…「定員割れが続く大学に対して、政府がリストラを促し始めた。大学の講義や教授の研究活動のレベル、学生の就職率を評価して、点数が低い大学には補助金を給付しないことにしたのだ」
これだけ抜き出すと,我が国のこととも思えて戦々恐々というところだが,韓国での話と言う。
リストラの際,評価基準は学生の就職率に置かれる由。就職率が低ければ倍率も下がり―というわけで
「大学側は政府による評価をなんとか高めようと、就職率が低い人文学部――国文学科(韓国文学)や哲学科――ほか、絵画科といった人文学部と芸術学部を廃止し始めた」
…まあ…安易な手だが,それだけに数字に反映するという意味での即効性はあるかなあ…。ジャンプ方式みたいだが,しかし漫画だって適切な不人気さんがいてこそ人気者が映えるのではとか思わなくも。
ただ,上掲の学科たちは,なんというか何だなあということは(我ながら)思うが
「6月末には、ソウル市にある名門大学も次々に、就職率が低い学科の廃止を発表し始めた。フランス文学科、ドイツ文学科、哲学科、比較民俗学科、福祉学科、物理学科などを廃止し、その分の新入生枠を就職率の高い経営学科に回すという」
いや,あまり福祉学科を削ると10~20年後の老人(こーゆー政策をいま現にやってる人たちがそうなるわけだが)が困るし,物理学科を削ると,脳の訓練の有力な場所が一つ減るというかノーベル賞の花形分野の一つだったりしないかとか。
さらに困るのは
「朴槿恵大統領が旗を振るICT(情報通信技術)政策をチャンスと見て、コンピュータ工学部を廃止してソフトウェア工学部や情報セキュリティ工学部を新設し、就職率を上げようとする大学もある」
その手は10年前に打っておくべきでしたよねというか,大統領の政策に応じて学部改廃というのは,戦略をたてる際のタイムスパンの取り方に問題がというか。
「廃止が決まった地方大学の絵画学科の学生らは「ピカソが就職したことあるのか」「芸術を就職率で判断するな」と、大学の外で廃止撤回を求める集会を始めた」
それに対しては『で,ピカソは出ていらっしゃいましたか』『今太閤ならぬ今ピカソにお会いしたいが,でどちらが』と聞かれるかとは思う。
日本でも”非実学”をやるのに多少風当たりを感じないでもない。そうした分野は,やはり,それなりに皆に余裕がないと存立が危ぶまれるだろう。私の分野だって,隣接の規模の大きい分野のおまけみたいな感じで生かしてもらってるような部分がある。
また,大学ごとにそれなりの色分けがないではなく―つまり宮城教育大学に(いくら教育学の古典,基礎だと主張しようと)西洋古典語講座がないといって非難する向きがあろうか。学科の配置には,それなりの偏りがあっても構わない(あって当然)ということだろう。取捨選択の基準は学生の就職率にある,という見解はどうかと思われるが。
…私の出身講座の地位は,学生の就職率が異常なほどよいことにも支えられてるかなと思うと,これも何だが。先生の出来の良さを証明する要素でもありますよね,それ。
メモの発端は:
@helpline @jyonaha 神学や哲学といった実学でないものからヨーロッパの大学は発生した。就職に直接結びつかない学問にこそ、大学における存在意義があるのに残念な傾向です。
― fighters008 (@fighters008) July 1, 2013
に対する
>RT いやヨーロッパの大学の起源は神学と法学であり、当時の人々は神学が実学でないとはこれっぽっちも思っていなかっただろうと思うわけなのだが。というか専門学部は神法医で、哲学はあくまでその導入コースですよ。もともとはね。
― Takehiro OHYA (@takehiroohya) July 1, 2013
である。
@fighters008 @jyonaha @helpline 私もそう思います。大学の評価が成果主義的だったり、大学を単なる経営の機関として捉えて競争の活性化が求められたりと、テンポラルな資本主義的な価値観が、学問の場である大学にまで適用されてしまうことに危機感を覚えます。
― たな/ Turner (@tanaturnertana) July 1, 2013
…その通りで,私としても外部研究資金を獲得することには疑問を感じる。だいたい,グローバルに国際的協業する人にお金をとかゆーているにもかかわらず私の計画を値切るのは(ry
閑話休題,『外部資金を取ってきているから,この人は研究している人だ』みたいな価値の逆転がおこりそうで気分はよくない。
でもなあ,ハバーマスに手を焼くホルクハイマーの気持ちもなあ…とか思うと,苦虫をかみつぶすような顔にもなるのである。
@fighters008 @helpline @jyonaha 「研究者」を完全に世俗的な職業として考えてしまうと、学問が「職人」の専売特許になってしまう恐れがあるんでしょう。
― 境界線上における生存戦略 (@ESCHATOLOGIA) July 1, 2013
@ESCHATOLOGIA @helpline @jyonaha 学問を「職人」の専売特許にしないために、市民に開かれた大学が存在しているのだと私は理解していますが・・。
― fighters008 (@fighters008) July 1, 2013
だから(最先端の共有は不可能ではあれ)新書や文庫が展開されるのですが,真っ当な学者の真っ当な本をあまりお買いになられないのでは,とか言いたくはなる。我が国はそれでも割とその種のもの・態度が根付いているかと思われるが,韓国ではどうだろう。
…割と悲観的な見解を用意する必要がある,と思われるのは:
韓国から帰ってきた院生から聞いた話。ソウル郊外の若い富裕層たちが住むマンションでは公用語が英語だそうです。韓国人同士が英語で話す。英語が話せないものは自動的に排除される。ここで言語は相互理解を深めるための道具ではなく、階層切断の道具になっています。
― 内田樹さん (@levinassien) 2013年4月26日
こんな話題だったり。学者に母国語でいろいろ展開する気がないのか,展開しても市場がないのか。むしろ後者であろうか,などと思えてしまう理由の一つである。
この,言語的な階層切断というのは恐怖であって,私としても,…ああ,韓国は滅びるのかなあとか思ってしまったことではある。もしか,このまま進んで英語化してしまったら…
その本来の言語が失われれば,その集団のアイデンティティの一つが揺らぐではないか。日本全国津々浦々で英語が話され,英語でなければ相互理解できなくなったら,それは果たして「日本」と呼び続けることができるだろうか。
言語はすぐれて政治的な装置です。英語が国際共通語であるのは、英米がほぼ200年にわたって世界の覇権国家であったことの結果です。英語話者は政治交渉も経済的なネゴシエーションも学術研究も母語で済ませることができる。国際共通語を学ぶ必要がない。これは圧倒的なアドバンテージです。
― 内田樹さん (@levinassien) 2013年4月26日
言語は政治的な装置であるばかりでなく,文化的な装置でもあること。
非英語話者にはじめから大きな学習上のハンディが課されており、「勝つ者が勝ち続けられるように」ゲームの規則がつくられている。それが現実である以上、非英語圏の、敗戦国としては素直にルールを認めるしかありません。でも、「これはフェアなゲームじゃない」ということは言い続ける必要がある。
― 内田樹さん (@levinassien) 2013年4月26日
ポストコロニアルスタディーズは、それを重視している。だが英語だけでなく、帝国ー被植民地の関係性と読み替えるべきでもある。日本も不一時期、日本語帝国にする事でゲームを行ったし。なお、先ほども書いたように、フェアなゲームじゃないって英語でうまく伝えるのむずい@levinassien
― 中尾知代 (Tomoyo NAKAO)さん (@tatitakumi) 2013年4月26日
これはある一面をとらえている。
政治的な面からとらえている点で,別種の説明を与えうる側面をおとしてはいるだろうけど。
日本語は,ある種,相当な文化語としてそれなりの確立をし終えたのだ。明治前後からの先人の努力のたまものである。
フェアな勝負では,これはなかった。「お雇い外国人」教授たちの存在があからさまにそれを示している。
うん,まあ,ちょっと考えてみただけではどうしようもない問題なので,これは単に備忘録にすぎないのだが―
そこで韓国の話に戻すが―高等教育を受けた層がするすると(何らかの意味で)「流出」して行くのを放置しては,これは百年の過失になるぞよと,そのように思うのである。
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