硝子戸の外へ。

優しい世界になるようにと、のんびり書き綴っています。

耳をすませば。 彼と彼女のその後  5

2013-07-13 07:58:19 | 日記
「本当だよねぇ。まさかここまで一流になるとは思わなかったよ。しかもイタリア国籍でしょう。なんか、かっこいいよねぇ。」

平静を装い、なるべく今の気持ちが悟られないように普通に、普通に話をしようと努めた。
そして、明るく振舞おうと。でも、彼の反応は意外なものであった。

「そうかなぁ。俺は普通だと思うけどね・・・。イタリアやオーストリアでは普通の弦楽器屋のおやじだよ。映画俳優みたいな人がゴロゴロいるし、バイオリンを作るのだってアトリエを持ったことは奇跡だと思うし、手を抜けばあっという間に人が去ってゆく。とてもシビアな世界だよ。でも、そこで頑張っていられる事は嬉しいけれどね。」

そういって指示器を出し左へハンドルを切る姿をじっと見て、この人は本当に素敵な人になったんだなと感じた。

「またぁ。謙遜しちゃってぇ。それが普通なら、私ってなんなんだろって思ってしまうよ。」

「なんなんだろって・・・。雫だって作家になったんだろ。俺、すごく尊敬しているよ。じつは雫には内緒で御爺ちゃんが雫の本を送ってくれて読んだんだ。それでさ、良い物語だったから翻訳できる友人に頼んでイタリア語に翻訳して作家志望の友人に読んでもらったら、イタリアでもいい物語だって誉めてたよ。」

「ええっ!そんな事したの。いやだぁ。地球の裏側で私の物語が読まれたなんて恥ずかしいよぉ。天沢君のいじわる。」

「いじわるって・・・。責められる意味が分かんないよ。雫の才能は本物だと思う。友人もそう言ってた。自身を持っていいと思うよ。」

「またぁ。上手い事言って! 何か下心あるんじゃない。ほんと、なにもでないよ!」

「何も期待してません。こうやってまた話ができるだけで十分だよ。」

笑顔で応えるこの人はなんて意地悪なんだろう。悔しいなと思いつつも離れていた時間を取り戻すように彼との会話に夢中になっていた。
森に囲まれた緩やかな坂道を上がってゆくとその先に火葬場が見えた。霊柩車はもう着いていて棺が係りの人の手によって運び出されようとしていた。私たちは我に返り、駐車場に車を止めて火葬場へと足早に向かった。