らない、日本球界屈指のリードオフマンと言っても過言ではありません。
さらに、彼はセンターの守備も抜群でした。例えば、74年オールのスター第2戦で、阪神の田淵幸一のホームラン性の当たりを、背走して外野フェンスによじ登り、そこからジャンプして捕球するという名プレーがありました。それを見た長嶋茂雄が「人間業じゃなくて猿業」と絶賛したそうです。まさに走攻守の三拍子が揃った名選手でした。
“世界の盗塁王”として国民栄誉賞の声も上がりましたが、「あんなもん、もらったら立ちションもできんようになる」と断ったエピソードは有名です。
また、88年、同僚の山田久志投手の引退式で、上田利治監督が「去る山田、そして残る福本」と言うべきところを「去る山田、そして福本」と間違えてスピーチしてしまい、それを聞いた福本は「言ってしまったものは仕方がない」と現役引退を表明したといいます。
こうした愉快な逸話から、大選手なのに関西の気のいいおっちゃんという風情を感じさせるところが福本の魅力でもあります。