「龍造寺隆信終焉の地」、「沖田畷古戦場跡」
この案内の看板の横を、私は高校時代の3年間、毎日のように自転車で通っていた。しかし、龍造寺隆信も沖田畷の文字も記号でしかなく、その読み方さえ気に留めることはなかった。40年も前のことである。もし、あの頃島原市北門町にある沖田畷(おきたなわて)古戦場跡を訪れていたら、荒涼とした松原に戦の名残を感じ、諸行無常の感慨にひたることができたかも知れない。あの頃のあのあたりは、まだ何もない荒れ地だったような気がする。今は工場や大型店舗が建ち並び、そのすき間にぽつんと、取り残されたかのようにかって戦場であったことを物語る供養塔だけが佇んでいる。
龍造寺隆信を知ったのは滝口康彦氏の小説を読んでからである。氏のいろいろな作品に龍造寺の名前が多く出てくる。また、今私が住んでいる諫早は、龍造寺氏と関係が深い。江戸時代に諫早を治めていた諫早氏は龍造寺氏が姓を改めたものだ。
五州二島の太守とその勢力を誇っていた龍造寺氏は、1584年の沖田畷の戦いで隆信が戦死して以降衰退の一途をたどるが、1587年太閤の命で伊佐早の西郷氏を滅ぼし、替わって伊佐早の地を与えられ2万6千石の主となることができた。しかし、元は龍造寺の家臣でありながらその領地を横取りした鍋島氏が新しい領主となると、いつまでも主家である龍造寺を名乗るわけいかずに、1611年に龍造寺家晴は諫早家晴と名前を改めたのは歴史の事実である。なおこの時、地名も読み方は同じだが、「伊佐早」から「諫早」に変わっている。
時は流れ1869年、諫早氏16代当主・諫早一学氏が諫早市高来町にある和同寺に龍造寺隆信の墓碑を建立した。和同寺は、沖田畷で戦死した隆信の遺体を荼毘したところと言い伝えられている。
諫早市高来町にある和同寺
その裏手にある龍造寺隆信の墓碑
ここ和同寺からは、海をへだて、隆信が戦死した島原の山を遠く望むことができる
この案内の看板の横を、私は高校時代の3年間、毎日のように自転車で通っていた。しかし、龍造寺隆信も沖田畷の文字も記号でしかなく、その読み方さえ気に留めることはなかった。40年も前のことである。もし、あの頃島原市北門町にある沖田畷(おきたなわて)古戦場跡を訪れていたら、荒涼とした松原に戦の名残を感じ、諸行無常の感慨にひたることができたかも知れない。あの頃のあのあたりは、まだ何もない荒れ地だったような気がする。今は工場や大型店舗が建ち並び、そのすき間にぽつんと、取り残されたかのようにかって戦場であったことを物語る供養塔だけが佇んでいる。
龍造寺隆信を知ったのは滝口康彦氏の小説を読んでからである。氏のいろいろな作品に龍造寺の名前が多く出てくる。また、今私が住んでいる諫早は、龍造寺氏と関係が深い。江戸時代に諫早を治めていた諫早氏は龍造寺氏が姓を改めたものだ。
五州二島の太守とその勢力を誇っていた龍造寺氏は、1584年の沖田畷の戦いで隆信が戦死して以降衰退の一途をたどるが、1587年太閤の命で伊佐早の西郷氏を滅ぼし、替わって伊佐早の地を与えられ2万6千石の主となることができた。しかし、元は龍造寺の家臣でありながらその領地を横取りした鍋島氏が新しい領主となると、いつまでも主家である龍造寺を名乗るわけいかずに、1611年に龍造寺家晴は諫早家晴と名前を改めたのは歴史の事実である。なおこの時、地名も読み方は同じだが、「伊佐早」から「諫早」に変わっている。
時は流れ1869年、諫早氏16代当主・諫早一学氏が諫早市高来町にある和同寺に龍造寺隆信の墓碑を建立した。和同寺は、沖田畷で戦死した隆信の遺体を荼毘したところと言い伝えられている。
諫早市高来町にある和同寺
その裏手にある龍造寺隆信の墓碑
ここ和同寺からは、海をへだて、隆信が戦死した島原の山を遠く望むことができる