講義でも使う・使える話題なので記録:
いまどき、古典的な差別なんかあるかあ?とは思うくらいにはリベラルのつもりの私だが、まあ現実には差別心でろでろ・誰かを引き摺り落としたい欲望でどろどろの人はいるものだなあと勉強した私でもあり、差別への配慮は必要であり続けるよなあとも思う。
が、誰もを”平等に”扱うべきだとする均一な対応を追求した結果、「みんな」からあるべき配慮が抜け落ちて、こんなザマになったかもなあ、とも思う今日この頃。
下手すると色盲の存在を知らずに成長したひととか、結構いるんじゃね?的な。
そしたら、どのくらいの配慮をすべきなのか、とかもなかなか考えられない・想像できない・対応できない。
私は数人知っているので、その経験の限りでは、よほどの強度でなければ、ホワイトボードへの板書に配慮はまあまず要らないというくらいのアタリをつけるが。
大阪芸術大学の車内広告が緑地に赤字をやらかしていて、私にはまったく読めません。「うちは芸術大学だけどカラーバリアフリーデザインは教えていません」というメッセージになっているので、直したほうが良いと思います。
— Hiroyasu Kamo ((φ→ψ)→φ)→φ (@kamo_hiroyasu) 2018年7月18日
いまどき、古典的な差別なんかあるかあ?とは思うくらいにはリベラルのつもりの私だが、まあ現実には差別心でろでろ・誰かを引き摺り落としたい欲望でどろどろの人はいるものだなあと勉強した私でもあり、差別への配慮は必要であり続けるよなあとも思う。
が、誰もを”平等に”扱うべきだとする均一な対応を追求した結果、「みんな」からあるべき配慮が抜け落ちて、こんなザマになったかもなあ、とも思う今日この頃。
下手すると色盲の存在を知らずに成長したひととか、結構いるんじゃね?的な。
そしたら、どのくらいの配慮をすべきなのか、とかもなかなか考えられない・想像できない・対応できない。
私は数人知っているので、その経験の限りでは、よほどの強度でなければ、ホワイトボードへの板書に配慮はまあまず要らないというくらいのアタリをつけるが。
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