硝子戸の外へ。

優しい世界になるようにと、のんびり書き綴っています。

上京雑記。

2013-07-02 08:28:30 | 日記
東京駅から山手線に乗り換え大塚駅で下車する。階段を下り改札を出ると東京駅とは打って変わり下町情緒を感じせた。駅を出ると美容院の店員さんがチラシを配っていたので、関わらぬよう足早に避けて都電荒川線大塚駅へと向かうと小さなクリーム色に緑の線が施してある電車が止まっているのが見えた。

家を出る前に気休め程度に調べていたが、気持ちが少し舞い上がっており行き先を確認せずに乗ったものだから目的地とは反対方向であったことが分からなかった。乗客が前から乗車するようであったので、そのあとに続く。料金が前払いであったのであわてて財布を出し160円を入れる。車内を見渡すとご老人が多い事から地域の人々によって支えられていることが分かる。

車掌さんの左後ろで進行方向の景色が良く見える席が開いていたので腰かける。駅を出て程よくいくと電車は家と家の間を縫うようにゆっくりと走ってゆくが、停車場の区間距離短いのか少し走るとすぐに停まることに驚く。しかも15分後には次の電車がやってくるのである。2時間に一本しか市バスが走らない僕の住む田舎とは大違いである。また環状道路を横切る時は信号に従っているというのも不思議であったが、以前「もやもやさま~ず」で紹介されていたことを思い出して、これがそうかなのかと納得するも雑司ヶ谷までこんなに停車場があっただろうかと不安になった。

車内の路線図を観て確認すると早稲田方面ではないことに気づく。飛鳥山駅で下車し反対側の停車場で次の電車を待つ。停車場に面した所にクリーニング屋があった。こんな場所にと思ったが需要もありそうだなと考えるも、飛鳥山公園の脇を通る行動をみて現在の人の流れの支流はあちらであることを考えると、ここでは商売は難しいのかもとも思った。などとつまらぬことを考えているうちに早稲田方面へ向かう電車がやってきたので乗り込む。
来た道を遡ってゆくと風景も変わって些か楽しい心持がした。
大塚駅から早稲田方面へと走ってゆくと信じられないくらいのS字カーブが訪れる。ぐらりと揺れながらもとてもゆっくりであったので安心する。線路は緩やかに上りである。東京と言うと平坦というイメージがあるが、上野を過ぎたあたりから左側が崖であることからかなり起伏のある土地であることに気づく。電車は坂を登りきると今度は緩やかに下ってゆく。

遠くに高層ビルが見える。雑司ヶ谷のアナウンスが聞こえたので停車ボタンを押す。下車したのは僕だけであった。左手に雑司ヶ谷霊園が見えた。プラットホームを降り左へ折れると交番があった。駐在さんが二人いて何やら話している。その横をすぎると昔ながらの花屋があった。花でも買って行ったほうがよいだろうか。と考えたが、現在お世話をしている方に迷惑かもしれないと思い止めておいた。霊園内では造園業の人たちが伸びすぎた木の枝や道に落ちた葉などの清掃に汗していた。お墓参りをしている人はあまりいないようである。
事前に調べておいたルートを思い出しながら霊園内の道を歩く。都心ではお墓の規模も違うことに驚きつつも、見慣れぬ名字のお墓に関心がゆく。立派なお墓であると生前はどんな立派な方だったのだろうかどんな家柄なのであろうかと想像する。キリスト教者の墓石を目にすると宗教とは本来こうあるべきではないだろうか等と考えた。死という事実をまじめに考えてはいるが、田舎のお墓は小さく、また檀家の集まりであり、他宗教が混在する事はないので純粋に不思議に思うのである。

曲がり角を左折し左側に注意しながら歩いてゆくと木の陰の裏に他の墓石よりも幾分背高い墓石の後ろ姿を見つけた。横を通り過ぎ振り返り墓石を観る。菅寅雄が何度も書き直したという達筆な文字。先生のお墓である。小さな石段を上がり墓石の前に立つ。夏目家のお墓にはきれいなゆりの花と小さな様々な花が活けてあった。誰かがお参りにきてから日が浅いようである。
目を閉じ心静かにし合掌する。読書や勉強が好きになれず、社会の底辺を歩きつづけている僕が、様々な経験を通して今こうして先生のお墓の前にいることが不思議でならない。しかし、これも縁であったのかもしれない。

雑司ヶ谷霊園には銀杏の木はあるものの苗畑はなかった。当たり前と言えば当たり前なのかもしれない。もと来た道を戻ってゆき再び電車に乗る。15分毎に通る電車は本当に便利である。採算は取れるのであろうか。そのような心配もしてみたがそれでも沿線住民の足としてこれからも活躍するであろう。いや、あってほしいと思った。

大塚駅に着き下車する。山手線大塚駅へ向かうと駅前で行商の御婆さんが野菜を並べて、同じ年配の人と楽しそうに会話していた。行商を行うその姿を観るのは初めてである。僕の田舎では野菜は畑で育っていたのでそれを採ってくるか、スーパーで買ってくるかの二つである。都会ならではのスタイルであるけれど、野菜の行商が紡ぐ人との和はまた違った意味を持っているのかもしれない。

上野まで切符を買い改札を抜け階段を上ると外回りの電車が入ってきた。この素晴らしさを噛みしめつつ乗り込む。今回上野へ行く目的は東京藝術大学大学美術館で行われている「夏目漱石の美術世界展」である。

上野駅を出ると上野公園前にはたくさんの人が行き来していた。僕自身もこの人の多さにも少しずつ慣れてきた気がした。いつの間にか太陽が真上に上り日差しが一層きつくなっていた。

日陰で信号待ちをし、横断歩道を渡る。文化会館と西洋美術館の間を抜け、表示に従い歩いてゆくと広い通りに出た。そこでは所どころ人だかりが出来ていて、時頼拍手と歓声が上がっていた。なにやらパフォーマンスをしているようであった。

スタバの前を行き過ぎポートワン博士像を左に見ながら森の中を歩いてゆくと旧東京音楽学校奏楽堂がみえた。今は閉館しているようであった。更に進み通りに出て道沿いを歩いてゆく。目指してゆく方角に歩いてゆく若者が多い。これは皆美術館に行く人なのかと一瞬思ったが、東京藝大内であるのだから学生さんであることにすぐさま気づく。そして、この人たちは藝術を専門的に学びどんな職業に辿り着くのであろうかと変なことを考えだすが、あまりにも愚問であるので止めた。

美術館に辿り着くとどんな作品に出合えるのだろうかと胸が高鳴った。
チケットを購入し進む方向を確認していると、カバンをロッカーに入れる事を係りの方に進められる。素直に従い係りの方に礼を言って目的場所へと足を進める。鑑賞する人々は年配の方が多いようだ。

エレベータに乗り扉が開くと、まず『吾輩が見た漱石と美術』というテーマからの展示であった。そこには橋口五葉が手掛けた装丁が展示されていた。
本当に美しいデザインで思わず見とれてしまった。一昔前の僕なら目にも留まらなかったであろう。その後、先生の文学を通しての美術が展示されており、その絵を観ながら「嗚呼あの場所はこの絵の事であったのか!」と感心しきりであった。

じっくりと鑑賞してゆくと、先生の好きな画家ウオーターハウスの「人魚」に辿り着いた。その絵の前には髪が背中ほどまできれいにまっすぐ伸びた清楚で美しい女性がじっとその絵を観ていた。
僕は息の飲み、その女性越しにしばらく「人魚」を観ていた。そして、その女性はたしかに生きていて、きちんとした名と職が有る誰かの娘さんであるに違いない。しかし、僕にとってどちらも「絵」なのではないだろうか等と考えもした。

この企画展では主役である先生が自ら描かれた絵も展示している。これを鑑賞するのも楽しみの一つであった。実際に観てみると「山上有山図」等の掛け軸は正直、上手いか下手なのかよくわからない。このような事を云うと先生はひどく機嫌を悪くされると思うが、先生もかなり辛口の批評家であったようである。

先生の軌跡をたどりつつ楽しく拝観してゆくと展示物の最後には先生のデスマスク石膏原型があった。これは美術や藝術なのかなと思いつつもじっと見つめていると不思議とそのような心持が胸から消えていった。そして先生はよく鼾をかかれたのではとか、目覚めた後に気分がすっきりとする日が少なかったのではないか等と考えた。さらに、つい先ほど墓石の前で手を合わせた僕はこの人のお墓参りに行ってきたのだなと改めて思い感慨にひたった。

美術館を出て来た道を遡る。森の向こうに旧因州池田屋敷表門黒門が見える。その森の木の下で多くの人が座り込んでいた。何をしているのだろうかと良く見ていると。テントが張ってあり数名の人たちがなにやら準備を始めていた。
テントにはキリスト教系の名前が見て取れた。どうやら炊き出しの準備のであった。
多くの人が老年に差しかかる男性であったが、中には20代とも見て取れる青年の姿も見えた。家がなく職がなく家族もなく東京という町で知らぬ同士が今日の糧を与えてもらいに集っている。そして生きる事とは何であろうかと考えだした。

見つかるわけがないこの問答をしていると、向こうから修学旅行生の集団が炎天下の中を元気よく走ってきた。先生の注意にも軽く返事しながらも夢中で友達と話していた。彼らはまさしく今を謳歌していた。これを明暗というのだろうか。とも思った。

お腹が空いてきた。次の目的地で食事を採ろう。いらぬことは考えず、今を楽しもう。そう自身に言い聞かせ上野を後にした。