空野雑報

ソマリア中心のアフリカニュース翻訳・紹介がメイン(だった)。南アジア関係ニュースも時折。なお青字は引用。

みてたきじめも(2013-10-20)

2013-10-20 20:32:44 | Weblog
読売新聞 東北大教授「千葉、滅びろ」とつぶやく…謝罪 2013年10月20日11時52分

東北大文学部の男性教授が、17日夜に行われたプロ野球クライマックスシリーズの楽天対ロッテ戦について、ツイッターで「(ロッテ本拠地の)千葉、滅びろ」などと投稿し、同大が「不適切発言」として厳重注意していたことが分かった

ガジェット通信 「マー君は神である」「神に逆らう不届きものめ!千葉、滅びろ!」 東北大学教授が『Twitter』で暴言 大学が謝罪 2013.10.18 23:35

 何やってんすか某先生。

先日は官僚がブログや『Twitter』で炎上したが、「今度は東北大学の教授か!」とうんざりする方も多いのではないだろうか。

 しかしまあ呑み屋さんで管まいたあげく狂乱するよーなもんであって,きわめてイタく情けなくいろいろ心配したくなってしまう事例であるが,まだしも洒落や冗談から相当逸脱してきつく叱り置かれて今後学内で生温かい目でみられまくりかつ全国紙で事情をさらされるレベルに落ち着いた模様なので,他のいくつかの例よりマシだと思う事にしようと自分を慰めてみる(眉間に皺をよせながら)。


毎日新聞 知床:「マナー守ろう」 カメラマンの危険行為で緊急声明 毎日新聞 2013年10月19日 00時21分(最終更新 10月19日 09時56分)

知床財団によると、北海道斜里(しゃり)町の岩尾別川では、遡上(そじょう)するサケ、マスを捕食するヒグマが出没。それ目当ての観光客やカメラマンも殺到している。9月中旬には、サケをくわえて道路へ出て来たクマを至近距離で撮影しようとわずか数メートルの距離で取り囲んだり、望遠レンズ越しで距離感を失い転倒したりするケースがあったという。9月18日には、「クマ寄せ」とみられるサケの死骸も見つかった
 
 マナーを守ろう,というより,命を守ろう,という話かなーとか。もちろん人間(撮影者)の命だ。

 野生動物を生で知らない人は気楽なようだ。いや私もナマで対峙してはいないが。とある小母さまが「イノシシくらいなら何とかなりません?」みたいにいうのに,私は「ダメ まける」と主張。

 だってねえ,中型(成獣になりきってないっぽい)サイズのイノシシでも,軽自動車一台と相討ちできちゃうのですよねー…(※廃車レベルで)。




 つっこみの一部に”例の件は毎日新聞の実質誤報”だとか突っ込みが入っているが,その毎日新聞の記事の段階で,

1次試験で大学入試センター試験を基にした新テストを創設。結果を点数グループでランク分けして学力水準の目安とする」(毎日新聞 国公立大入試:2次の学力試験廃止 人物評価重視に 2013年10月11日 07時00分(最終更新 10月11日 09時33分))

 とあるのである。
 この「点数グループでランク分け」するレンジが明らかでないのは問題だが(提言の段階で明言できる性質のものでもあるまい),例えば800点満点の試験をやって720点の人と120点の人が同じランクに入るかどうかというのは,常識の範囲内の問題だと思う。

 要は所謂「足切り」なのであって,「コミュ力」だけで入試を済ますわけではない。
 大卒者の就職に際して,所謂「コミュ力」が重視され,”遊び呆けていた奴”が”遊ばず努力した私”より”いいところ”に行くというのは(大学入試段階で基礎スペックでの足切りを済ましたうえで)超努力しないとついていけなかった者を落としたのだ,という話になるだろう(マスなデータ的には。個々の悲劇は置いておく)。

 そんなこんなで―毎日新聞記者の情報収集能力・処理能力に疑問点はあるとはいえ,一応論点の欠片ほどは示されている―記事に対して,どういう反応を示すか。そこに国語力が反映しはしないでしょうか,ということは考えてもいいと思う。

 少なくとも,毎日新聞でさえ,「人柄だけで試験します」とは明言していない。

 確かに,”800点のセンターテストで80点しか取れなかった有力者の息子/娘”が”人物で評価”され東大なり京都大なりに入学を許可される可能性は否定できない。

 だがその場合,あっという間に『今年度最悪のペイドライバー』だとかと,やり玉に挙げられることは予想の範囲内だろう(おそらくは,その実質がなくてもそう呼ばれるだろう)。

 承前:「 入試制度改革案へのメモ (毎日新聞報道による) 2013-10-11」


ある医療系大学長のつぼやき(「ある地方大学元学長のつぼやき」後継版) 加速する大学の2極化と地方大学(その5)ー政策決定者へ 2013年03月31日

18歳人口の減少に応じて国立大学数や学部・学科数を減らす場合、あるいは統合する場合には、その研究機能や産学連携機能が低下しないように減らすべきです。

 つまり、「研究費×研究者数×研究時間×研究者の能力」が低下しないように。

 そして高注目度論文数の生産性を高めるために、「選択と集中」とともに「種蒔き」「多様性」についても一定の規模を維持するべき。

 地方大学にも優秀な研究者が存在しており、その能力を最大限活用する仕組みを構築するべき。地方大学は、上位大学との間で人的ダイナミクスが働くので(つまり野球の2軍やサッカーのJ2のような役割)、上位大学の国際競争力向上のためにも必要なシステムです


 ではそれは本当に機能しているのかという疑問がわくことかとも思われる。

ある医療系大学長のつぼやき(「ある地方大学元学長のつぼやき」後継版) 加速する大学の2極化と地方大学(その4)ーではどうすればよいのか? 2013年03月29日

もちろん、旧帝大よりも地方大学の状況は厳しく、特に東大から、海外の研究機関で活躍され、日本の地方大学に赴任された先生が、研究予算の少なさ、研究時間の少なさなど、大学における研究環境の劣悪さを切実に訴えておられたのは印象的でしたね。旧帝大から優秀な先生が地方大学に赴任しても、その研究力が十分に発揮できずに感じる憤りや悲哀みたいなものを感じました

 それで諦めちゃえば,そこそこの高給がまあ確保されて先生様で生きていけるのだが,それでは面白くない。

 とはいえ,旧帝にいたころのような十分な活動はできず,それでもできることを探すと旧帝に戻れるような業績にはならず,詰む―というのが一般的なのかもなーとか。
 とりあえず,うちの同僚の一人はすっかり悲観的になっちゃってた。”脱出はほぼ不可能”と。

大学によって異なりますが、ある大学では1年間に大学から一人の教員に配分される教育研究費は20~30万円にすぎず、これでは、コピー代や、学会へ出席する費用だけで消えてしまいますね。科研費などの競争的研究費をとろうにも、それまでの研究実績が大きく審査に左右するので、応募することに必要なベースとなる研究もできない。おまけに、教員の定員は減らされているので、教育や雑用の負担はどんどんと増え、研究時間が減っていきます

 まあ,こういう事情。
 或いは,行政(なり,教育なり)の専門家としてヘッドハンティングされるというルートもないではないが。

 ちょっと厳し目のお話しと思えましたのは:

既存の学部について選択と集中をするというのは、学長にとってもなかなか難しいと思います。具体的には、たとえば、独立大学院や、理研あるいは産総研のような仕組みの、学部教授会とはガバナンスが別枠の全学的な研究センター、あるいは産学連携センターを作ることが考えられます。研究力のある先生はそこで一定期間90%の時間を研究に専念していただく。そして、研究力がないということであれば、申し訳ないけれども学部に戻っていただいて、教育に専念をしていただく

 …つまりうちの学科の場合,今,彼がアレであるところ,交替の時期がきたら私がアレになるってことだろうか,とか。いや確かに今の1.5倍くらいには業績は上がるだろうが。

 そして,現実的には,たぶん現実的には私か彼かがアレを交替で務めることになる(もし,我々がこのまま本学に居残る場合)。

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