a letter from Nobidome Raum TEE-BLOG

東京演劇アンサンブルの制作者が、見る、聞く、感じたことを書いています。その他、旅公演や、東京公演情報、稽古場情報など。

福島原発 生業訴訟見学

2015-10-04 00:37:12 | 東京公演
9月29日~30日。
東京演劇アンサンブルのメンバー15人で福島原発 生業訴訟の見学ツアーをしました。
今年の1月から数えて5回目のツアーです。

人間の尊厳を求めて国と東電を相手にたたかう人たちに、
私たち東京演劇アンサンブルを引き合わせてくれたのは、
この訴訟の弁護団事務局長を務める馬奈木厳太郎さん。
29日はその馬奈木さんのガイドで立入制限区域へ行きました。



福島市内から浜通りの浪江町に抜ける国道沿いを走る車窓から見えるのは、
人のいない荒れた田畑、人のいない家々、人のいない学校。
「青いリボンを結んだ棒が立ててあるのは除染が終わった印、
赤いリボンならまだ除染が終わっていないということ」と、
馬奈木さんが教えてくれる。
中には突き立てた棒から棒へ渡した紐に、
狂ったように何本もの赤いリボンを結んであるところもある。
まるでこれからお祭りでもあるのかといったふうだが、
事情を知って見るこちらの目には、
ただただ異様に映る。

原告団副団長の紺野さんのお宅を訪ねた。
2007年に建てたその家はまだ木が新しく、
2011年の地震でも殆んど傷まなかった。
しかし、線量が高いので勿論住むことは出来ない。
玄関の中に掛けてある月間の予定表には、
2011年3月のスケジュールがそのまま残されている。
今年1月に伺った時から8か月分の埃が床に降り積もっているように思えた。
大熊町からよく遊びに来ていたというお孫さんは県外へ避難し、
紺野さんは現在、
福島市内で暮らしている。
前回同様、黙って案内してくれる紺野さん。
その胸のうちはどのようなものなのだろう。


そこから双葉町の請戸地区へ移動。
第一原発から5キロ程のところにあるこの地区は、
高線量のために除染が進まず、
1月に来たときには緑のない一面の泥地に、
流されてきた漁船が何艘も転がっていたが、
今はほぼ片付けられ、
奇跡的に残った家が数軒と請戸小学校が草原の中に立つばかり。
小学校の敷地では作業服姿の人たちが動いていた。
解体作業が始まろうとしているのかも知れない。





「この小学校の生徒さんたちは、前日に避難訓練をしていたため、全員が無事避難しました」と馬奈木さん。
人は避難させられても、原発は避難させられない。
再稼働?
なに考えてんだ?

夕刻、原告団長の中島さんをお訪ねしました。
中島さんは相馬市内で中島ストアーを経営されています。
この日の私たちの昼食は中島さんが自ら届けて下さった中島ストアーのお弁当でした。
一日300食出るお弁当は中島ストアーの主力商品。
私たちが伺ったのはちょうど夕方のお買い物のラッシュアワーで、
たくさんのお母さん方で賑わっていました。
そんな時間帯にも拘らず、
中島さんは私たちを喜んで事務所へ招いて下さいました。



震災後、夜になって明かりのつく家が、
一軒、また一軒と減っていくのを見て不安だったという中島さん。
「でも津波にやられなかったうちの店は、
この辺りの食料供給基地だったんだ。
周りには一人暮らしの老人もいる。
逃げるわけにはいかなかった。」
凛としたものを内に湛えて、
「俺は魚屋だよ」と朗らかに笑っている中島さん。
この人の魅力を語る言葉を持たないことがもどかしい。
でも、この人が団長さんだから人が集まってくるんだと思う。

夜は福島市内に戻り、記者レクというものに立ち合わせてもらいました。
報道機関の記者の人たちに語る馬奈木さんのことばは熱を帯びていて、
翌日の裁判がこの訴訟の山場であることを感じさせました。
報道陣の馬奈木さんへの質問が終わると交流会となり、
劇団員も記者の方たちや原告団事務局長の服部さん、
先月の公演『どん底』のアフタートークに来ていただいた白井聡さんらと日付が変わるまで交流させてもらいました。
その中にはおしどりマコさん、ケンさんのお二人もいました。
「生業訴訟に関わりながら生業をなくしつつあります」と、
自らの境遇を笑い話にしてしまうお二人ですが、
吉本興業に籍を置きながら原発に関するジャーナリストとしても活動するには、
なかなかの苦労があったことも教えていただきました。
お二人は日本各地だけでなく、
ドイツにも講演や取材に訪れ、
文字通り東奔西走の日々を送っています。


30日、福島地方裁判所で第14回期日を傍聴しました。
この日はリスク心理学の専門家、
同志社大学教授の中谷内一也さんへの尋問が原告、被告(国と東電)双方から行われました。
中谷内さんは、
人がある出来事に対して「恐い」「不安だ」と感じる心の働きをとても分かりやすく説明されました。
「年間20ミリシーベルト以下なら大丈夫。もう帰ってきていいよ。」という国や東電のことばに対して、
「いや、それでも恐い。不安だ」と感じたとしても何の不思議もない、
ということを主張されたのです。
言ってみれば当たり前のことを言われたわけで、
国や東電の代理人だって頭のいい人たちなのにそんなことも分からないのか、
と言いたくなりますが、
当たり前の事でも立証しなければならないのが裁判というもののようです。
国と東電の反対尋問は馬奈木さんいわく、
「質問すればするほど、こちらの主張を補完する結果に」なりました。
中谷内証人の尋問は、原告側の圧倒的優位の内に終わりました。

この日の裁判の山場は、このあとの原告弁護団の弁論にありました。
裁判はこれから被災者である原告の方たちの本人尋問へと移っていくことになるのですが、
被災地の様子を裁判官が直に見た上で、
原告本人の話を聞き、
判決を下すべきだというのが弁護団の考えです。
ところがこの日、弁護団が何度食い下がっても、
裁判官は現地を検証すると明言しませんでした。
閉廷後に行われた裁判官・原告弁護団・被告代理人の三者協議の場で裁判官は、
次回の期日(11月)までには回答します、
といったそうですが、予断を許さない状況です。

福島県立文化センターで裁判の報告集会が行われました。
傍聴出来なかった人たちにもわかるように、
馬奈木さんから裁判とその後の三者協議の模様が伝えられ、
その後ゲストの方たちからも発言がありました。
政治学者の白井聡さんは言われました。
「大きな講演会じゃなく、小さな学習会でも私を呼んで下さい。できることはなんでもやります。」
映画『大地を受け継ぐ』の映画監督の井上淳一さんも、
「役に立つのであれば、この映画をどんどん使って下さい。」と原告の皆さんに呼び掛けられました。

私たち東京演劇アンサンブルは今回も歌を届けることにしました。
ソル・チャンス作詞、林光 作曲の「石ころの歌」です。

力いっぱい投げつけた
石ころのように
やつら目指して
突き当たって行けば
石ころ
すべて火花となるのだ


この歌を歌いながら、会場にいる原告の皆さん一人一人が火花となった石ころなのだと思いました。

最後に原告団の中島団長が挨拶されました。
「私たちは対立を恐れてはなりません。
岡田尚弁護士はこう言います。
“対立こそが事柄の本質を明らかにすることであり、そこから相互の理解や和解へ至る道筋がある”
たとえ相手が国でも、我々は言わなければならんのです。
原発はいらない。
戦争するな、と。
誇りをもってこの闘いを続けましょう。」

生業訴訟は原告団4000人を数える大きな訴訟です。
しかし、事の重大さに見合うだけの注目を集めているとは言えないのも確かです。
国や東電が踏みにじろうとしているのは原告の人たちだけの尊厳ではありません。
日本に暮らす私たち一人一人の尊厳なのです。
これは原告の人たちだけの闘いではありません。
私たち一人一人の闘いなのです。
一人でも多くの方の目が福島の方たちの闘いに向けられることを願います。


生業訴訟については「生業を返せ、地域を返せ!福島原発事故被害弁護団」のホームページFacebook
「生業訴訟原告団 事務局長奮闘記」Facebookなどをご覧下さい。


文責:竹口範顕