「そう・・・なんですか。 」私はその言葉に少し戸惑いを感じてしまった。
「いや。これは失礼しました。では、こういう話はどうでしょう。ある時、イエス・キリストがパリサイ人と離婚について問答したのですね。その時イエス・キリストは創世記の話を用いて説いたのです。「人は神が結び合わせたもの引き離してはなりません」と、するとパリサイ人はモーゼの御言葉を用いて反論したのです。「では、なぜ離婚状を渡して妻と離別せよと言われたのですか」と。そこで、イエスは言われます。「だれでも、不貞のためではなく、その妻と離別し、別の女を妻にする者は、姦淫を犯すのです」と。それを聞いていたイエスの弟子たちは「もし、妻に対する夫の立場がそんなものなら、結婚しない方がましです。」と言うのですよ。 どうです? 面白いエピソードでしょう。 私はイエスの弟子である。と言う人たちでもこの時点では、先ほどお話した愛には至っていないのです。だから、自信がなくてもそれで良いのですよ。」
「はい。」
「多くの人には気持ちの揺らぎがあります。揺らぎよっては道を踏み外し、罪を犯してしまう人もいるでしょう。それでも自身が神を見放さなければ、神はあなたを見放したりはしません。生きていれば耐えなければならない事も多々あるでしょう。しかし時が満ちた時、必ず救いの手が差し伸べられるものです。だから本当に辛いと感じたら神に祈り、自身の心に問いかけ、行動し、後は成り行きに任せるとよいですよ。」
私はその言葉を聞いて、心の波が少しずつ小さくなってゆく感じがした。
「お話を聞いて頂いてありがとうございます。時々、教会に来ていいですか? 」
「いつでもいらっしゃい。あなたの前には扉が開かれていますよ。」
そう言われると、「では、ミサの準備もありますのでこれで失礼しますね。」と言って軽く会釈をされ席を立たれ、ミサの準備に戻って行った。
牧師さんの言葉が私の中で響いていた。そしてこの響きは何だろうと考えていた。たしかに強い信仰心があれば、道を踏み外したりはしないのかもしれない。でも、そこに至るまでには長い時間と心の成熟が必要となるだろう。しかし、誰だってその瞬間の感情に身を任せていたいと思うものだし、耐える事より享楽に身を投じていた方が楽しいだろう。
人は心強い人ばかりではないし、強いと言えども、自身の考えに固執し人を硬直させてしまっては、神などいらぬと言ってしまえるのも分かるような気もする。そう言った人が経済的な成功者となると、人は、貧しい敬虔な信仰者と、どちらが幸せであるだろうかと秤にかけて考えるだろう。しかし、それは人によって作られた倫理や道徳で考えるのだから良い事も悪い事も混じり合っていて当たり前なのだ。そして、それが人なのだと思う。
十字架に架けられたイエスの前でこんなこと言うと罰が当たるかもしれないけれど、私達のいる世界は、懲りもせず、矛盾した事が延々と繰り返されているのだ。
私にはまだまだ知らない事が山ほどある。それは、まったく磨かれない原石のままなんじゃないかと思ったら、急に可笑しくなって小さく笑ってしまった。
「いや。これは失礼しました。では、こういう話はどうでしょう。ある時、イエス・キリストがパリサイ人と離婚について問答したのですね。その時イエス・キリストは創世記の話を用いて説いたのです。「人は神が結び合わせたもの引き離してはなりません」と、するとパリサイ人はモーゼの御言葉を用いて反論したのです。「では、なぜ離婚状を渡して妻と離別せよと言われたのですか」と。そこで、イエスは言われます。「だれでも、不貞のためではなく、その妻と離別し、別の女を妻にする者は、姦淫を犯すのです」と。それを聞いていたイエスの弟子たちは「もし、妻に対する夫の立場がそんなものなら、結婚しない方がましです。」と言うのですよ。 どうです? 面白いエピソードでしょう。 私はイエスの弟子である。と言う人たちでもこの時点では、先ほどお話した愛には至っていないのです。だから、自信がなくてもそれで良いのですよ。」
「はい。」
「多くの人には気持ちの揺らぎがあります。揺らぎよっては道を踏み外し、罪を犯してしまう人もいるでしょう。それでも自身が神を見放さなければ、神はあなたを見放したりはしません。生きていれば耐えなければならない事も多々あるでしょう。しかし時が満ちた時、必ず救いの手が差し伸べられるものです。だから本当に辛いと感じたら神に祈り、自身の心に問いかけ、行動し、後は成り行きに任せるとよいですよ。」
私はその言葉を聞いて、心の波が少しずつ小さくなってゆく感じがした。
「お話を聞いて頂いてありがとうございます。時々、教会に来ていいですか? 」
「いつでもいらっしゃい。あなたの前には扉が開かれていますよ。」
そう言われると、「では、ミサの準備もありますのでこれで失礼しますね。」と言って軽く会釈をされ席を立たれ、ミサの準備に戻って行った。
牧師さんの言葉が私の中で響いていた。そしてこの響きは何だろうと考えていた。たしかに強い信仰心があれば、道を踏み外したりはしないのかもしれない。でも、そこに至るまでには長い時間と心の成熟が必要となるだろう。しかし、誰だってその瞬間の感情に身を任せていたいと思うものだし、耐える事より享楽に身を投じていた方が楽しいだろう。
人は心強い人ばかりではないし、強いと言えども、自身の考えに固執し人を硬直させてしまっては、神などいらぬと言ってしまえるのも分かるような気もする。そう言った人が経済的な成功者となると、人は、貧しい敬虔な信仰者と、どちらが幸せであるだろうかと秤にかけて考えるだろう。しかし、それは人によって作られた倫理や道徳で考えるのだから良い事も悪い事も混じり合っていて当たり前なのだ。そして、それが人なのだと思う。
十字架に架けられたイエスの前でこんなこと言うと罰が当たるかもしれないけれど、私達のいる世界は、懲りもせず、矛盾した事が延々と繰り返されているのだ。
私にはまだまだ知らない事が山ほどある。それは、まったく磨かれない原石のままなんじゃないかと思ったら、急に可笑しくなって小さく笑ってしまった。