パソコンで文章を書けば消しゴムを使わなくなった。その反動は大きく漢字は読めてもいざペンや筆を持つと字そのものが正確に浮かばず書けなかったりと記憶の薄れを感じることが増えた。パソコンを使って書いても、使う言葉の漢字や意味を間違えていないかと辞書、と言っても電子辞書を開き確認はしている。それでも使い間違いを指摘されることはある。
書いては消していたパソコン導入前の細かいことは思い出せないが、業務合理化にレスペーパーなどの掛け声も含めてPCは瞬く間に職場の机上にその存在を示した。故障させたらという恐れはいつの間にか消え、入力して、おかしいと気づけばすぐに削除し書き換えできる便利さは戦力になった。
写真も同じ、マイカメラも60年近くなるがカメラの進歩には追い付けない。モノクロの頃はファインダーをのぞきながら写真の出来上がりを頭に描きながら考えてシャッターを押した。カラーになってからは尚のこと慎重だった。ところがフィルムがメモリーに変わり、撮ったその場で取捨選択できるようになり、取り換えという修正が習性になり、兼好の徒然草風に言うならば「この1枚に定むべしと思え」を忘れている。
そんな調子で撮り込んだが気にいらない「不要な部分を自然に消す方法」がある。初めてだが試しに電線の消す方法を試みた。満足ではないが確かに、薄い跡は残っているが消えた。練習すれば上手くなるそうだが、素人ならそこまでは必要ないかもとおもう。それよりも電線の地中化が進んでほしいが、地方では遠い夢だろう。