硝子戸の外へ。

優しい世界になるようにと、のんびり書き綴っています。

永遠の0を読んでみた。

2013-07-03 20:26:56 | 日記
小説にはほどんど手が伸びない僕がこの本を読んでみようと思ったのは、「よかったですよぉ」といって勧められたからである。

「よかったですよぉ」と言う言葉を信じて書店で購入。早速扉を開いてみると読みやすく面白い。と思ったのは最初だけであった。

内容はご存知の方が多いので省略するとして、どうしてそう思ったのかと言うと、僕も戦時中の話を聴いてはブログに残してゆこうと試みていた時期があり、そして体験談から戦争というものを考えたからであった。また、母方の祖父も戦死しており、物語は少し前の自身のようでもあったからである。しかし、いつの間にかそういった個人的な活動も忘れていたので、この本を読みながら、手をつけてはならない本だったのかもしれないと後悔しつつ一気に読んでしまった。

熱を帯びた戦闘シーンの描写は少し難解であるが、僕は松本零士さんの「戦場マンガシリーズ」や新谷かおるさんの「エリヤ88」宮崎駿さんの「飛行艇時代」や押井守さんの「スカイクロラ」等のビジュアルの下地があったので想像しやすくて助かった。

また、主人公の健太郎君と姉の慶子さんの話が要所要所で挟まれていたので気持ちが滅入る前に一息つけた処が救いでもあった。

しかし、僕がこの物語でもっとも関心を寄せたのが「宮部久蔵」と言う人物である。

彼はある人からは罵られ、またある人からは尊敬されるという人物であった。どこに配属されてもそのような印象を他者に与えたのかそこが大変興味深い処であった。

それは彼が人格者であった事、人格者であったが故に蔑まされ理不尽な処遇を受けてしまうのである。それを不器用な男だと表現しても間違いではないと思うが、その反面、実直であったからこそ他者から信頼され尊敬されたのであろう。

人の評価と言うものが如何に評価する者の立場によって変わるのかが物語を通して表わされているようにも思った。

そしてもう一つ大切な事がある。宮部久蔵はいかにして宮部久蔵になったのかと言う処である。

彼の天賦と言う部分も必要であるが、それだけでは宮部久蔵にはなれなかったのではないかと思う。

彼がどうして人格者としての宮部久蔵になりえたのか、物語は少しだけその部分に触れている。

まず、彼の祖父が徳川の御家人であった事。そして中学生で囲碁の師匠がいた事である。このような人物によって人格が形成されていったのである。武士道や棋士の教えを幼い頃から受けたことにより心が鍛えられ、その後の苦難を乗り越え驚異的な精神的成長を成し遂げたのであろう。

そのように思うと人格は、生まれもったものもさることながら、置かれた環境によっても変わってくると言う事でもあり、また、師をもつ事、教えを受ける事も大切なのであろうと思った。

そう考えながら「永遠の0」という物語を振り返ってみると、先の戦争とは何であったかを物語を通して百田氏なりの言葉で表現しつつも、実は人の成長は他者の影響抜きでは成し得ることはできないというメッセージが込められているのではないかと僕自身は感じたのです。

物語自身もとても善いもので「よかったですよぉ」という言葉にも納得できましたが、映画は観に行かないと思う。

なぜなら読後感の心の疲労から考えると、大変疲れてしまいそうだからです。