10月22日の夜、福島文化センター大ホールにて、
「生業を返せ! 地域を返せ!」福島原発訴訟原告団・弁護団の主催で『銀河鉄道の夜』を上演しました。
「今年の1月に生業訴訟と関わり始めてまだ一年も経たないうちに、こんな日を迎えることになるとは……」
喜びと驚きをない交ぜにした、劇団員の正直な気持ちです。
大地震と大津波に加えて放射能汚染という複合災害に見舞われた現地に足を運び、人に会って話を聞くうちに、
私たちにとって福島と関わることは、どこかしら自然な、当たり前のことになっていきました。
そして、裁判の傍聴に行って報告集会で歌を歌うだけでなく、
やはり自分達の芝居を福島に届けたいと思うようになりました。
しかし、いざ上演が決まると、天災と人災の不条理に引き裂かれてある現地の人たちに、
本当に向かい合うことができるのか、大きなプレッシャーを感じてもきたのです。
そのせいか、この日は役者同士でお互いの緊張を感じあいながらの舞台となりました。
その緊張は力みにもつながりましたが、
一瞬一瞬を強く深く感じ取ろうとする瞬発力も生んだように思います。
「場面ごとにこれまで福島で見たり聞いたり感じたりしてきたことがフラッシュバックする1時間半でした」
という永野愛理の感想に頷けるところがありました。
終演後、弁護団事務局長の馬奈木さんは、
「本当の幸いとはなにかという問いかけを持つ宮澤賢治の銀河鉄道の夜は、
生業訴訟をたたかう私たちにとって、ぴったりの作品だったと思います。」
と言われました。
語り手役の松下重人は挨拶の中でこう言いました。
「“ 思うことはねうちになる。かたちになる。”変えようと思えば世界は変えられる。
そんな宮澤賢治さんの世界を、どうしても福島のみなさんにお届けしたかったんです。」
それを聞きながら客席のあちこちで頷く人の姿が見られました。
舞台セットの後片付けは、
東京演劇アンサンブルの劇団員と生業訴訟原告団・弁護団の方たちで一緒に行いました。
原告団長の中島孝さん自ら重い装置を持ち、
トラックに乗り込んで汗だくで働く姿に劇団員も大盛り上がり。
原告団事務局次長の服部祟さんのノリのいい仕切りもあって、
あっという間に終わりました。
こんなに楽しい後片づけは久しぶりでした。
深夜の交流会で、服部祟さんから報告がありました。
「今日は700人を越える方々に来てもらいました。
アンケートは150も集まっています。
普段一人で出てくる父ちゃんたちが、今日は母ちゃんを連れて来てくれた。
見終わって出てくるみんなが、いい顔をしていたのがよかったです。」
また、原告団事務局長の服部浩幸さんは、
「身内に見られると思うと緊張するものです。
アンサンブルの皆さんが緊張したということは、
もう皆さんと私たちの関係が他人ではない、
一線を越えたということです(笑)」
と言って下さいました。
馬奈木さんは、福島公演の意向を劇団から打診されてからも、
原告団の方たちにそれをなかなか言い出せなかったといいます。
「原告団がどれだけのことをしなければいけないかを、私なりに考えたので。」
大震災と原発事故で大きく揺らいだ日々の暮らし。
国と東電を訴えた裁判継続のための様々な活動。
その中で演劇公演という大きなイベントを準備し、
成功させることがどれほど大変かを、馬奈木さんは気遣われたのだと思います。
「今日ほど一秒一秒が愛おしく思えたことはありませんでした。」
「みんなが誰かを連れて来てくれた。この生業訴訟が広がりを持ったのです。」
私たち東京演劇アンサンブルと生業訴訟の出会いを取り持って下さった馬奈木さん、
公演の準備に奔走して下さった二人の服部さんはじめ、
原告団や関係者の皆さん、
会場に来てくださった700人もの方々、
そして見には行けないが協力したいといってチケットを買って下さった多くの方たちに、心からお礼を申し上げます。
皆さんのおかげで、とても得難い時間を過ごすことができました。本当にありがとうございました。
ある原告団の方がこう言われました。
「私たちのたたかう姿、声が、東京演劇アンサンブルの演劇につながる。そう思って頑張ります。」
東京演劇アンサンブルの演劇が、生業訴訟の方たちの運動、生き方につながる―――そう思ってもらえるように、こちらが頑張らねば。
そう思いました。
生業訴訟原告団事務局長の奮闘記、福島原発事故被害弁護団のFacebookで、この日の写真をアップしていただいております。
どうぞご覧下さい。
翌日、東京への帰り道、
私たちは福島の公演にも駆けつけてくれた須賀川の農家、
樽川和也さんとお母さんの美津代さんのお宅に立ち寄りました。
大勢で押し掛けたにもかかわらず、あたたかく迎えていただきました。
樽川さんの住む大桑原という集落は、
緩やかな起伏に富んだ、美しいところです。
粘土質の土は稲作に向いていて、美味しいお米が育つそうです。
事実、差し入れにいただいた新米のおにぎりは、大粒でもちもち、
冷めても実に美味しいおにぎりでした。
ひと仕事終えた心地よい疲労感の中でお茶をいただきながら、楽しく過ごしました。
初めてここを訪れたのが今年の3月。
6月には和也さんに劇団主催の憲法集会に来ていただき、10日ほど前には稲刈りのお手伝いにも何人かで伺いました。
その折に、こうしてお付き合いの続く奇妙なご縁に、
「父ちゃんが引き合わせてくれたんだァ。みんなで原発なくせって。」
と言った美津代さんのことばが忘れられません。
「サウザンクロスの彼方で聞こえた父が息子にあたえる歌」
息子よ
父と遠く離れて
おまえは さびしいか
けれど息子よ
父の居ない食卓を
さびしがるな
父の居ない日曜の朝を
さびしがるな
息子よ 私も
かたぐるましたおまえを
夢みることをやめよう
君はおさない
父の仕事がわかるには
おさなすぎる
けれど息子よ
お前の小さな手で
こぶしをつくれ
やがて父をのりこえる
日がすぐ来る
息子よ 私は
その日につづく闘いを
今 闘っているのだ
君は自分の価値(ねうち)を
ひとりでみつけ出せ
君と僕と腕を組める日は
もう来ないのだ
息子よ 息子よ
遠く離れたところで
私はお前を
呼んでいる
広渡常敏 作詞
林光 作曲
原発事故のあと自死された和也さんの父、久志さんは、
原発の危険性や日本の食料自給率の低さを早くから憂えて、
先の読める人だったそうです。
舞台の終盤で車掌によって歌われるこの歌は、
和也さんの胸にどのように届いたのだろう。
訊ねてみたいと思いながら、とうとう最後まで言い出せずに手を振って別れました。
文責:竹口範顕
「生業を返せ! 地域を返せ!」福島原発訴訟原告団・弁護団の主催で『銀河鉄道の夜』を上演しました。
「今年の1月に生業訴訟と関わり始めてまだ一年も経たないうちに、こんな日を迎えることになるとは……」
喜びと驚きをない交ぜにした、劇団員の正直な気持ちです。
大地震と大津波に加えて放射能汚染という複合災害に見舞われた現地に足を運び、人に会って話を聞くうちに、
私たちにとって福島と関わることは、どこかしら自然な、当たり前のことになっていきました。
そして、裁判の傍聴に行って報告集会で歌を歌うだけでなく、
やはり自分達の芝居を福島に届けたいと思うようになりました。
しかし、いざ上演が決まると、天災と人災の不条理に引き裂かれてある現地の人たちに、
本当に向かい合うことができるのか、大きなプレッシャーを感じてもきたのです。
そのせいか、この日は役者同士でお互いの緊張を感じあいながらの舞台となりました。
その緊張は力みにもつながりましたが、
一瞬一瞬を強く深く感じ取ろうとする瞬発力も生んだように思います。
「場面ごとにこれまで福島で見たり聞いたり感じたりしてきたことがフラッシュバックする1時間半でした」
という永野愛理の感想に頷けるところがありました。
終演後、弁護団事務局長の馬奈木さんは、
「本当の幸いとはなにかという問いかけを持つ宮澤賢治の銀河鉄道の夜は、
生業訴訟をたたかう私たちにとって、ぴったりの作品だったと思います。」
と言われました。
語り手役の松下重人は挨拶の中でこう言いました。
「“ 思うことはねうちになる。かたちになる。”変えようと思えば世界は変えられる。
そんな宮澤賢治さんの世界を、どうしても福島のみなさんにお届けしたかったんです。」
それを聞きながら客席のあちこちで頷く人の姿が見られました。
舞台セットの後片付けは、
東京演劇アンサンブルの劇団員と生業訴訟原告団・弁護団の方たちで一緒に行いました。
原告団長の中島孝さん自ら重い装置を持ち、
トラックに乗り込んで汗だくで働く姿に劇団員も大盛り上がり。
原告団事務局次長の服部祟さんのノリのいい仕切りもあって、
あっという間に終わりました。
こんなに楽しい後片づけは久しぶりでした。
深夜の交流会で、服部祟さんから報告がありました。
「今日は700人を越える方々に来てもらいました。
アンケートは150も集まっています。
普段一人で出てくる父ちゃんたちが、今日は母ちゃんを連れて来てくれた。
見終わって出てくるみんなが、いい顔をしていたのがよかったです。」
また、原告団事務局長の服部浩幸さんは、
「身内に見られると思うと緊張するものです。
アンサンブルの皆さんが緊張したということは、
もう皆さんと私たちの関係が他人ではない、
一線を越えたということです(笑)」
と言って下さいました。
馬奈木さんは、福島公演の意向を劇団から打診されてからも、
原告団の方たちにそれをなかなか言い出せなかったといいます。
「原告団がどれだけのことをしなければいけないかを、私なりに考えたので。」
大震災と原発事故で大きく揺らいだ日々の暮らし。
国と東電を訴えた裁判継続のための様々な活動。
その中で演劇公演という大きなイベントを準備し、
成功させることがどれほど大変かを、馬奈木さんは気遣われたのだと思います。
「今日ほど一秒一秒が愛おしく思えたことはありませんでした。」
「みんなが誰かを連れて来てくれた。この生業訴訟が広がりを持ったのです。」
私たち東京演劇アンサンブルと生業訴訟の出会いを取り持って下さった馬奈木さん、
公演の準備に奔走して下さった二人の服部さんはじめ、
原告団や関係者の皆さん、
会場に来てくださった700人もの方々、
そして見には行けないが協力したいといってチケットを買って下さった多くの方たちに、心からお礼を申し上げます。
皆さんのおかげで、とても得難い時間を過ごすことができました。本当にありがとうございました。
ある原告団の方がこう言われました。
「私たちのたたかう姿、声が、東京演劇アンサンブルの演劇につながる。そう思って頑張ります。」
東京演劇アンサンブルの演劇が、生業訴訟の方たちの運動、生き方につながる―――そう思ってもらえるように、こちらが頑張らねば。
そう思いました。
生業訴訟原告団事務局長の奮闘記、福島原発事故被害弁護団のFacebookで、この日の写真をアップしていただいております。
どうぞご覧下さい。
翌日、東京への帰り道、
私たちは福島の公演にも駆けつけてくれた須賀川の農家、
樽川和也さんとお母さんの美津代さんのお宅に立ち寄りました。
大勢で押し掛けたにもかかわらず、あたたかく迎えていただきました。
樽川さんの住む大桑原という集落は、
緩やかな起伏に富んだ、美しいところです。
粘土質の土は稲作に向いていて、美味しいお米が育つそうです。
事実、差し入れにいただいた新米のおにぎりは、大粒でもちもち、
冷めても実に美味しいおにぎりでした。
ひと仕事終えた心地よい疲労感の中でお茶をいただきながら、楽しく過ごしました。
初めてここを訪れたのが今年の3月。
6月には和也さんに劇団主催の憲法集会に来ていただき、10日ほど前には稲刈りのお手伝いにも何人かで伺いました。
その折に、こうしてお付き合いの続く奇妙なご縁に、
「父ちゃんが引き合わせてくれたんだァ。みんなで原発なくせって。」
と言った美津代さんのことばが忘れられません。
「サウザンクロスの彼方で聞こえた父が息子にあたえる歌」
息子よ
父と遠く離れて
おまえは さびしいか
けれど息子よ
父の居ない食卓を
さびしがるな
父の居ない日曜の朝を
さびしがるな
息子よ 私も
かたぐるましたおまえを
夢みることをやめよう
君はおさない
父の仕事がわかるには
おさなすぎる
けれど息子よ
お前の小さな手で
こぶしをつくれ
やがて父をのりこえる
日がすぐ来る
息子よ 私は
その日につづく闘いを
今 闘っているのだ
君は自分の価値(ねうち)を
ひとりでみつけ出せ
君と僕と腕を組める日は
もう来ないのだ
息子よ 息子よ
遠く離れたところで
私はお前を
呼んでいる
広渡常敏 作詞
林光 作曲
原発事故のあと自死された和也さんの父、久志さんは、
原発の危険性や日本の食料自給率の低さを早くから憂えて、
先の読める人だったそうです。
舞台の終盤で車掌によって歌われるこの歌は、
和也さんの胸にどのように届いたのだろう。
訊ねてみたいと思いながら、とうとう最後まで言い出せずに手を振って別れました。
文責:竹口範顕