硝子戸の外へ。

優しい世界になるようにと、のんびり書き綴っています。

耳をすませば。 彼と彼女のその後  54

2013-08-31 10:01:28 | 日記
「ところで、工房は何処に出店する事になったの?」

「上野だよ。音大の近くにね。ちょっと大変だけどバイオリニストを目指す人たちのサポートを出来ればと思ってね。」

「へぇ~。すごいねぇ。」

「すごくないって。お祖父ちゃんが僕にチャンスを与えてくれたおかげで今の僕があるのだから、今度は僕が誰かにチャンスを作ってあげる事が使命かなって思うんだ。」

「西さんの遺志を受け継ぐのね。」

「遺志を受け継ぐなんて、そんな大層な事じゃないよ。イタリアの諺でね。Chi si contenta gode という言葉があって、それは心の満たされる人は富にも勝るという意味なんだけれどね。」

「うん。」

「その諺通り、どんなに成功したって結局心が満たされなければ幸せを感じる事って出来ないと思うんだよね。そんな事をお店が軌道に乗り始めた頃からずっと考えてて、色々な経験を通して思い至ったのは、少しでも余裕ができたらその余裕を誰かに分配する事が心の幸せを呼ぶんじゃないかとね・・・。それで、お祖父ちゃんの事を思い出したんだよ。お祖父ちゃんは多くは語らなかったけれど、きっとそうして生きてきたと思うんだ。 だから僕も真似してみようかと思ったのさ。まぁ、お祖父ちゃんのようにはなれないと思うけどね。」

私は少し熱く語る天沢君に西さんの面影を見つけたような気がした。そして、この人は今でも私よりもずっと先の未来を見続けているんだと思った。

「いつ頃オープンするの? 」

「内装だけをリフォームして使うから、来年の今頃にはオープン出来ていると思う。」

「じゃあ、天沢君日本に帰ってくるの? 」

「僕は帰ってこないよ。メインはあくまでもウィーン。今、僕のお店で修業を兼ねて働いてもらっている藤堂君という人がいるんだけれど、腕も確かだから、彼にまかせようかと思っているんだ。」

「・・・じゃあ、天沢君は帰ってこないんだね。」

「いや。これからは時々帰ってくる事になると思う。お店を開いたからって上手く軌道に乗るとは限らないし、日本で開かれる演奏会のサポートの拠点はこちらになるからね。」

「すごいなぁ。もう、天沢君じゃなくて、世界の天沢 と呼んだ方がいいのかしら。」

「いやあ、世界の天沢って、それは言いすぎなんじゃない。」と、言いながらも、少し嬉しそうであった。私は冗談を交えたつもりで言ったけれど、本当に彼の技を世界各地にいるバイオリニストが必要としているのだから、過言ではないのだろう。