フェンネル氏の奇妙な生活

気付いた世界の中の小さな出来事と水彩画と時たま油絵と思いついたことを爺さんが一人語りいたします。

the way we were

2008-03-19 20:36:51 | Weblog
有名な「追憶」だけどメロディだけで歌詞に全く関心がなかった。バーブラストライサンドとロバートレッドフォードの映画のポスターだけ見て内容が分かってしまうようだったから。それから、もう何十年かたった今、はじめて「いい歌詞なんだ」とメロディに負けずとも劣らないメジャーな国のメジャーな歌詞だと感心した。日本なら、マイナー基調だからこういう発想はないだろう。別れた二人が再会してまた分かれていく。「追憶」って日本語のタイトルがすでにマイナー調でこれはこれで素晴らしいんだけどそこでストップするニュアンスが強いよね。歌詞の方は、それがあるから今があるという継続のニュアンスで楽しい思い出ばかりでよかったと慰め詩なんだよね。もしくは、楽しかったことだけ思い出して行きましょうという応援歌なんだよね。お互いそれぞれの人生でがんばろう。そりゃぁ、昔のことだけど、面白くないこともあったけど、そのことは、お互いの心に仕舞って楽しかったことだけ思い出そうってところが僕は好きだな。こう見ると「追憶」ってタイトルが幸せそうに感じるから、日本語って奥が深いのかな。英語もその辺りをねらっているのかな。
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惚れる

2008-03-18 20:12:54 | Weblog
今日2年ぶりに会った人が「知ってましたか?惚れると惚けるは、同じ漢字なんですよ。」と教えてくれた。なるほど心囚われると書くのかと納得。Wise men say only fool rush in but I can't help falling in love with you とプレスリーも言ってたけど後になってみるとおおむね馬鹿だったと思うからこれもまだら惚けの一つなのかもしれないね。恋のために友を失い金を失いってこともあるし惚けた為に家族を失い家を失いってこともある。でも、どちらも恍惚だから本人はいいのかな。後は朧かな。
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左様であるなら

2008-03-17 01:14:53 | Weblog
3月は、巣立ちの季節。古いものとわかれて新しいものと出会うために羽ばたく季節。
「さよなら」は、別れの言葉じゃなくまた会うまでの遠い約束と来生たかおが言ったけどこれは、日本語の意味としては、間違いだね。世界中の「さよなら」という言葉の意味はそうだけど。日本は違う。また、会わないのが日本流なんだ。ドイツ語のアウフビ-ダーシェンは、また逢いましょう。中国語でも再見。フランス語もオーボワールまたあいましょうだ。ロシア語のダスヴィダーニャもそうだ。日本語だけが違う。「さよなら」の元の言葉は、「さようであるならば」だ。これって、続く言葉として、「しかたがない」というのがこない?ここで、きっぱり古いのは捨てて、新しいものへ移りますという宣言なんだ。維新という言葉が好きなように日本人の考え方の基本がここにある。「道徳は東洋、科学は、西洋」として、西洋の優れたところは積極的に取り入れたが心は失わない。いつも、左様であるならばしかたがないと思って接してるから日本人の魂は確固たるものだと思う。西洋の考えが、自分の考えと錯覚してる人が多いけど。そろそろ目覚めよ!
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春曉

2008-03-16 00:55:08 | Weblog
春眠暁を覚えず。諸所にテイチョウを聴くという陽気になってきた。暁って何時ごろだろうあさの6時かな。昔は、朝が早かったから5時ごろかな。寝すぎても、寝不足でも糖尿病になる確立が高いといってましたね。人体とは、不思議なものですね。つまりすべてバランスなんですね。今ごろになって気づきました。人生もまた、バランスの上に成り立っているんですね。それも微妙な。だから、賢い人たちに囲まれて暮らすというのはとっても大事なことですね。とんでもないバカなことをするヒトとは、なるべく付き合わないほうがいいのですね。今ごろ、わかりました。コツコツ努力する人生最近惹かれます。美しい人、美しくない人が最近わかるようになりました。自分の好みは別として。
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2008-03-15 01:32:02 | Weblog
中国のおかげで今ほど食のあり方を考えさせられた事はないんだけど。そもそも食とはナンなんでしょうか。自分の生命を維持するためにというだ大前提がくずれて、生命を維持する為に食わないという現実が一方である。どこかの難民の子供たちに自分達は、スマナイと思ったことがあるのだろうか。突然そんなことが頭をよぎった。健康のために食べ過ぎに注意しましょう。明日の命を繋ぐ為に少しでいいから食べ物を下さい。この量ってヒトシイのですか?食はやはり近場で取れたものを少量いただくのが理に叶ってるようです。
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繋がらない

2008-03-14 01:05:20 | Weblog
パソコンを立ち上げてメールに接続しようとしたら繋がらない。何をどうやってもだめだった。明日になれば繋がるかなと思ってたらやっぱり繋がらない。電話を見に行ったら線が抜けてた。どうして?パンプでした。この頃何でも引きちぎるのできっと電話もひっぱったんだろう。おかげでブログが書けなかったよ。こんなこと結構あるんだよ。やれやれ。
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ペンダント

2008-03-11 19:10:50 | Weblog
雑貨屋さんで見つけた外国の、たぶん東欧のペンダントトップ、どこかしら懐かしかったので買い求めました。鎖は、持ってないし、買うと高いし、ということで蝋引きの糸をかって、それに通しました。首からぶら下げてコットンセーターの上から出して歩いていたら、宝石やさんの前で店の人に「おしゃれですね」と言われた。「昨日買ったんだ」なんて軽口たたきながら通り過ぎた。ボントレビアンいい気持ち。おしゃれっていいな。他人の気持まで楽しくさせるから。だから、さりげなくおしゃれして分かる人に楽しんでもらえればそれでいい。ペンダントは、2本しか持ってないけど2本とも誉められるから、ひょっとしたら僕の趣味はいいのかもしれない。時たま、ウルトラマンのボタンがほしくなるときがあるけど今日は我慢した。
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カモメ

2008-03-10 20:34:37 | Weblog
黄砂混じりの風に梅の花が散って暖かな一日のこと公園の梅の段でノンビリ過ごして家路につくとテレビから「かもめに餌をやらないで」と言うニュースが流れてきた。危ないですからだって。野性だもの危ないのは当たり前じゃないか、こんなことも知らないで動物と接しているんだろうか。野性は危険だから、ある程度距離を持って接しないといけないわけで、それが出来なきゃ野性に近づいてはだめだ。まして、幼い子が手に持って餌をやってるなんて目玉でも耳でも突っついてといってるようなもの。どこかを突っつかれたからといってカモメを追っ払ったりしないでくれよな。僕らは、自然と共存してるんだから。
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5級の仕業

2008-03-09 18:39:35 | Weblog
5級となって初めての日曜日。パンプの様子はどうかなと思ってたら、さすが5級はスケールが違います。朝から、もうエンジン全開。オシメを脱ぎ捨て、座布団やぶって、ストーブに花を突っ込んで、お塩の蓋をなくし、家中のタオルを洗濯機に詰め込んで、リモコンをかじって今も台所でガチャガチャと何かしている。家の中は、凄まじい状況。あばら家と言っていいかな。このタフな時間が4級より長い。さすが、違うもんだ、良く見てるなと審査する人に変な感心をする。一人では、食事も排泄もできないのにこの存在感。人間って何だろうと思う瞬間です。まさしくBeing. Human being.
HumanをなくしてもBeingでありつづける存在なのかもしれない。人の価値とはナンなのだろう。それでも彼女は、いままで信頼にたる存在であった。そのことは、今も変わらない。こう思うと、自分の生き様って大事だね。いかに信頼される人生を歩むかってことどこかで心のよりどころになっている。
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猫柳

2008-03-08 17:12:40 | Weblog
柳というと「やわらかにやなぎあをめる北上のきしべ目にみゆ泣けとごとくに」と啄木の詩が浮かぶように緑ってものを思い浮かべるけど柳って自分とこにあることもしらなかった。猫柳だけど。春の近づく速度にあわせて蕾というのかあの柔らかそうな芽が膨らんでいる。今日、用事でバナナと一緒に訪れてくれていたケアマネージャーの人が「猫柳がふくらんで」と言ってるのを聞いてはじめてそこに柳があったことを知った。木を見てつぶやく、好いもんだなと思った。たった一言ですべてを語るのは日本人の凄いとこだったけどいつのまに長台詞を言わないと理解しあえないようになってしまったのか。テレビのバラエティ番組のせいだと思う。昔の映画やドラマは、セリフは短かった。だけど、それに隠された状況なんか自然と汲み取っていたような気がする。それがなければ、侘び寂びの世界のことは分からないだろう。
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