北海道新聞 <金曜カフェ>ジャーナリスト・津田大介さん あいち芸術祭 監督として 2019年07/08 05:00
「「やりたいことをかなり自由にやらせてもらっています。ほかの芸術祭と違って、あいちは事務局50~60人が全て県職員。普通はイベント制作会社や広告会社に投げることが多いはず。県職員の毎回3分の2が入れ替わる分、芸術監督に与えられている権限は大きい」」
ということで勝手をしたらしい。
「今、「アーティストとジャーナリズムの距離は近い」との思いが確信に変わりつつあるという。「例えば、今回参加するジェームズ・ブライドル(英国生まれ)は、ジャーナリストでありながら現代美術作品を作る」云々といい、自分(ジャーナリストであると主張)が関わることを正当化する意味もあろうが、しかし美術展監督としての資格・能力があったものかどうか。アートをするジャーナリストと言う能力・実績があったものかどうか。
「約80組の作家選びは当初、学芸員に任せるつもりだった。ところが、上がってきたリストを見て「ピンとこない。これはまずい」と方針転換。自ら決定権を握った。「僕はそういう(人の権利を奪う)タイプの人間ではありません。でも、そうしないと『情の時代』というテーマにこだわった内容にならないと思った。仕事は5倍くらい大変になったが、その方針のおかげで(参加作家の男女比を半々とする)ジェンダー平等も達成できました」」
つまり、アーティストとしてどうかと言う問題より、ジェンダーを優先した・ジェンダーを判定基準とした局面があったと推定され、まあ、それはそれで筋が違うよね、と。
「「それなら『日本初』を目玉に、とジェンダー平等に取り組んだ。」云々で問題点のありかのひとつがわかる。広報だ。広報の価値だ。だから、美術展の監督として有能だろうがなんだろうが、一般人ウケしそうなビッグネームをもってきたわけだろう。
―客寄せパンダだという実質を無視して監督様として君臨してしまったあたり、まあ、現代日本の病理というべきところであろう。
「歴代の芸術監督は、初代が詩人で美術評論家の建畠晢(たてはたあきら)・国立国際美術館長(当時)、2代目が五十嵐太郎・東北大大学院教授(建築評論)、3代目が港千尋(みなとちひろ)・多摩美大教授(写真評論)で、4代目のバトンを引き継いだ」
そういう状況で、なんで自分に話が―ということを謙虚に考えるべきだっただろう。つーかふつう、1~2期はおとなしくお御輿するとかしないか。
現実世界ではあれだけキメ細やかな流通を制御するセブンイレブンがネットだとアレなの、多分数十年前からある日本企業は多かれ少なかれみんなそんな感じなんだろうなあ。
— Daisuke Nakazawa (@diceken) 2019年8月4日
ソフトウェア人材の価値をなめ過ぎというか。
審査委員の鑑識眼を舐めすぎたんじゃろうなあ。
これの一番イヤな部分は、芸術祭の展示作品の選定の場で、学芸員が積み重ねてきた芸術の専門性を破棄して、金髪大介のモノサシによる政治表現に置き換えてしまった、つまり芸術表現の場を左派系言論人が乗っ取ってしまった点なんだよな。 https://t.co/lGrJ6O33ke
— 大杉 謙一 (@osugi1967) 2019年8月6日
専門人の知見を、とにかくまあ、あのての類のひとたちは無視しまくりますからな。
「アタシ馬鹿だから小難しいことは分かんないんだけどさぁ」みたいなスタンスのくせに、そんな自分の意見こそ頭でっかちな専門家が見失った物事の核心を突いてると信じてそうな人間がめっちゃ苦手。
— キキ (@kikinokotoba) 2019年6月25日
知ってた。トランプを上手く転がす理屈見つけないと、政策をプッシュできない。専門家の知見とか余裕でスルーするからな。 https://t.co/Jh5RQfJkjP
— Terra生まれの12さん (@DaichiNotGaea) 2019年5月25日
この点で、世間の人たち(たとえばこの津田という人物など)はふつートランプのお仲間なのだ。自分はより上位の知性をもっていて、ほかの個々の領域の専門家たちとやらの個別知識を差配してやろう、という。しかしトランプほどの器量は、まあ、なかなかもてるわけではなく持っているわけでもなく…。
…あれはあれで、相当のタマだからなあ、トランプ氏。
北海道新聞の記事に「津田氏は約80組の作家選びは当初、学芸員に任せるつもりだったが、上がってきたリストを見て「ピンとこない。これはまずい」と方針転換。自ら決定権を握った」と書いてあります。自ら慰安婦像や天皇侮辱作品にすり替えたみたいです。https://t.co/E274cL6eiL
— はちみつ好き (@honeyluv411) 2019年8月5日
なるほど、キュレーションをド素人が乗っ取ったわけだ。そんな芸術展が成り立つわけがない。東京のアホが地方都市の文化事業を潰した瞬間だ。#あいちトリエンナーレ2019 #表現の不自由展・その後
— SingleCarb@六四天安門事件~30年 (@SingleCarb) 2019年8月5日
「東京のアホが地方都市の文化事業を潰した瞬間」。震災のときにも多々あったらしいテーマである。東京から発せられる復興予算をコンサルタント業務で吸い取っていく、という図式。
これのどこが芸術なんだろう?どこにも美意識を感じられない.ただただ醜悪なプロパガンダの構造物.旧共産圏のポロパガンダアートには,政治的メッセージだけではなく,なんとも言えない美意識を感じられた(結構好きなのもある).現代アートって,これほど醜悪なものをアートとするの?
— Arist44 (@Bowlriver) 2019年8月6日
今回のは、表現ではありますが(それゆえ一定の保護が必要ですが)、アート(芸術)とは言えませんね。
— 大杉 謙一 (@osugi1967) 2019年8月6日
旧共産圏のプロパガンダアートは、ある種「体制側」であるがゆえの余裕があったのかもしれませんね。
素人目線を忘れているよ、ということはいえる。
旧共産圏のプロパガンダ・アートを思い出して欲しい。(現実的には嘘やありえないファンタジーや純粋な夢想だの、まあそんなもんだとしても、一応仮にも、少なくとも)あるべき・あってほしい素敵な未来へ力を結集しよう!という立派なお題目があったはずだ。
いやまあ、”鬼畜ファシストから妻や娘を防衛せよ!”というのだと、まあ、その、鬼畜ドイツ兵を描いていたりで醜悪かもしれないが、しかし護るべき価値をアピールはするわけだ。
ヒトラー時代の”退廃芸術”にも、なんというか、行き詰った感のある芸術シーンをどうにかしようという試行錯誤の苦悩を感じることができはしないか。
今回の例の場合は、あまりにヘイトに偏りすぎ、「日本人に反省を求めたい」というような、それはそれで前向きな方向に向きづらい(非常に雑にとりやめになったりしたあたりは反省点だが、それは作品自体の勝ちと関わらない)。そこが問題―下手すぎるというのもまあともかく、その下手さも、単に憎しみをなげつけるためのぞんざいさといったあたりに見えちゃうあたり。
全体を見たわけではないので断片に対しての印象だけど、これ「不自由な表現」だね。金髪大介が展示作品を直に選んだというので、彼が芸術表現に関心がなく、政治表現にしか関心を持たないことが分かる。
— 大杉 謙一 (@osugi1967) 2019年8月6日
価値観は人の数だけあるけど、多くの人間の感情をここまで逆なでするのはちょっとね。 https://t.co/HS1vcdc9yL
『時代(とき)の肖像-絶滅危惧種 idiot JAPANICA 円墳』
— 加賀@ぬ地域 (@KagaJPN) 2019年8月3日
作者曰く「馬鹿な日本人の墓」
・上に特攻隊が寄せ書きした日の丸
・中に星条旗
・周りに「日本は病気」「靖国神社参拝反対」「右傾化阻止」
特定秘密保護法や日本版NSCなどの新聞記事#あいちトリエンナーレを支持しません pic.twitter.com/RMOpEvI6qo
単に下手、ということでよいのでは。
特攻隊員の日章旗(レプリカ)を使うなら、それで責任者たる高級軍人の銅像の顔のところを包む、で既にメッセージ性高いものになるだろうけど。つまりまあ、そうした死者の陰に隠れた者たち、そうした死者の自己犠牲を利用した者たち、という意味で。類例多数ありそうだが。
表現の不自由展の件。
— モトケン (@motoken_tw) 2019年8月6日
個人的には(全部見た訳ではないけど)芸術だとかアートとは思わない。
しかし、表現であることは認める。だから表現の自由の範疇の問題ではある。
しかし、あんなものを国際芸術祭に出展した芸術監督とあんな人を芸術監督に選任した人たちのセンスを疑う。
個人の感想です(^^)
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます