west side storyが72歳のスピルバーグによってまた作られるってね。キャスティングの発表があったって新聞に出てた。2020年公開予定だって。トニーとマリアは17歳の無名の新人というかコロンビア人の高校生だと。何でも歌唱力で抜擢されたというじゃない。井上芳雄と新妻聖子ばりなのかな。オリジナルの映画が作られて60年ですか。舞台では何度も再演されているんですが映画のリメイクは60年ぶりだそうで。なんとオリジナルでリコだったかなベルナルドの恋人役をやったリタモレノも出てるらしい。86歳だって。今でも聴こえるよなぁ。彼女が歌った「アメリカ」。何だかトランプのGreat America Againがダブるけど。ベルナルド、リフ、トニー、マリア、チコそしてリコ。ジェット団、シャーク団も懐かしい。あれほどカッコいい映画もなかったからね。スピルバーグがどのような演出を見せるか楽しみだなぁ。スピード感溢れる演出になるんじゃないかな。「クール」も聴いてみたいよね。令和のクールをさ。
科学者たちが言うには永久凍土が融けだしたのが予想より70年早いとのこと。ということは彼らは地球が温暖化するってことは昔から分かっていたんだ。それで予想しただけで対策を講じてなかったということかな。それとも「想定外」という「お前もか」かな。とにかく氷は融けだした。逃げ場はないということだ。さてどうするか。大気を自然に戻せば済むことだがこれがほぼ不可能に近い状態。車のco2、工場のco2、街のco2、はたまた牛のゲップまで止めないといけないというのだから、そうすれば何とかなると言われてもなぁ。そこで森林。森林を増やせばいけるんじゃないかと思うんだけど森林伐採が進んでる現状だからなぁ。では、科学者が力を集結してco2を除去する装置を開発するか宇宙から地球を覆うバリアを創るか。とすれば、気象をコントロールするという兵器にすぐしたりして争いのタネになるのだろうな。異常気象は飢饉と水不足、病気の蔓延とかに直結。70年も先に行ってるのかと思うと途方に暮れるね。
Gauginが17歳の時に描いたはじめての水彩画が8万ユーロで競売にかけられた。落札されたのかな?ちょっとそこら辺は曖昧。当たり前のことかも知れないけどゴーギャンと言えども17歳の頃の絵は17歳の頃の絵なんだね。と思いながら見た。まだゴーギャンらしさはどこにもない普通の絵。レジェンドということで価値が出たんだろうね。子供の頃から絵が上手だったのはピカソとかワーズワースとか沢山いるけど彼等から比べると普通の子のような気がする。クラスに必ずいる絵のうまい子くらいかな。でも出発点としてはわるくない。この絵があったからあのゴーギャンの独特の絵があったのかなと思わせる絵ではある。まぁ世に認められてる人は子供の頃から才能に溢れていたということか。そんな人が並大抵の努力じゃない努力を重ねていくんだもの絵は奥が深いものなんだ。誰にも描けるけどね。誰でも描けない。絵は何十年何百年の時を経て僕らの前に姿を現してくれるから17歳のゴーギャンにも会えることができ彼らの筆遣いを学ぶことができるんだけど絵の技術は今の絵描きさんがもうそこら辺は凌駕してると思うけど本質にはねまだまだ到達できてないんじゃないかな。本質って何だと言われても分からないんだけど。モヤモヤとして。それでもやはり絵は楽しいよね。水彩画はもう少し絵画での地位が上がってもいいのではと密かに思っている
アフリカのナミビアでは水不足らしい。象さんが困るだろうなと漠然と思っていた。本当はもっと小さな動物の方がもっと困るんだよね。キャパがないから。そんなことも忘れてただ漠然と他人事として見てる。自分の身に降りかからない限り全部漠然と傍観。これが普通の姿なのかな。普通であってはいけないんだろうけど。まぁそんなところじゃないですか。そんな異常気象に誰がしたんですか。というところに思い至らない。思い至らないから尻に火がついてから騒ぎ立てる。すべてが不足のなせる業と気づくのに時間がかかる。気づいた時は遅すぎる。「ババともグループではじかれて」と同級生。助けに乗り出すセッちゃん。「わたしがやっちゃお」とばかり意気込む。「あんた顔がえいきイジメられたがよ」と慰める。70になって顔もクソもないと思うけどと失笑。それでも気になるらしく絵画教室のみんなにしゃべる。セッちゃんだけに相談した同級生のプライバシーは全く保護されてないということが分かってない。知らぬは同級生だけ。それでも誰かに話したことでストレスは多少軽くなったのかな。共感不足を解消できてよかったのかもしれない。オバぁの喧嘩は猫も食わない。同級生も何故そんなグループと付き合わねばならないのかオレには分からない。世の中何かが不足すればイザコザが起こるのだろう。
Don Giovanniがオペラ館のガルニエに戻って来たとフランスの新聞に出てた。今もドンジョバンニ、モーツアルトなんだ。と思うと芸術は永遠なんだね。オレは門外漢だからオペラは何も知らないがドンジョバンニというタイトルだけは知ってる。なんでもドンファンのことで女にもてて剣の腕も立つ男の話だったと思う。夜這いに行った娘のところでそこのオヤジに見つかり争いになってそのオヤジを殺して仇と狙われ、捨てた女に恨まれそれでも放蕩の限りを尽くし最後は地獄の釜が開いてその中に引きづりこまれる。そこで残ったものはめでたしとなる物語だったと思う。ナント軽率な男の物語がこんなに永遠に続くとは。やはり、庶民の憧れでもあるんでしょうかね。このドンファンの生き方も。放蕩も限りを尽くしてしまえば疲れるだけだと思うけどと凡人は思うのですがそうでない人もいるからなりたっているんでしょうね。いくら自分勝手ないい思いをしたとしても最後は地獄の釜ですからね。やはりそういうのって人は許してくれないのですよ。でも破壊と回復の物語でもありますからそこら辺がご愛敬というのでしょうかね。人間なんてちっとも進歩してないと思いますね。それでも今度のジョバンニは若者仕立ての新解釈でやると書いてました。やはりオペラの定番ですからウケるんでしょうね。ミュージカル仕立てのヤツもあったのでしょうか?よく知らないけど。と久しぶりのクラシックでした。
madonnaがI wanted to be somebody -because I felt like a nobodyと言ったとかの記事のタイトルに惹かれた。somebody nobodyまるで村上春樹の小説のようだねと思ったから。ただそれだけのことだけどナンカあるのかなと記事をめくるとMadame Xのプロモートだった。売れてるからやっているのか売れないからやっているのか分からないがこのところ毎日のように記事が出ている。beautiful lifeと毎日聴いているような。beautiful lifeとふつうのlife とのはざまにいったいなにがあるんだろう。それはsomebody とnobodyとのはざまでもあるんだろうか。その隙間に紛れ込んだ時はじめてその距離が分かるのだろうか。とちょっと考えてみた。プロモーションビデオが6分ちょっとあったから。古代ローマの時代なのかな?黒人の青年が火炙りにされているからその恋人だろうか彼女は牢獄に繋がれている。教会の牧師・・・。青年が叫ぶ、恋人が叫ぶ、その声もむなしく燃え落ちる青年・・・。beautiful lifeの歌が流れる・・・・。マドンナも回帰なんだろうか。というより時代が回帰なんだろうそんな感じがする。時代回帰か自己回帰かそれは分からないけど回帰すれば何かが見えてくるのかもしれない。歴史を間違わずに歩めばの話だが。
もうそろそろ梅雨だと思うけどサラッとして気持ちいい日が続いている。どうなっているんだろうね日本の季節は。昨日だったか一昨日だったか女子サッカーのワールドカップでさアメリカがタイに13-0で勝った試合。そうモーガンが5点もシュートを決めた試合。イギリスの新聞では「無慈悲なアメリカ、ひ弱なタイに容赦ない攻撃」とかのニュアンスで載ってた。アメリカって酷い奴だ、そこまでやらなくてもと思って読んだ。アメリカの新聞には「タイのチームに敬意を払って手を抜くことなく一生懸命戦った」とのニュアンスで載ってた。アメリカってスポーツマンシップが行き届いているねと感心した。二つのニュース、事象は同じなんだけど書き方で受け取り方がこんなにも違う。マスコミからしてそうなんだからこんなこと日常茶飯事のことなんだろうね。事象には二つの面がある。どちらが真実か。よく見極める必要がある。さて、ノルウエーと日本のタンカーがホルムズ海峡で被弾の件、アメリカはイランのせいだと決めつけ非難。真相はわからない。こうやって戦争は作られていくものらしいということが分かった。二つの面のどちらかを選択することで。ということか。
明日は明日の風が吹く。とばかりに生きてきたけど最近は明日について考えたこともなかったことに気づいた。年取るとみんなこうなのかもしれないけど「明日が約束されない」となると最早明日について思考は止まるのだということを発見した。「じゃぁ、また明日」ってこの間まで言ってたのにね。もう明日は死語なのかもしれない。と自分の辞書から「明日」を削除する。「将来」はずっと前に削除したから。でもこれってマイナスイメージじゃないんだ。もっと生が身近になって制御しやすいという現実がそこにあるから。今日一日のことのみ考えて生きるってのもなかなか面白い。すべてがミニマムになってね。伸びた顎鬚を触るように何でもがすぐに確かめられて。すべてがクリアの中で生きている。こんな感覚、過去に合っただろうか。幼年期の幻想と現実の間に生きてるような感覚を取り戻したかのようにも思える。今全てが面白くすべてが笑える。狭い部屋で手を伸ばせば必要なものに手が届くと言えばいいのかな。ひょっとして生活のサイズダウンがもたらした恩恵なのかな。明日を思い煩うことなく生きるっていうのも意外といいもんだね。とは申せ、まだどこかでje remet le hautという意識は堅持しているのだが・・・・。
40e anniversaire de mort de Jhon Wayneという記事がフランスの新聞に載ってた。フランス人ってカーボーイが好きなんだね。うれしくなって記事をめくった。映画は西部劇、日本映画は時代劇と思っている俺にとってはジョンウエインってとっても身近なスターだったからフランスがジョンウエインの没後40年を記念してジョンウエインの映画を上映だなんてうれしさ100倍。ただ題名がフランス語でやられるとピンとこないけどね。「la chevauche' fantastique」と言われてもなぁ。映画見たら「駅馬車」だった。ジョンウエインは72歳で1979年の6月11日に亡くなったんだ。オレのオヤジはそのジョンウエインに似てて大男でさ同じく72歳で5月に亡くなったんだ。だからジョンウエインを見るとオヤジとダブって見えて懐かしいというか逞しい男に守られていた子供時代がよみがえって「古き良き時代」の思い出に浸れるんだ。あの頃の時の流れのゆったりとした速度が今欲しいと思う。フランスはひょっとして今それを取り戻そうと思ったのかな。そうであったらいいけどね。赤い河、黄色いリボン、リヴァティバランスを撃った男、リオ・ブラボー、勇気ある追跡・・・・何回見てもワクワクするね。日本ではやらないのかな?やらねぇだろうなみんな生き急いでいるからな。そんなに急いでどこへ行くってか。
あれから2ヶ月たったのか。カズカズの写真を撮ってから。絵を描く約束だからすぐ描こうと意気込んでいたけど線画を描いた時に違うと感じたものがあった。顔の形を似せるのではなく「僕がその人に抱いてるイメージを」と思っていたので「これじゃなくて」と思いながらも「じゃぁ何?」という答えもないままもどかしさに戸惑ってました。「写真には写らない美しさがあるだろう」まさにリンダリンダなんだけど。それを表現できなくて。美大出身のバジルに聞いたら「美人は描くのがむつかしいよ」と言われた。きれいな字も真似るのは難しいからそれはそうだろうなと納得。カズカズは美人だからなとブツブツ。他の絵を2枚3枚と仕上げるうちに突然イメージが舞い降りてきてデッサンを3~4枚描いた。「オレはこんなイメージを持ってたのか」と自分に語りかける。デッサンを見ながら「わりといいね」なんてほくそ笑んでいる。これを絵画教室に持って行くとデッサンの狂いより先に「この人誰?」から始まって根掘り葉掘りのヒマつぶしの質問攻めに合うから慎重に事を運んで答えを用意しときゃなきゃいけない。オーちゃんに見てもらって助言をしてもらいたいだけなんだけど。おバアはヒマだからすぐ集まって来て「あーだこーだ」とうるさいんだ。との理由で絵画教室に持って行くのを遅らせてるがいよいよ持って行く時が近づいてきた。幸い7月に須崎で初めての展示があるので忙しくしてる今がねらい目かな。デッサンの修正もいるけど早くも背景をどうしようとか肌の色は影の色はと楽しみながら悩んでいる。でも大事なのはイメージなんだ。イメージって他者によって存在するものだから。ちょっと村上春樹ふうに言ってみた。かっこよすぎたかな。