自宅を出る5時半は真っ暗、
今年は市街地への「熊の出没が多く」受傷3名迄報じられている。
玄関ドァを開けてそっと注視、
10分ほどの徒歩で行ける禅堂迄の闇は怖い、車で禅堂へ。
まだ午前6時10分前なのに女性3名が着坐、老師のお話が始まっている。
静かに入堂、時計・メガネを外し素足、
自分の「坐蒲(ざぶ)」の位置で合掌低頭、向き直って老師と相手に対して対座問訊、
そして着座。
老師のお話は続く、
(このころ午前6時になったのでしょう、今朝は坊守さん(老師婦人)が撞かれる梵鐘の音ゴーン、老師様とは違った趣。)
「こうして座っているのは、どう意味があるのでしょう」
それぞれの目的は違うのでしょうけれど、今はそのことを考えず、
道元禅師様が次のように導かれています。
ここにいるすべての人は、両親という親から頂いた個体として存在している、
生き物としての私たちの存在は、どのような私なのでしょう。
生きていく長い人生には、食欲・物欲その他多くの欲望をもっている。
それぞれの一つでも多くの望みを叶なえたい思いを持ち続けているはず、
自分だけが多くを獲得すると、限られたものは他の人が得るものは少なくなる、
その結果は、自分だけは良かった、相手には哀れみなど思いがはせる、
長く生きている私らには「それでよいのだろうか」と思うはず。
そして、そんな思いを捨て、心穏やかに過ごしたい願いが生じます、
そのことは、自分だけの「自利」、他人を思いやり「利他」、
すなわち「自利・利他の心」それの調和のとれた姿、
そんなことが納得できませんか、
今までがむしゃらに頑張る自分を生活の中で、
今一人の自分の心が見えることになる。
「今まで自分ことだけで生きたと同時に、他人の事を思う、
そんな自分を知る、知りうる、なりたいものだ、
と信することが基本です。」
無言で座り、整姿・整息・整思で静かな世界に入っていく、
それから始まったのが仏の教え。
そのありよう信じ表す業、それが道元禅師様が諭す坐禅です。
坐禅は、至らない私が同時に仏心を持ち、他人を思いやる喜び、
これを確信して実行していく姿を教えてくださった。
何事も自利だけでなく利他の心を持つ私でもあることを
信じて信仰・実行する。
仏という名の知恵として存在するのが物像の姿でもある。
今日も、こうして健康にいられる、
心静かに今しばらく座りましょう。
そして無言の20分、合計1炷40分、小鐘1つで終了。
坐後お茶・菓子を頂いたのお話会の後、お開きでした。